IFストーリー② 約束を守る女

一話

目を覚まし、カルノはベッドから体を起こした。
腕を伸ばせば届く位置に、カーテンがある。
開いて窓から外を覗くと、日はまだ昇っていない。
まぁ、時間的には却ってちょうど良い。
隣で眠る彼女を起こさない様に気を付けて、静かにベッドを抜け出して動きやすい服装に着替える。
カルノは一応、手紙にそう遠くない所へ出掛ける旨を書き留めて、すぅすぅと穏やかな寝息を立てる恋人の頬に、行ってきますのキスをした。

季節は夏。
と言っても、"うだる様な"なんて枕詞は似合わない位には過ごしやすい、至極快適な冷夏である。
それも早朝とあれば寧ろ少し肌寒い位で、走り込みをして軽く汗をかけば、風が心地良いほどだ。
人通りの極めて少ない、まだ大衆のほとんどが眠ったままの街を抜けて、山道の急勾配を駆け上がる。
疲れて空っぽになった肺に、新鮮で澄んだ空気が満たされる感覚は、いつだって生まれ変わった様な爽快さをもたらしてくれる。
額に薄く浮かんだ汗を手の甲で拭い、呼吸を整えながらゆっくりと長い石階段を登った先には、カルノがよく見知った山小屋と人物が立っていた。
「よぉ。来ると思ってたぜ。」
「師匠。」
師匠と呼ばれた男の名前はナラク。
年齢は四十を目前に控えているが、加齢による衰えなど欠片も感じさせない屈強な肉体である。
右頬から目に掛けて、縦に裂ける様な傷跡を歪ませて、彼を迎える笑みを浮かべていた。
「日も昇らない内から走り込みかよ。今日は非番なのか?まったく殊勝な心掛けだな。」
「うん。今日は"約束の日"だから。どうしてもこの日だけはって、総督にも頭下げて休み貰ったよ。」
ナラクはその言葉を受けて懐かしむ様に、腕を組んで静かに頷いた。
「…もう十年も経つのか。あれから。」
「うん。色々あったけど、ホントにあっという間。」
二人は数秒、遠い日の思い出を懐かしむ様な穏やかな表情を浮かべたかと思いきや、どちらからとも無く、自然に距離を詰め始めていた。
「…ぬかりねぇな。そういう腹積もりか?」
「うん。ウォーミングアップに付き合って欲しい。」
それぞれが、自分だけに都合の良い間合いを測り合っているため、どちらかが進めばどちらかが少し退き、一方が右に回ればもう一方が左に回った。
「流石二十代にして隊長を務めるホープさんだな。かつての師匠を準備運動に使おうなんて、随分とまぁ、お偉くなったモンだ。」
軽く雑談の様に言葉こそ交わしているが、一瞬でも気を抜けば先手を取られてしまう。
……苦笑して、カルノは応える。
「いやいや、勘違いしないで欲しいんだけど。僕はたまたま隊長格に複数の欠員が出て、そこに期待も込めて選んで貰っただけだよ。ただの穴埋め。それに師匠はまだ超えられる自信が無い。」
「俺を超えて無いのにアイツと戦うのか。」
ナラクもまた、カルノの言葉を苦笑で受けた。
「超えては無いけど、そこそこ良い感じにはやれるんじゃないかな。…まぁ、手の内を全く知られて無いからってのが、半分だけどさ。」
「隊長さんは随分と謙虚だな。」
「…まぁ、一番は経験不足が多いよ。僕は地獄の扱きのお陰で体力とかはかなり自信があるけど、判断力とか、咄嗟の対応力?みたいなのは、まだ。」
「他の隊長はどうなんだ?骨のある奴はいるか?」
「…いるね。骨が極端にある奴二人と、全くもって無いちゃらんぽらんな奴二人。あと彼女。と病人。」
「今度連れて来いよ。メンツが濃すぎるだろ。顔を見てみたい。……お前恋人いたのかよ。」
「失礼だな。いるよ。彼女の一人や二人…一人だけどさ。師匠言ってたじゃん。思いは伝えられる内に伝えなきゃ、絶対後悔するぞ。って。」
「言ったか?俺がそんなキザな事。」
「あれ?言わなかったっけ?…まぁ良いか。平行世界で聞いたアドバイスかも。」
「……?…まぁ、何にせよ。おめでたい事だな。結婚はまだしないのか?」
「もう同居してるし事実婚だね。でもちょっと待って貰ってる。式を挙げようって強く何度も言われてるんだけどさ。」
「さっさとしてやれよ。俺みたいにバツ付くぞ。」
「それだけはマジで嫌。てか、僕だってなるべく早く挙式したいよ。でもそうは行かないんだ。」
「そんな理由この世にあんのかよ。」
「……あるんだよね。その理由のせいで口と口のキスもちゃんと出来てない。」
「……。さっぱり分かんねぇな。愛する恋人とキスも出来なきゃ結婚も出来ない理由。」
「ちょっと事情が込み入ってて。彼女にも納得が行く説明が出来てないからはぐらかすのも限界でさ。」
「お前嘘下手だもんな。」
「…マジでそう。彼女も納得出来ないって御立腹。同期のクソ青髪なら、上手い言い訳の一つや二つでも出来るんだろうけどさ。」
「クソ青髪?」
「クソ青髪。そう呼ぶに相応しいクソなんだよ。でも、僕は言い訳出来なくて良かったよ。」
「…そりゃあまた、どうしてだ?」
「言い訳しないし、不器用だけど真っ直ぐな所が師匠の尊敬出来る所だから。」
ナラクが左腕を上げ、蟀谷を守る。
それに遅れることほんの刹那。カルノの蹴りが跳ね上がって導かれる様に到達し、弾き返された。
「…油断なんねぇな。クソガキ。」
「バレたか…。和ませて不意打ち作戦。」
二人は顔を合わせる。自然と口角が上がっていた。
同時に後ろに跳んで、構えを取った。


