ヴァサラ戦記非公式外伝《拳神伝》エピソードオブファンファン 第二・五話

注意書―今回、ファンファンの出番はありません。ごめんなさいね。




「く~だらねぇと~、つ~ぶやいてぇ~//」
その男―クガイは、明らかに泥酔していた。
「冷めた面ァ~して歩ぅ~くぅ~…っと…//」
何だかご機嫌に、少なくとも、この時代のこの国には有る筈が無い歌を、大声でご機嫌に歌いながら、ふらふらとした千鳥足で繁華街を歩いていた。
アルコールが回っているのは当然脳味噌だけでは無いらしく、顔も紅潮している。
この男を知る人物からすれば其処まで珍しい事では無いかも知れないが、今日は朝からずっと飲み続けている。現在は夕方頃であるから、ざっと十時間強。何軒もハシゴして、
酒を身体に注ぎ続けた。仕事がある日にはほどほどに控えているのだが、(そんなろくでなしは、変わり者が多いとされる彼が所属している組織でも、たった二人しかいない。)
ハッキリ言って、彼は“終わっている”サイドの人間であった。それでも彼がギリギリのラインで致命的に見放されてはいないのは、
ひとえに彼の戦闘力の高さ、もしかすると整っている顔もあるのかもしれない。(想像を絶する程に酒臭い為、女性陣からの好感度等、あって無いような物であるが。)
何とか映えする最新のド派手わたあめみたいな、紫と白銀のグラデーションの髪を掻きむしって、何を思い立ったのか、彼は往来のど真ん中で、不意に歩みを止めた。
「…っとぉ!危ない!ぶつかる所だったぜ…」
後ろから声がした。振り向いて見ると、そこには短髪の少年がよろけていた。クガイのすぐ後ろを歩いていたので、急に立ち止まった彼の背中にぶつかりそうになった。そんな所だろうか。見たところ、年齢は十代の中頃から後半の様だ。クガイは驚いた。
腰に剣を差していた。何故だか妙に様になっているから、騎士か何かのごっこ遊びでは無さそうである。面構えも、そう遠くない将来に大成しそうな、まだ未熟ながら独特の覇気の様な物を纏っている。
―もしかすると、俺と同じヴァサラ軍かな?
そう一度考えてみると、何処かでこの少年を見たことがある様な気がしたが、所詮は曖昧なへべれけ酒飲みの脳味噌である。
名前など思い出せる訳が無かった。
「えっと…何処かで俺、君と会った事ある?」
クガイが訪ねると、
「え?どうかな…。俺、あんまり人の顔覚えねーからよ。おっさん、ヴァサラ軍の隊員?」
まだおっさんと呼ばれる様な年齢ではないクガイだが、この少年には不思議と腹が立たなかった。彼にも、悪気が有りそうには決して見えない。
「あぁ…。そうだけど。」
「だったら、俺の顔は覚えといたが良いぜ!」
少年は鼻の下を手の甲で勢い良く擦り、
「俺、近い内にこの国の覇王になるからよ!」
そう、自信満々に言って見せた。クガイと少年の周囲に居た、何人かの人間が笑った。
「…おい何だよ!俺は本気だぜ!」
クガイは少年を笑う、彼等の気持ちも分からなくは無かった。この国での覇王と言えば、それは総督―ヴァサラの事である。下級民の出身でありながら、己の腕だけで国軍の将軍にまで登り詰め、悪政を働く先代の王を討ち取り、幾つもの乱を平定したカリスマ。
この国の大英雄ヴァサラを超えて見せると、少年はそう、堂々と宣言したのである。
普通の考え方であれば、無謀極まりない、幼い子供ですら思い付かない程の夢だ。
しかし、クガイは少年を笑わなかった。
マトモに脳味噌が機能していないからこそ、
思考が働かないからこそ、見えてくる本質もある。それは頭で考える物ではなくて、魂で感じ取る物だ。少なくとも、少年の真っ直ぐな瞳には、大志を成し遂げる希望と、無限大に広がる可能性を感じた。
「頑張れよ。お前はやれそうな気がすりゅ。」
呂律が回っていないので決まらなかったが、
クガイは少年の肩を叩いて、そう呟いた。
「…酒臭ッ!……あ、俺早く行かねぇと!ラショウの野郎に呼び出されてるんだった!!
