人形作家の日記

「◯◯ちゃんはお人形さんみたいね」
うん。ママ。わたしね、お人形さんみたいにね、とってもとってもきれいなひとになるの。
ママはわたしがそういうとよろこぶ。わたしをたくさん、やさしくわらってなでてくれる。
だからわたしはママがすき。
ママはとってもきれいなひと。まちでいちばんきれいなひとで、かんばんむすめだったらしい。
かんばんむすめがなにかわからないけど、たぶんままがそうだったなら、きっとべっぴんさんっていみなんだとおもう。ままはきれいだから、おとこのひとはみんなママのことがすきだったんだって。
パパもそうだったって、ママがいってた。
わたしがしらないパパ。
わたしがしらないパパのことなのかな。
わたしは、パパをみたことがない。
わたしがいつももってるお人形さん、くまさんのお人形さんは、パパがわたしにくれたんだって。
パパはわたしがうまれてすぐにいなくなっちゃったって、ママがいってた。
ママはかなしそうなかおをする。
わたしがパパのことをきこうとすると、ママはとてもかなしそうな、つかれたかおをする。
だからわたしは、パパのはなしをきかない。
わたしはママがすき。きれいでべっぴんさんで、かんばんむすめだったママがすき。
ママのおりょうりがすき。ママのにおいがすき。
ママがかくえがすき。あぶらえっていって、えのぐでかくえのこと。ママのえはとてもじょうずで、とってもきれいにおそとのえをかく。
わたしははれてるひのえがいちばんすき。
パパはいないけど、わたしはへいき。わたしにはママがいればだいじょうぶだし、さびしくない。
ともだちのくまさんのお人形さんもいるから、いっしょにあそべばさびしくない。
いっしょにあそべば、さびしくなかった。
さびしくなかったから、パパなんていらない。
いらなかったのに。
わたしはパパなんていらなかったのに。
いらなかったのに。


「……困ったなぁ。」
馬車に揺られながら、わたしは深く息を吐いた。
一応は舗装されているとは言え、時々車輪が石を噛んだ時の弾みや、鞭を打たれ、勾配を駈けようと力む老馬の荒い息遣いが、せめてもの現実逃避をと目蓋を閉じるわたしを引き戻す。
生業としている人形作家がどうも奮わず、家賃を滞納する事約半年。
港町の美しい景色が窓から一望出来る、小高い丘にある建物の三階。住んでるだけで自然とインスピレーションが湧いて来るような良い部屋だった。
まぁ…湧いたとて、作品が数える程しか売れなかったから追い出されたのだが。そもそもわたしが普通に家賃を払っていたのは、初めのたった2ヶ月。
大家はかなりおおらかそうなオバサマだったが、安定した収入も見込めない小娘に対して、何ならかなり我慢してくれた方だと寧ろ感謝していた。
「どうしたものかなぁ…」
しかしどちらにしよ、今の自分は宿無しである。
大したアテも無いのにノープランで新天地を目指そうと馬車を飛ばしたので、これで家財道具を売り払ったなけなしの金も底を突いてしまった。
この馬車が行き着く先なんて知らないし、有り金全部を渡して、出来るだけ遠くまで走って貰っているだけなので、最悪荒野でほっぽり出される可能性だって十分過ぎるほどにある。
今は、中途半端な雨空で分かりづらいが、一応昼前の時間帯である。作ったサンドイッチなんかを原っぱかどこかで食べようと思ってたが、生憎の天気。
外で座ればお尻がビショビショになってピクニック気分もぶち壊しであろう。
……いや、それどころでは無い。
死ぬかも知れない。
わたしは弱い。凄く弱い。
インドアの人形作家。で、運動不足の文化人女子。
同世代の女性と比較しても抜きん出て非力。
もし森や荒野で猛獣と遭遇したら、まず間違いなく殺されてしまうだろう。それは、きっと相手が盗賊だったとしても同じ事だ。一文無しだから。
……もし運が良く、街の近くに着けたとして。
どうしようか。手荷物は、両腕で抱える程大きな旅行鞄に入った"これ"だけ。
勿論手放すつもりなんて毛頭無いが、きっと売ったとて大した金にもならないだろう。
金が無ければ何処にも住めない。
何処にも住めなければ雨風に晒されるし、訳の分からない病気になったり、野犬に襲われて死ぬ。
暴漢に襲われても死ぬ。酔っ払いに襲われても死ぬ。
仕事。仕事か。
賃金を得なければ家も無いし、食べ物も無い。
仕事を得なければ。
どうしよう。
わたしは学が無い。丸眼鏡を掛けている理由はシンプルに視力が低いから、だけだ。
だから頭脳労働は出来ない。資格も持ってない。
肉体労働も、肋が浮いているモヤシには向かない。
わたしは喘息持ちだし。
腕だってまるで枯れ木の様に細くて、利き手では無いけれど、左手は上手く力が入らない。
酒場の給仕みたいな接客業だって、いつ身に付いたのかも分からないへらへら病のせいで無理。
「………………。」
学も資格も無ければ体力も愛想も無い女が行き着く末路なんか、たった一つだろう。
「……娼婦、か。」
夜鷹とか、女郎とか、籠の鳥とか、花魁とか。
呼び方なんてどうでも良いけど、要は体を売る?