「貴様等!腹から声を出せ!」
ヴァサラ軍修練場。数十人の屈強な男達が上半身が裸の状態で列になり、掛け声と共に木刀を振る。
雷鳴の様な轟音とも形容出来る野太い号令の中を、それだけで人を射殺せそうに鋭い視線で闊歩し、檄を飛ばしているのは、なんと一人の女性であった。
年は二十代の前半から中頃。まだ多少幼さも残っていておかしくない筈だが、既に彼女の表情は戦地を地獄に変える鬼として完成していた。
まるで人形の様に整った……いや、その言葉さえ最早侮辱に相当する程に美しい彼女の姿は、女性の母数が絶対的に少ない軍部では酷く目立つが、しかし少なくともこの場に於いて、彼女を"女の子扱い"したり、"お嬢ちゃん"などと軽んじる者は存在しない。

葡萄酒で染めた様な、腰まで真っ直ぐに伸びた朱い髪、ルビーを超える輝きを持つ紅い瞳。
圧倒的な実力を以ってして異例の若さで四番隊隊長に任命された天下に無比の才女、人呼んで麗神。
オルキスその人である。

ここはその彼女が率いる四番隊の修練場であり、一切の妥協を許さず、規律の遵守を命よりも重んじる隊風の訓練は、軍内でも一の地獄だと言われる。
勝手にサボったり手を抜いたりはおろか、私語ですら胴と首が泣き別れになるとも噂される(それは流石に誇張され過ぎているが、信じる人が少なく無いほどに厳格で殺伐とした空気感なのだ。)訓練中に。

「あのー。さーせんさーせん。お取り込み中ん所に悪ぃんだけどよ。」

命知らずも突き抜けるに計り知れないことに、堂々と割って入る人間が現れた。

その命知らずの愚か者は、男達の大音量の号令で自分の声が聞こえてない事に気付いて(列の後方の何人かは無論割って入った邪魔者に気付いているが、許可も無く素振りを止めれば殺されると思っているので、見えない聞こえないフリを決め込んでいる。)
深呼吸して、出せるだけ大きい声で叫んだ。