やべぇ!急がないとボコボコにされちまうかも知んねぇ!…あ、ありがとよ!おっさん!」
一瞬、露骨に嫌がる表情を見せたが、感謝を告げて走り去っていく少年の背中には、何処か爽やかで、そして力強い追い風が吹いている様な、そんな気がした。
クガイは少年のこれからの事を少しだけ想像し、それから直ぐに首を振って打ち消す。
少年の此れからは、彼自身が描く物語だ。
それを決めるのは他の誰でも無い。特に、ろくでなしの酔っぱらいである自分には、やや荷が重そうである。
クガイはフッと、微笑んだ。
そしてまた、歩き出す。
「次は何処の店かな…」
空を見上げる。西の空から昇ってくる月は、満月になるには幾日か足りそうにない。
さっきの少年の夢に一杯。
今宵の肴は、それだけで良いだろう。
と、すると。店は何処にしようか。
酔っ払い故の堂々巡りであるが、クガイにそんな事は分からない。また当て所無く、彼は歩みを進める事にした。
何分程思考止めて歩いていたか。気付けば、クガイは繁華街の出口に差し掛かっていた。
そうだ、街からは少し外れるが、ベニバナの酒場なんてどうだろう。
料理は美味いし、酒も意外と安い。唯一の欠点は客層がやや“終わっている”ことだが、
(クガイ程ではない)店主が驚く程の別嬪だ。
初めてあの店に行った時は、間違いなく過去一番の悪酔いで、前後不覚のどろどろであったのにも関わらず、店主の顔を見るなり、一気に酔いが覚めてしまったのだ。そんな事は年に一度有るかどうかだが、クガイをして、
殆どシラフ状態にされてしまったのである。
その晩は酒の当ても頼まず、アルコールのせいでは無い不思議な酩酊状態で、店主の横顔を盗み見ながら酒を飲んだのであった。
それからは、どうなったのだろう。何か些細な発言で店主の機嫌を損ねて、顔を殴られた気もするし、いきなり水をぶっかけられた気もする。ボコボコにされて、店から閉め出されたんだっけ?よく覚えていなかった。
そんな事が珍しく無い人なんだ。あの店主。
名前は…何だっけ。忘れた。
うん。其処で良いや。其処にしよう。
繁華街を抜けると、あまり人が寄り付かない場所に行き着く。ベニバナの酒場は、その道を進んだ所にあるのだ。人があまり通らない道だから、綺麗に舗装もされていない。
整備されていないから、まるで繁華街との境界線かの様に、石畳が途切れている場所があるのだ。一般人が要も無く、一人で安心して来るのはここまで。
街の人間達の中での、暗黙の了解みたいな物である。そんな法律も決まりもないのに、
夕方以降は皆それを守る。
勿論クガイは屈強なヴァサラ軍の兵士で、
しかも中でもそこそこ腕が立つ方だ。
だからそんな事は意識すらしていない。
「…ん?」
何と無く、嫌な予感がした。これからこの境目の先で、自分の目指す先で、何か良くない出来事が起こる様な、そんな不吉な予感だ。
血に飢えた、―戦いに飢えた、狂った一匹の獣。それか、化け物。そんな奴がいきなり現れて、好き放題に暴れて行きそうだ。
勿論根拠など、無い。だが、クガイの感は…特に不吉な物ほど、不思議と良く当たる。
「止めておこう。うん。」
クガイは思い切って、踵を返した。
判断が早い所が、俺の良い所だよな。うん。
今度は繁華街方向に戻って、少々歩く。
いきなり、横から声を掛けられた。
「お兄さん、お兄さん。」
「ん、何か?」
如何にも遊んでいそうな、派手な髪色の若い男だった。そう不細工でも無いが、表情や瞳に知性や品はあまり無い。
「飲める所探してるっしょ?ね?違う?」
「うんまぁ…そうだね。」
クガイは面倒そうに返す。
「ね、そうだ。どう?二時間飲み放題で、
五千ポッキリ。どう?」
「いや、金無くてさ。」
あしらおうとしたが、
「分かった。二時間で三千。どう?可愛い女の子もいるよ?お兄さんカッコいいから、滅茶苦茶モテちゃうかも。どう?」