それが出来れば苦労しない。
あ、花魁は教養が無いとなれないんだった。
まぁ、良いか。他でも同じ事だし。
こんなに貧相な身体の女。誰が買うのか。
血色も悪いし、色気も無いし。
そして何よりも致命的な事にわたしは、性の匂い…いや、臭いを受け付けないのだ。
頭や精神の話ではない。
そことは仕方無い事だって、折り合いを付けてる。
わたしだって性から生まれた事は分かる。
男性が嫌いな訳じゃない。怖くも無いし、苦手意識も全く無い。女性に対してもそうだ。
でも、"そういう話を振られたり"、男女が路地裏で婬靡な言葉を囁やき合ってるのが耳に入ったり。
終いには純粋な愛を確かめようとする恋人のキスを見ただけでも、わたしは駄目だ。
全身に鳥肌が立ち、悪寒が駆け巡る。
動悸が張り裂けんばかりに強くなり、酷く鋭い頭痛に襲われる。上手く呼吸も出来なくなるし、腸が無限に収縮する様に渦巻いて、視界はモノクロになって点滅し、上下も分からない。暫く砂嵐の様な耳鳴りが残る。電極を付けた死に掛けの蛙みたいに痙攣して。膝はがくがく震えて。
胃の中身なんかマトモに無いのに吐きそうだ。

…いや、実を言うとわたしは知っているのだ。
このどうしようも無い吐き気の正体を。
こんな本を読んで貰った事がある。その小説の内容は確か、「朝目覚めたら毒虫になってましたよ。」みたいな感じだったのだが。
まさに、わたしの感じる病的な嫌悪感の正体はこれに違いないと。そう確信した。
話が少し逸れてしまったが、わたしの感覚的で抽象的で、偏執的な妄言の主張はこうである。
人は体内に毒虫を飼っているのだ。
それも、飛び切り醜い肥溜めの。
ムカデやゴキブリ、カマドウマなんかより醜い。
情慾が湧き立つと共に身を起こして、人の理性を飛ばしてしまう。生殖期がグロテスクなのは、毒虫の繁殖器官だからに違いない。昆虫だって土の中に挿し込むのに、人間は怒張したそれを人の身体の中に捩じ込んで、快楽を貪る様に腰を動かして、そして卵を奥深くに産み付けて果てるのだ。
わたしの吐き気は、わたしの中にも潜んでいる毒虫が他人の情慾に共鳴して肥大化してるんだろう。
それで、わたしが交尾にいつまでも協力しないものだから、卵膜を喰い破り、食道から無理矢理這い出ようと、左右で本数が非対称の脚を蠕動させて上がって来るんだ。自力で外に出ようとしてるんだ。
その後は抜け殻になったわたしの身体を、ぬたぬたとした肢体で弄んで犯すに違いない。わたしの伽藍堂に、また卵を産み付けるに違いない。
だからわたしは吐くのを我慢している。身を任せたが楽になれるのに、必死に必死に我慢している。
だけど、酸っぱい胃液と不快感を無理矢理喉奥に、体内に押し込んで戻そうとしても、殆んどは吐いてしまうのだ。あぁ、わたしはもう駄目だ。わたしは生きたまま毒虫の子産み壺になるんだ。そんな風に毎度飽きる事も無く絶望して、結局限界まで苦しんだ甲斐もなく、ぜんぶを吐き出してしまう。
で、わたしは少しだけ安堵するのだ。
良かった。今回は毒虫じゃなかった。ただの吐瀉物で良かった。あぁ、安心だ。
そしてその直ぐ後に、次こそは駄目だと震える。

勿論、わたしだってこんな事は妄想だと分かる。
しかし、こう考えるのが一番納得出来るのだから。
妄想だとしても現実と同じ質感を伴うのだから。
まぁ…なんだろう。愛だとか恋だとか。そういうのを掲げて"性欲だけじゃないんですよ"と言う主張も多く見る。飽きる程に多く聞いた。
そう考えるのは結構だし、きっと正しいのだろうけど、わたしの病気を治すには至っていない。
特に最悪なのは、小児性愛者とやらである。
如何に理由を付けようと最低だ。
合意があろうが純愛だろうが、互いが必要だろうがそうでなきゃ生きてられなかろうが、最低だ。