     「頼もう!!!」

"せいぜいたった一人の大声"が、屈強な数十人の男達の腹の底からの号令を、完全に打ち消したのだ。
修練に励むその場の全員が、規律を乱す事を敵よりも憎む隊長の恐ろしさをほんの一瞬にだが忘れ、一斉に声の方へと振り返らされてしまった。
号令と素振りが、止まった。
修練場を、完全なる静寂が支配する。

愚か者の正体は、意外にも女だった。
とはいっても、修練場の男達と同じ位の長身で、身体付きも女性にしては異常なほど屈強である。
…いや、外見的には、実はそこまで大きくない。
無論、100人に聞けば100人が鍛え上げられた戦士の肉体だと答えるのは間違い無いが、愚鈍で過剰に肥大化している様な醜さは皆無である。
一切の無駄無く削ぎ落とされ引き締まった、完全なる実用的な戦闘向けの肉体。故に美しいのだ。
見て感じる印象としては、古代の彫像に近しい。
男達は、気付けば女に視線を奪われていた。
…正確に言うなれば、言葉を失う程見惚れていた。
女は自身に注がれる熱い熱い眼差しの数々に応える様に、口笛をヒューと吹いて、ウィンクと共に投げキッスを男達に飛ばす。
他の人間であれば古めかしく大袈裟だと思われかねないが、女がするそれは、不思議なまでに眩しいほど様になり、殺人的なまでに完璧に決まっていた。
男達の内、十数名ほどが木刀を落としてしまった。
「……はい。ファンサはこんくらいで良いかね。」
女は気が済んだのか、うんうんと満足げに頷いて、黒い革ジャンのポケットに手を突っ込む。
「うーん。やっぱり気分が良いわな。こういう風にアチアチに情熱的な視線を浴びんのはよ。」
「何の用だ?」
オルキスが、静かに問い掛ける。
………静かではあるのに、穏やかではない、不思議な圧力を持ったよく通る声で。
事実、女は20mは軽く離れているのに、オルキスの問う声が聞こえていた。その事を示す用に、女は
「怒ってる?」
と首を傾げて聞いて見せた。
オルキスの目が細くなった。
「怒っては…いないな。ただしワタシは貴様のせいで機嫌が悪くなっている。理由は二つだ。」
喋りながら、オルキスは女の元へ歩き出した。
男達は意識を取り戻した様に我に帰り、オルキスの通る道を大慌てで退いて作る。
「アタシがお前より美しい事と、お前に惚れてるこのボーイズをアタシが魅了しちまった事だろ?」
「違うな。……馬鹿は高い所を好むと聞くが、それが行き過ぎると背丈から高所へと伸び出すのか。」
二人の間の距離が、僅か1m程にまで縮まった。
こうして向き合っている所を見ると、不思議な取り合わせである。女性にしてはかなり長身のオルキスよりも、女はやや背が高い。オルキスがどちらかと言えば華奢な体格なので、女は相対的にもっと大きく見えた。オルキスには冷淡で厳格な雰囲気が漂っているが、女はどこか陽気で真剣味が無い。
共通点があるとすれば、赤系統の髪色である事。
恐らくこの世界に数人といない程の美貌を持つ事。
そしてどちらもその身体に収まりきらないほどの、途轍も無い凄みと覇気を含んでいる事であろう。
「一つは、ワタシの隊の訓練を邪魔した事。もう一つは、ワタシの前で調子に乗った事だ。」
女は腕を組んで、うーんと首を傾げた。
「"礼儀を欠いた"の一個にまとめられね?」
「……。意外だな。礼儀を欠いている事に気付けるほど、知性がある様には思えなかったぞ。」
「巨乳はバカそうに見えるって偏見、あったよな。あれはまな板が撒いた僻みかプロパガンダだ。だってアタシはお医者様だし。」
「……。ワタシはどちらかと言えばD寄りのCだ。まだ赦すぞ。一般人なら今すぐ帰れ。」
女は、瞬きを二回した。
「意外。キレねーんだ。」
オルキスは深く呼吸をして答えた。
「辛抱強さが不可欠な仕事なのでな。消えろ。」
「あ、そうそう。カルノってどこにいる?」
オルキスが、間髪入れずに一番近くにいる隊員に向かって右手を伸ばした。
隊員は直ぐにその意図を察したが戸惑い、ほんの僅かな葛藤の末に、此方に顔すら向けていないオルキスの圧力に負け、木刀を手渡した。
受け取る動作から一瞬も動きと勢いを途切れさせる事なく、オルキスは左へ横薙ぎに女の顔を打つ。
一切の躊躇も手加減も無い、見事な一撃である。
何より動きが自然で鮮やか過ぎるため、喩え分かっていても避ける事は出来ないだろう。