「よっしゃ行こう。」
その快諾は、どちらの発言を元にした物であろうか。取り敢えずクガイは即決した。
男に案内されるまま、クガイは建物の中に入っていった。店は、階段を下りて、その地下にあった。
照明はほどほどに暗く、酒を飲むにはなかなか悪くない雰囲気である。
クガイは幾つかツマミと、冷えたビール一杯注文した。それらがクガイのテーブルに届くのと同時に、店の女の子が一人、クガイの横のソファー席に座った。
濃い化粧だったが、女はそこそこの美人と言っても良かった。クガイが何を話しても、独特のやや鼻に付く、甲高い声で笑った。
愛想笑いかは分からないが、キャッチの男と同様に、あまり品と知性は感じられない。
ビールが三杯目になった頃か。店に薦められて、女の子にも一杯奢った。ジョッキの残りが三割を切ったので、そろそろ四杯目を注文しようとしたその時。
店のドアが開いた。
誰かが入店して来たのだ。クガイが案内された時はまだ誰も客が居なかったから、今夜で二人目の客だろう。
クガイはウェイターを呼ぶ為に挙げようとした手を、中途半端にフリーズさせた。
もう片方の手は、一気に中身を飲み干そうとして持っていたジョッキを取り落としてしまい、床に落ちたそれが割れて砕けた。
クガイは目を奪われていた。先日、ベニバナの酒場を訪れた時の様に。
二人目の客は、美女だった。
割ったジョッキの事や床にぶちまけた中身の事は気にも止めず。
クガイは美女に視線を奪われていた。
髪は水色。腰に届くかどうかといったロングヘアーだ。前髪で、左目が隠れている。
丈が長い、青い東洋風のドレス…(我々の言葉で言うのならチャイナドレス)のスリットから覗く白い脚は細過ぎず、しかし一切外見を害さない程に肉がついているが、よく締まっていて眩しい位に綺麗だった。
もしかすると、ベニバナの酒場の店主と同じ位の美人かも知れない―ただ、髪色も脚の露出がある所も、完全に対照的と言って良い。
あの店主は、顔以外の肌を全く出す事が無いからだ。ただの一度もだ。喩え真夏でも汗をかかずに、長袖の服を着ている。
二人に共通点があるとするならば、それは纏っている雰囲気が近しい事だ。
美女の瞳は青い。あの店主の瞳を誰かがルビーに喩えていたから、それに倣って表現すると、彼女の瞳はサファイアに見える。
何処と無く人を寄せ付けない、冷気を纏った様な輝きを放っている。
店主は見る者を焼く様な高圧さ。
美女は見る者を凍てつかせる様な冷たさ。
ベクトルは異なるが、鋭さだけは等しい。
ふと横を見やると、店の女の子も目と口を大きく開いて、美女の姿に釘付けだった。
数秒、店内は静寂に包まれた。彼女の圧倒的な存在感と、冷たくも心地好い様な不思議な雰囲気とプレッシャーに、店員も含めた全員が呑まれて、時を止められていたのだ。
―再び店内の時間が動き出したのは。
店内をぐるりと見回した美女がクガイの目の前まで歩いて来て、呆然とする彼に向かって
「…?」
と、文字に表現出来ない声を発して、首を傾げた瞬間だった。
それが何を意図しているのか、クガイには数秒間分からなかったが、心臓の高鳴りがやや収まってから漸く、
「…あ、席?空いてるよ。」
と、テーブルを挟んで自分の前にあるソファー席を手で示して、回答を出した。
「…ン。」
美女はまた言葉ではない声を出して、クガイの了承に対しての感謝を、軽く頷いて示す。
顔がそこそこ整っているし、並の遊び人より女性慣れしているクガイだったが、不思議と目の前に座っているこの美女に対しては、何故か初心な少年の様に緊張してしまうのだ。
「…。」
「…。」
また数秒間、無言の時間が生まれた。
クガイは不思議な緊張感を覚えているし、美女はわざわざ確認を取って座ったのに、何故だか全く話し掛けてこない。
「あ…」