年端も行かない少女の肉体を犯す男を正当化する根拠なんて此の世に一つも有って良い筈が無い。
気持ち悪い。まだ毒虫も目覚めていない無垢な子供の身体を、己の欲望のままに貪るなんて。本当に救いようが無い位に気持ち悪い。
たまに思う。
どうしてこう思うんだろうと。
この"どうして"は切っ掛けの話であって、正しいかどうかが分からないという意味では無い。
思い出せなかった。
幼少期の事を思い出そうとしたら、決まって頭の中に靄が掛かった様になる。
だけどわたしはそれでも良い。
だって、わたしの人生はずっと明るくて楽しい物に決まっているからだ。思い出せないのは、その日々が記憶が飛ぶほど楽し過ぎたからに違いない。
そもそも、わたしの考えはわたしの考えだ。
正しいと思っているんだから、その根拠なんて、切っ掛けなんて要らない。ナンセンス極まりない。
わたしは幸せなんだ。幸せな家庭に生まれたんだ。
幸せに育てられて、幸せに愛を注がれて、幸せに遊んで、幸せに学んで、幸せに食卓を囲んで、幸せに眠って、何不自由なく幸せに幸せに幸せに幸せに幸せに幸せに幸せに幸せに幸せに幸せに幸せに幸せに幸せに幸せに。わたしは幸せなんだ。それで良い。
幸せに生きたけど、夢を追って家を出たんだ。
優しいお母さん幸せにも。幸せに少し頭は固いお幸せさんも、なんやかんやで幸せに芸術という厳しい道を選んだわたしの幸せに夢を幸せに、幸せに陰ながら応援幸せしてくれ幸せにてるに違いないんだ。
わたしは世界一幸せなんだ。
ただ何故だが、何にも思い出せないだけで。わたしは幸せなんだ。幸せな一人娘なんだ。
たまに幻なんか見えるけど、愛も恋も吐瀉物の素材か、情慾の毒虫を肥え太らせる為の餌にしか思えないけど、それも幸せ過ぎて、これ以上の幸せを身体が受け取れない位に満杯だからだ。
そうに決まってるんだ。わたしが幸せなんだからそれで良いんだ。誰に何を言われようと良いんだ。
幸せな一人娘は、夢を追って幸せな素敵な旦那さんと野良犬に内蔵を食われながら囲まれて、小さな教会で子供達に囲まれて純白のウェディングドレスにサプライズのプロポーズを受けて、嬉し涙を流して年老いて、それで生まれて来た子供にはなんて名前を付けようかな。幸せが良いな。幸せだとそうだわたしは幸せなんだから、そうなんだから絶対にそうだわたしは幸せなんだからピクニックにいってサンドイッチを頭が痛い毒虫のサンドイッチをビショビショになって幸せに馬車に揺られて新天地に
「お客さん。着きましたよ」
「…………。あぁ。ありがとうございます。」
わたしは鞄を抱えて、扉を開けたおじさんにお礼を言った。帽子を脱いで、ワンピースの裾なんかを摘んじゃって、お嬢様風に恭しく一礼。
「ちょっとだけサービスして、街の近くまで連れて来ましたよ。荒野なんかでほっぽり出して、野垂れ死にでもされたら気分が悪いんでね。」
「助かります。別に死んでも良いんですけど。」
わたしは去っていくおじさんと馬車に手を降って、
ちょうど気持ち悪いラインの雨の中を歩き出した。
がたがたの、水溜りだらけのあぜ道を。 
暫く経つと、急に眼の前に立て看板が出現した。
…あぁ。わたしがぼーっとしてただけか。
危うく顔をぶつける所だった。
『ゼラニウム街 最北端』と、書いている。
その先には、門が有った。門に見張りはいない。
門の更に先の景色は、気色悪かった。
真っ白に壁を塗られた、四角い建物。ひと目で病棟だと分かるそれが、狂った様に乱立している。
異常な事に窓が一つも無い。
ただでさえ、人間は外が見れない閉塞感には耐えられない。しかもそれが、身体や心を病んだ人間が収容される病棟だと言うのだ。
悪趣味を通り越して、非人道的だ。
人をまるで物置か倉庫の様に、ただ放り込んで置くかの様な設計だ。それか全部の部屋が死体安置所?