……が、女は木刀を右手で掴んで止めていた。
「…ぶっね。油断も隙もねー。」
オルキスが力込めても、まるで大岩の様に、木刀は1ミリとして押すことも、引くことも出来ない。
完全にオルキスの勝ちを確信していた隊員達は、事態の異常性に気圧された様に、動きを止められた。
「……。これを止めるか。」
「あぁ。アタシ強ぇかんな。でさ、カルノどこ?オッサンじゃねー方のな。」
平然と、さも何事も起こっていないかの様な口調で女は問いを重ねる。
「オッサンじゃねー方…?答えん。」
対するオルキスも有無を言わさぬ、ハッキリとした口調で断固として、これを拒否した。喩え拷問に掛けられたとしても答えないだろうな、と感じるほどに、完全に覚悟の決まった目をしている。
「そっか。どうしても答えない?」
「あぁ。何のつもりか分からんが。協調性の無いバカとは言え、ワタシの同期だ。」
「アタシがアイツの母親だっつっても?」
「馬鹿そうで人に迷惑を掛けているという点で言えばソックリだがな。嘘を吐いていない保証は無い。それに貴様に25歳の息子がいると言うのは、余りにも無茶があるぞ。どう見ても二十代後半だろう。」
女はその言葉に非常に機嫌を良くした様で、口角を吊り上げ、満面の笑みを浮かべて見せた。
「お前大好きだわ。アタシ今年で37歳。今は36。」
オルキスは素直に目を見開いて、驚きを表す。
女はその反応にも更に気分を良くした様で、今だに綱引きを続けている木刀をすんなり離した。
「アタシはポイゾナ。ポイゾナ・スコルピ。」
一歩下がって構え直し、オルキスもそれに応える。
「ワタシはオルキス。四番隊隊長。」
ポイゾナはへぇ、と意外そうに息を漏らした。
「若いのにスゲェな。道理で強いんだ。」
一方でオルキスは溜め息を吐いた。
「こんなに容易く止められていては、全く褒められた気がしないな。……貴様等。」
視線は女…ポイゾナに向けて離さないままだが、オルキスの言葉は周囲の男達に向けられている。
それによって、呑まれていた隊員は目を覚ました。
「捲き込まれるぞ。退却。」
「っ…しかし…」
一番近くにいた隊員が、何かを言い掛けたものの。
「隊長命令だ。いても寧ろ足手纏にしかならん。」
「ですが」
「消えろ。そして総督と別隊に報告だ。」
オルキスのその一言で、全ての隊員達が、二人の周囲から撤退を開始する。
全員の姿が見えなくなるまで、数十秒が経過した。
「…漢らしいんだな。オルキス。」
「呼び捨てにされるほど親しくなった覚えは無いが。…無駄に戦力を消費する訳には行かんしな。」
ポイゾナは少し呆れた表情を浮かべる。
「アタシをたかだか隊長格一人で倒せる気かよ?」
オルキスはやれやれと頭を振った。
「貴様が何様のつもりか知らんが。少なくともワタシが殺される迄は足止め出来るな。それまでに他の隊長格が最低で二名。此処に飛んで来る。」
「そりゃ賢明な御判断で。つか、アタシはここを置いて他のヤツから聴けばいんだけど?」
ポイゾナは少し意地悪な口調で、オルキスを誂う。
しかし、対する彼女の回答は落ち着き払っていた。
「いや、無いな。」
ポイゾナが、片方の眉を吊り上げる。
「どうしてだ?」
「貴様の目的が何なのかは知らんが、最早今、そんな事はどうでも良いからだ。」
「…と言うと?」
「貴様は目の前の強者と戦うのを我慢出来ない。」
ポイゾナはただ笑って、深く頷いた。
「正解〜。なんだ。アタシはまんまと嵌められちまったっつー事だな。」
「その通りだ。ワタシは勝ったって引き分けたって、万が一負けたって良い。ただ数分さえ稼げばどちらにせよ、貴様の狙いは達成されないからな。」
その言葉を受けて、ポイゾナは手を叩いた。
大袈裟に。カーテンコールを迎える観客の様に。
オルキスはそれを、怪訝な顔で見詰める。
「ベネ。アタシにとって良い事ずくめだよ。強いヤツが無限湧きっつー事だ。ベネベネ。大いにベネ。」
痩せ我慢や強がりでは無く、表情は嬉嬉とした興奮と、プレゼントの開封を待つ期待に満ちている。