クガイの隣の、店の女の子が思い付いた様に声を上げた。
「えっと、お知り合い―?」
「…いや、えっと、初対面だけど…」
クガイは否定した。こんな特徴的な―しかも
美女を忘れる筈が無い。
いや、こんな風に個人を認識している時点で
クガイの酔いは、やや覚めていた。
人の美しさに意識を叩き起こされるのは、
酒場の主人以来、彼女で二人目だった。
「…。」
青い美女は既にクガイが答えた質問に対しても、まだ首を捻っている。
店の女の子は、問いを投げた時からずっと視線を向けられていた。その緊張感からか、
彼女はプレッシャーに耐えかねて、店側の人間である事を活かし、逃げる様にカウンターの向こうへと消えて行ってしまった。
それとバトンタッチする様に、今度はウェイターが現れる。まだ入店してから何も頼んでいない美女に、注文を取りに来たのだ。
「ご注文はどうなさいます?」
「……。…?」
彼女は再び、首を傾げた。それからまた数秒の間を開けて、察した様に、クガイの空のジョッキと、少し残っている肴を指差した。
「…あ、ビールとナッツですね?」
ウェイターは意図を汲み取って、カウンターの奥に戻って行った。彼女は見慣れない物を見る様に、その背中を、視線で追っている。
クガイはテーブルを指先でトントンと叩いて
彼女に合図を送った。
彼女は振り向く。
「もしかして、喋れない?」
「…。」
返答に困っている様子なので、クガイは人差し指で順に自分の喉と口を指差してから、
目の前で両腕をクロスさせるジェスチャーをして見せた。
「…ン。」
美女はこの時点で漸く、初めて意図を理解出来た様に頷いた。今度は彼女がジェスチャーを始める。先ず左手でクガイを指差して、自分の口の前で右手を開いたり閉じたりした。
そのまま自分のこめかみをトントンと叩いてから、クガイの様に目の前で両腕をクロスさせる。
クガイは合点が行った。彼女は恐らく、上手く言葉が話せないのだ。反応を見るに、耳は聴こえている様だが、店員やクガイの発言の意味を理解していない。そして、自ら単語の一つも発していない。
これからクガイが導き出した解答は、彼女は失語症等では無く、単純にこの国の言語を全く習得していない。であった。
なるほど、そう思って顔をよく見てみると、彼女の顔立ちも瞳の色も、この国の人間には珍しい。美しさにばかり気を取られていたから気付かなかっただけで、どう見ても彼女は異国から来た人に違いなかった。
だったらジェスチャーを用いるのは至極当然の事であるが、それにしても、外見からはクールでやや冷淡な印象を受ける彼女が、身振り手振りでコミュニケーション図ったり、意図を理解した時に「…ン。」とだけ頷くのは、
何だか幼い様な感じがして可愛らしく、意図せずして堪らないギャップとなっていた。
ウェイターが、彼女にジョッキのビールと肴のナッツを持って来た。
仕草だけで礼を言って、彼女は一口飲んだ。
これまで余程疲れていたのか、彼女はそれだけで少しリラックスした様な表情を見せた。
ジョッキの中身は一割程しか減っていないのに、もう既に少し顔が赤い。
彼女は小さく息を吐いて、ジョッキを手にしたまま、テーブルに置かずにこう言った。
「…ツヨイ?」
かなりカタコトな発音だったが、クガイは、アルコールへの耐性の事か。と解釈した。
「どうかな…、そこそこあるのかも知れないけど、四六時中飲んでるから分からないな…」
そこまで言って、やっとクガイは思い出す。
そうか、言葉だけじゃ分からないんだ。と。
しかし細かいニュアンスをジェスチャーで伝えるのは難しいので、少々の謙遜の気持ちも込めて、人差し指と親指で摘まむ様な、
「少し」の仕草をした。
彼女は「…ン。」と頷いて、視線を下げた。
クガイは彼女ともう少し会話を続けていたかったので、自分の顔を指差して、