「……。ふふふっ…」
わたしは、そのユーモアを考え付いて少し可笑しくなった自分の感性を、とても気持ち悪いと思った。
病棟街には、誰もいなかった。
病棟だらけなのに、道はもぬけの殻。
病棟だけの、ゴーストタウン。
「……ふふっ…。」
友達に聴かせてやりたい位の、傑作だった。
わたしに不謹慎なジョークを聴いて笑ってくれる友達なんか、一人もいないんだけど。
うん、かなり耳を澄ましても、物音一つしない。
ホントに死体安置所なのかな。それとも、どれだけ絶叫しても外に洩れない位に防音加工されてる?
わたしはそんな事を思いながら、歩いた。
兎に角、人を探そうと。
どんな人と出逢うのだろうか。
抜け出した患者?それともお医者さんかな?
「この街に、普通に住める所がありますか?」
わたしはそう聞くんだ。
そんな事を考えてたら、遠くに人影が見えた。
「すみませーん。」
手を振る。
インドアが重い鞄を抱えて出せる最高速度で、10mほど走って、直ぐに息が上がって歩くことにした。
人影の正体は、看護師の女性だった。
看護師の制服を着ているから、そうなんだろう。
看護帽を被ってて、口元を布で覆っている。
「患者さんですか?」
間近で見て分かったが、彼女の目はバキバキだ。
瞳孔も心配な位にガン開きになっている。
わたしがそう見えるのかな。
まぁ、カンカン帽に白いワンピースだから、病弱なお嬢様に見えなくはないかも知れない。
「患者さんですか?」
また聞かれちゃった。よっぽど不健康そうなの?
どうしようか。わたし患者さんじゃないんだけど。
あ、でも良いか。
「受診ですか?」でも、「お見舞いですか?」
でも無くて、わたしが患者さんだと勘違いされてるってことは、タダで受けれるんだ。治療を。
前払いでもう会計済んでるなら、それがベスト。最終的にまとめて払う形なんだったら、トンズラ。
病院かぁ。そう言えば来るのは始めてだなぁ。
これはわたしにとって、ラッキーな勘違いだ。
どうせならお腹に飼ってる毒虫を殺して貰おう。
「頭って治せます?」


目ん玉バキバキな看護師さん連れられて(一言も口をきいてくれなかった。)、わたしは暫く歩かされた後に、一際大きな建物へと案内された。
その建物は病院街の真ん中辺り、喘息モヤシのわたしには登頂が絶望的な険しさの山道の先にあった。
これじゃ治療を受ける前に死んじゃうよなんて、半分以上本気のジョークなんて口にしたけど、看護師さんは聞こえてないのかって位のガン無視。
でも普通絶対気付かない様な隠し通路が存在し、そこに行けば部屋ごと勝手に上昇する未知の仕掛けがあったので、全然結果オーライだった。
ホントに良かった。大きくて重いカバンを持ちながらの登山なんて、わたしには無理に決まってるし。
ちょっとした浮遊感と言うか、内臓がちょっと持ち上がる不思議な感覚を、面白いな。でも少しだけ気持ち悪いな。なんて考えてたら、チーンと音がして仕掛け部屋の扉がひとりでに開いた。
看護師さんに有無を言わさぬ雰囲気で促されて、わたしは半ば強制的に仕掛け部屋から出る。
そこには、一本の通路があった。
明かりになる物が、一つとして無い不気味な通路。当然真っ暗で、自分のつま先さえぼやける程。
目の前に何があるのかも分からない。
振り返って見ると、仕掛け部屋の扉はもう既に閉まっていた。わたしは少し焦った。暗い所はそんなに好きじゃない。
だけれど、どれだけ声を掛けて扉を叩いても、看護師さんの応答は無かった。
仕掛け部屋が下に降りていく音が聞こえたので、きっとわたしは置いて行かれたのだろう。
カバンを一旦置いて、抉じ開けようと隙間を手探りで見付けたが、重たい鉄の扉はわたしの枯れ木の様な腕力では、当然の事ながらびくともしない。