オルキスは内心、(コイツは本物かもな…)と思った。
たかだかちょっとそこらの腕自慢なら、隊長格が出るまでもなく一般隊員に軽く捻られて、泣きを見てそこで終わりである。逆手に取って「ヴァサラ軍が一般人に手を出した、怪我を負わされた」などと慰謝料を強請ってやろうとする浅はかな卑怯者もいるが、そういう舐めた奴は却ってより手痛い目に遭わせて来たのがオルキスである。そういった彼我の絶望的な実力差も知れないチンケな虚栄心だけの破落戸は、つまらないメンツだけを大切にしている。
だからわざと、人通りの多い往来でそれとなく挑発させて先に手を出させ、関節技に持ち込んで、無駄にゆっくりと靭帯を捻って極めてやるのだ。
相手が地面を叩いて降参を示しても、聞こえないフリをして真顔で「ギブアップか?」ととぼける。
相手が泣き出して、みっとも無く喚き散らし、もう二度と調子に乗りません、どうか赦してください、そう言うまで敢えて中途半端に技を掛け続けて、大衆の目に愚か者の醜態が焼き付かせ、そろそろコイツの顔を皆が覚えたな、もうこれで大きな態度で道を歩けまい、そう判断した所でやっと、オルキスは解放してやるのだ。
隊員の中で上位職になるまでは、これをよくやっていた。隊長や副隊長ならまだしも、他の名も知れぬ一般隊員…しかも一見華奢な女性に白昼堂々、往来でみっともなく土下座させられたなどとなれば、いかに下らないチンピラと言えど、"メンツ"があるので強気に訴え出る事も出来ない。ましてや仕返し等と、あの女よりも強い化け物がうじゃうじゃといる組織に出来る訳が無いとも思い込ませられる。
総督には厳重注意を食らう事があったが、意外なことにそれは外向けの形式的な物に過ぎず、本心では一部のタチの悪い輩に絡まれて日頃から迷惑し、立場上殴る訳にも行かない責任ある上級職の方々には、裏では大変感謝され、食事も奢って貰えた。

…しかし、この女はどうも違う。
違い過ぎる。何もかもが。
真剣で無く…もっと言えば極楽蝶花でないとは言え、現役の隊長が手を抜かずに放った攻撃を躱すどころか、平然と掴んで止めて見せたのだ。
ただこれが避けただけなら、百年に一度の大幸運で偶然にも避けられた、で片付ける事も出来ようが、腕で庇うでも無く、オルキスが外したでも無く、木刀の刃の部分を掴んで止めているのだ。
何という動体視力、反射神経。
これをするにはオルキスの動きを完全に見切る必要がある。ただ見えているだけでなく、軌道を捉え、それに即座に反応して動けなければならない。
それに加えてもう一つ異常なのが、このポイゾナの膂力である。横薙ぎに放った神速の木刀が、彼女の手に触れた瞬間に、凍り付いた様に微動だにしなくなった。殺す気までは無かったとは言え、隊長格の攻撃の勢いを、瞬時に完璧に殺されたのだ。
オルキスはフィジカルを推しにしている訳では無いが、掴まれた後も、全く木刀を動かせなかった。
こんな事…出来るとしても隊長で上位の数名。それと覇王ヴァサラ位か。…あとは獣神ゴリちゃん殿…?
…一体この女、どれほどの強者なのか。