「クガイ。」と言った。
「クァイ?」首を傾げて彼女は聞き返す。
「ク・ガ・イ。」クガイはゆっくり大きな声でイントネーションを伝えた。
「クガイ。…ン。」
クガイを指差して、確認する様に彼女はそう言った。クガイが頷いたので、彼女も発音が合っている事を理解したのか、頷いた。
…正直、かなり可愛かった。
次は彼女が、自分の顔を指差す。
「…コン チュエ。」
聞き馴染みの無い、特殊な発音だった。彼女の母国語だろう。コンとチュエの間にほんの僅かな間がある。どちらかが名字だろう。
「コン チュエ。」
クガイが繰り返すと、彼女は頷いた。少しだけ、口角が上がっている。この僅かな問答だけで、二人の距離がそこそこ縮まった様な気がして、クガイは嬉しかった。
それから二人は、言葉が通じないながらも、
ジェスチャーやボディランゲージを用いて
会話を続けた。最初こそ苦労したが、次第に何と無く、相手の伝えたい内容が分かる様になっていった。彼女は祖国から海を渡ってやって来て、三人いた友人とはぐれてしまった様であった。指を折りながら、
「…レアン、…イェンニュウ、…シィエ」と、
恐らくは彼等の名前らしき言葉を呟いた。
クガイは難しい内容を伝えるにはジェスチャーだけでは厳しいと考えて、自分が国の為に剣で戦っていること、仕事中も酒ばかり飲んでいる事だけを伝える事にした。
彼女は大体理解出来た様で、思わず口に含んだビールを吹き出しそうになり、慌てて口元を手で抑え、急いで飲み込んだ後に、
「你有幽默感(ニー ヨウ ヨウ ムォ ガン)…」と、
顔を伏せながら机を叩いて、息を切らせて言ってくれた。言葉の意味こそ分からないが、クガイにとって彼女がそんな風に笑ってくれた事は、壁が少し取り払われた様な気がして
とても嬉しかった。デザートにアイスクリームを二つ注文した時は、一口食べただけで
彼女は目を丸くして、生まれて初めて味わったであろう、その美味しさに対する感動と驚きを表していた。外見から、年齢は二十代の半ばを少し過ぎたかどうか、だろうか。
それとのリアクションの大きさのギャップもまた、彼女を愛おしく感じさせた。
―二時間位であろうか。彼女との言語の無い会話に夢中になっていると、それ位の時間が経過していた。気付けばウェイターの男が、
伝票を持って席の傍らに立っていた。
そう言えば、飲み放題は二時間だったか。
クガイは恐らくそれを告げようとしたであろうウェイターを手で制して、
「いくらでしたっけ?」
と聞いた。彼女もあのキャッチの男の売り文句に呼ばれて来ていたとするなら…確か金額は二時間飲み放題で…3000だった。それを
×2して、6000だろうか。
「あ、お会計、135000に成ります。」
「え?」クガイは思わず聞き返す。
「ですから…」と、男は同じ料金を告げた。
飽くまで恭しい態度を崩さない男だったが、
酔っ払ったクガイでも、キャッチの男の台詞は完全に記憶している。
「…いや、キャッチの男に3000って言われたんですけどね。」
クガイは引き下がらない。当然、ただ一人で休日に飲む為だけに、そんな大金を持ち歩いている訳が無い。
「いやいや。うち、そんな男知らないしw
関係無いですよ。お客さんもしかして、嘘ついて金、ちょろまかすつもり?ww」
そんな訳が無い。店内まで、あの男に案内されて来たのだ。
クガイは壁を軽くノックする。一切の音が響かない。完全なる防音仕様であった。
そして、この店は建物の地下にある。
突き付けられている、明らかに法外な金額。
「…あー。そういう事。ボッタクリだ。」
クガイはそう、躊躇いなく呟いた。
「いやいや。ウチ、この値段でやらして貰ってますんで。払って貰わなきゃ困りますよ。」
男の表情から、笑みが消えていた。
「そんな金無いんで。払えないですけど。」
クガイは譲らない。