「……はぁ。」
わたしの溜め息は、静寂の暗闇によく響いた。
タダより高い物は無い。それを身を以て知れたな。
わたしは逃亡を諦めて、大人しく進むとしよう。
くるりと潔く踵を返し、右手を伸ばして慎重に周囲を探る。取り敢えず近くには何も無さそう。
カニ歩きで道幅を測る。左右の間隔は…5m位。
壁はひんやりしてスベスベしている。軽くノック。
そんなに響かない。カツカツ言ってる。
ガラス…かな…?もう一方の壁もそうだった。
通路の左右の壁はきっとガラスなんだ。
でもただのガラスじゃなくて、何層にも重ねてある頑丈なガラス。わたしは職業柄素材に詳しいから、近い感触を知っていたのだ。
専門ではないけれど、硝子人形という物もあるし。
手を添えて歩いてみるけど、途切れる事無くずっとガラスの壁は続いていた。
信じられないな。こんなに大きなガラス、どうやって加工したんだろうか。それも、少なくとも左右でニ枚も。噂に聞く化学都市とやらの技術?
相当な値段がしたんだろうな、わたしの年収だと生涯分でも払えない値段なんだろうな。とか、思っていると、突き当りに辿り着いた。
今度は、……ちょっと違う感触だ。
長方形の、枠があって、大きな鉄板?
…あぁ。ドアか。鉄の。これはこれは頑丈そうな。
手の高さを探ってみると、ドアノブが見付かる。
捻って押すと、隙間から強い光が差し込んだ。

眩しさに目を細めながら部屋を見回すと、そこは白い壁の、清潔感のある部屋だった。
正面の棚には何だか分からない難しそうな本とか、難しそうな書類が整理されている。それがずらーーっと、壁一面に。向かって右は直ぐに壁なので、左に向かってそれが続いているのを目で追う。
「ハロー。」
そこには女性が、椅子に座って手を振っていた。
わたしも、倣って手を振り返す。
「こんにちは。」
ついでに膝に手を置いて、ぺこりと会釈もした。
黒い長髪を片側横流しにした、綺麗な女性だ。ちょっと入ってる赤いインナーカラーがカッコいい。
黒いシャツの上に丈の長い白衣。下は同じく黒いスラックス。縁のない眼鏡を掛けている。
頭が良さそう。わたしも薄いけど赤髪だし眼鏡なのに、偉い違いだ。洗練されてる。
ツヤツヤでサラサラだ。わたしはちょっと癖毛。
美意識の違いなのかな。と思う。
「キミ。患者じゃないな。」
女性は、指と脚を組んでわたしに問う。
…いや、違うな。
彼女の目は、…さっきの看護師さんみたいにバキバキで無機質な黒い目は、わたしの方向を見ているけど
……少し言葉遊びをすると診ているけど。
わたしという個人というか、人間を見ていない。
興味とか訝しみみたいな、感情が無かった。
例えばそこにある資料とか、壁に向けてる時でも、
同じ様にしているんだろうなって感じの、目。
蔑んでるって言う意味じゃなくて、彼女は文字通りの"物を見ている目"をしてるのだ。
それに、彼女の語尾に疑問符や確認を求める「?」のマークは付いていなかった。わたしが患者では無い事なんか聞くまでなく当然で。それを目の前に突き付けて追及する言い方だ。
「…はい。お医者様。わたしは初診です。」
わたしは潔く、認める事にした。
直感的に、この人を得意の詭弁や屁理屈で煙に巻く事は出来ないと確信したからである。
「ワタクシはラブカ。当院の院長。」
女性…いや、ラブカ氏は体を全く前に傾ける事なく、
垂直に立ち上がりながら名乗った。
それから後ろ手に背もたれを掴んで、キャスター付きの椅子を引き摺ってわたしに近付く。
勿論名乗りには、「よろしくね」ってフランクさは欠片も見当たらず、大した抑揚も無い。
ラブカ氏は10mほどの距離を一直線に詰めて来た。
歩幅が大きく、異様に一歩一歩が速い。