「あ…そう。じゃあ良いや。払う気がないんだったら、こっちも考えが有りますけど。」
男が指を鳴らした。
店の奥から、あからさまに柄が悪い男達が、四人ゾロゾロと現れた。その中には、店の前でキャッチをしていた若い男も居る。
「ね。払う気になるまで、痛い目見て貰おっかなー。お兄さん。」
ウェイターの格好をした男が言うと、チンピラ連中が下卑た笑いを浮かべた。
コンチュエは何が起こっているのかまだ理解出来ていないらしい。
―クガイはこの自身が置かれた状況に、欠片も怯えてなどいない。こんな阿漕で恐喝紛いの手法は、繁華街にはそう珍しい物でも無いし、そして何より、クガイは屈強なヴァサラ軍の兵士だ。一般隊員ならまだしも、極みも発動している指折りの強豪である。
その辺のチンピラ程度では、喩え100人居たとしても、怖くも脅威でも何とも無かった。
寧ろ、クガイは怒りを覚えていた。
異国の地で友人とはぐれて彷徨う女性を、ほとんど強引に店に連れ込む様な外道の真似をした事について、である。言葉もろくに話せない様な弱者に目を付けた報いは、必ず受けさせてやろうと思った。
クガイはソファーから立ち上がった。
「払う気無いよ。面倒だし、纏めて来なよ。」
「おいおい、女の前でカッコつけ」
そう言い掛けたウェイター服の顔面を、クガイは真っ直ぐぶん殴った。それほど力は込めていないが、鼻が潰れ、前歯が折れた様だ。
「て…てめ」
倒れて、鼻血を流しながらそう言う男の腹を
クガイは踏んだ。言葉の続きは無い。どうやら気絶したみたいだ。
次は二人同時に掛かってきた。左右から拳を出してくる。クガイは呆れた。日頃から戦場で戦う事を仕事にしている彼から見れば、
喧嘩慣れしたチンピラ程度の攻撃など遅い。そして連携が剰りにもお粗末である。
避ける事すら恥ずかしい程なので、クガイは両手でそれぞれを軽く受け止めた。
掴んだ拳をグッと引き寄せると、足をもつれさせながら、二人のチンピラが間抜け面を晒して近付いてくる。拳から手を放して、無防備な顔面にダブルのストレート。
二人揃って泡を吹いて仰向けに倒れた。
さて、と、クガイは残ったチンピラを見た。
片方は何とナイフを取り出し、コンチュエの喉元にそれを突き付け、人質にしていた。
「この卑怯者が…」
冷徹に吐き捨てるクガイだったが、危機を前にチンピラは恥も外聞も無いらしく、
「う、動くんじゃねぇ…!」
と必死な表情で声を上げる。
「て」
ゴキン。
抵抗したら刺すぞ、だろうか。
言い終わる所か、言い始める事すら、そのチンピラには許されなかった。
右手にナイフを持ち、左手でコンチュエの肩に後ろから腕を回していたチンピラの首が、
その時には真後ろに向いていた。
「あ…え?」
意味を成さない声を出し、明らかに可動域を超えて回れ右をしているチンピラの顎には、コンチュエの手が添えられている。
「ヒィッ……」
ナイフを持っていたチンピラが力無くうつ伏せに(顔だけは仰向けに)倒れ込むのと同時、
最後の一人になったチンピラは情けない声を上げて、その場に座り込んだ。
コンチュエはそんな小物には興味が無いのか目もくれず、クガイの方を見つめていた。
「クガイ。」
先程までの純粋な笑みとは別の種類の、無邪気ながらも狂気的な笑顔が其処にあった。
「クガイ、ツヨイ。」
一歩、コンチュエはクガイへ距離を詰めた。
「……。」
思わずクガイは身構える。
「コン チュエ。」
コンチュエは言った。自分の顔を指差して。
それから彼女はジェスチャーを解いた。
その代わりに、両手を開いて低く構える。
「拳仙(ケンシェン)―コン チュエ。」
にこりと、妖艶に笑った。


















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