だけど急いでる様子は全く無くて、素足にサンダルを履いているから足音が無い。
それも正直言って、かなり不気味な印象を受ける。
更にこうして目の前に立たれると、意外なほどにラブカ氏は身長が高かった。
ヒールも履いていないのに、180cm位は有りそう。
でも座っている時に、彼女がそこまで大きく見えなかった理由は身体の比率であろう。
手足が長いのだ。普通の人よりも、全体に占める手足の比率が大きい。具体的に言うなれば、指先が自身の膝に届きそうだ。股下の長さも、90cmは有る。
その上痩せているので針金細工みたいな体である。
そう思っているとラブカ師は、唐突に左手を差し出して来た。袖口から覗く肌は病的に白かった。
わたしは握手を求められたのかと戸惑ったが、
「座り給え」
ラブカ氏はまた、抑揚の無い声で言った。
スワリタマエ?
わたしの目からその塗り潰した様な視線をこれまで通り外さないまま、手は椅子を差し示している。
それで漸く、座る事を勧めているのだと気付いた。
この椅子は、さっきまで彼女が掛けていた物だ。
部屋を見渡しても、どうやら他に椅子は無い様だ。
病院の診療室で…?たった一脚だけ?
「座り給え遠慮せずに」
一息に、言葉を全く区切る事なく氏は促す。
遠慮と言うか…わたしは正直、既にラブカ氏を若干警戒している。端的に怪しいからだ。
しかしまぁ…わたしは診察を受けに来た人間である。
何なら、少し会計をちょろまかそうともした。
ここであからさまに「嫌です」とも言えない。
外見は兎も角、状況で言えばわたしの方が圧倒的に不審である。雨に降られてびしょ濡れだし。
まぁ結局、わたしは少々の葛藤の末座る事にした。
ラブカ氏は、当然目の前に立ったままである。
高低差が広がり、彼女がよりずっと大きく見えた。
「症状は?」
ずいっと、氏は腰を曲げて顔を近付けて来た。舌を出せば頬を舐められそうな距離である。肌が陶器みたいにつるつるで若干非生物じみているが、よく見ると稀に…分に一度位のペースで瞬きをしている。どうやら辛うじて生き物である事は確認出来る様だ。
「名前、聞かないんですか。」
「ワタクシの仕事は人の名前を聞く事ではない。」
治す事が仕事であり、お前もそれを目的に来ているのだから、名前なんぞに興味は無い。なるほど。
「精神異常…って言えばいいんですか。性的な事…極端な話をすれば、愛情表現なんかへの嫌悪感です。」
ラブカ氏は、大きな黒目だけで右上を見た。
「……………。具体的には」
「なんて言うんですかね。自分の中から、…食道から芋虫が這い上がってくる、みたいな。」
「……そんな吐き気があると。他には。」
「頭が痛くなったり、ふらついたり。震えが抑えられなくなったり、…とか。」
氏は小さく、鼻から息を吸い込んで黙った。
「……。キミ、痩せているな。肌も白過ぎる。」
それから上体を真っ直ぐに起こして腰に手を当て、ちらりとわたしの全身を見回す。
わたしからすれば、貴方の方が痩せていて白いし、不健康に見えるのだけれど。
「満足に食べていないだろう。」
それはまぁ…そうだった。ここのところロクな食事を取れる様な金銭的余裕は無かったから。
「健全な精神は健全な肉体に、という言葉もある。キミの治療はもう幾分か健康になってからだ。」
氏は、わたしの額に指をとんと置いた。
「と言うより、それ自体がキミの治療を兼ねる。」
「はい。貴重なアドバイスありがとうございます。」
見た目に反して普通かつマトモな事を言われたもんだと思いながら、椅子ごとくるりと背を向ける。
「入院だ。」
釘を刺す様に、肩を掴まれた。




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