オルキスは生唾を飲み込む。
ポイゾナの目は嬉嬉としていながらも、ただの虚勢や気の大きくなった酔っぱらいには宿らない、凄みと自信、揺るぎ無い闘志が見えた。
まさかこの世に、ヴァサラ軍の隊長と戦えて喜ぶ様な一般人がいるとは。

…それに、『あと数分で隊長が駆け付けて来る』などという事実は存在しない。
これはオルキスのブラフである。ポイゾナの腕の自信の程度と覚悟、更に本当の目的を探る為の物だ。
実際には、他の隊長の殆どは任務で遠方に出払ってしまっている。何人かは非常事態に備えて残っているとは言え、逆に"非常事態に備える為"、満遍なく距離を開けて配置されているのだ。
オルキスもその一人であるため、ここは軍の本部がある中央市街地からも外れ、かつ他の隊長が配置されている持ち場からもかなり遠く離れている。
早馬を飛ばして…片道一時間は掛かるだろう。
オルキスがこの発言をしたのには、ポイゾナの正体や実力のほど、目的や組織に所属しているのか等を探るという目的があった。
譬えば、彼女が敵対勢力の差し金であった場合、こんなにも白昼堂々と訓練の最中に現れる訳が無い。
普通は夜道を一人でいる時に後ろから、だろう。
それに見たところ単独行動であることも、組織的な狙いがあるとすれば引っ掛かるところだ。
そうでなく腕自慢で挑んで来ているのだとしても、
『数分で他の隊長が来る』と聞けば如何に自信が過剰な者であれ、少しは焦るなり動揺をする筈だ。
同期のクソギザ歯野郎…カルノの名前を出して来たのも気になる。熱烈なファンである可能性…はある訳が無い。あんな地位に対する責任と自覚が無い、協調性0の子供を好いている人間など一人も…一人はいたな。恋人がなぜかいるのだ。しかも隊長格。何ならワタシが剣術を教えていた事もある位の知人で。
まさか…本当に母親なのか?
本人が言うには36歳の女がカルノの母親?
11か12で産んだのか?倫理的な問題は排除するなら理論上は不可能では無いが、まぁ考え難い。
そもそもカルノは、実の両親を亡くして孤児になっていたと聞いた事がある気がする。
義理の母親という事だろうか?義理の父親の様な存在が師を兼ねているらしいのでまぁ、無くはない。
「…いや、そんな事はどうでも良い」
オルキスは、頭を振って考えるのを止めた。
何にせよ今自分がする事は、この女をなるべく長時間ここに留めておくこと。
出来るなら、戦いの中で無力化して降伏してもらうか、それが無理でも取り押さえる。
殺す事は、駄目だ。生け捕りだ。
狙いが分からないし、何も聞き出せなくなってしまうからだ。…それにもし、万が一にもあのバカの母親だった場合は取り返しが付かなくなる。
最悪やむを得ず怪我をさせるだけならともかく、戦場でも任務でも無いのに人を殺すなど。あってはならない。しかも敵でなく一般人の命を奪ったとなれば、不慮の事故でも除隊免れない。
……難しいな。
「…無傷で帰す自信は無いな。」
オルキスは脅しでも何でもなく、そう呟く。
「アタシの目的はカルノと会う事だけなんだが。…いや、一発は殴らないとな。ちょっとムカついてる事があんだよ。お嬢ちゃん…いや、オルキス。素直に場所を教えてくんね?」
「だったら尚更教える訳にはいかないな。それも貴様みたいに怪しい者にか?」
えー、とポイゾナは残念がる。
「ケチだな。他のヤツに聞く」
「させんと言ったろ。」
「…じゃあ良いよ。他の隊長が来るまでに、ってのが第一目標。体力温存しときてぇからな。で、無理なら無理でワクワク無限組み手。どっち美味しい。」
ポイゾナは肩幅ほどに両足を開き、両手を握って顎よりも少し上の高さに持ち上げた。右足と右手を、気持ち後ろに引いている。
…アップライト型か。
南米の格闘技の、蹴り主体の構えによく似ていた。
彼女の脚は長く、大腿筋から腓腹筋までが大きく発達していた。ジーンズの上からでも十分に分かる、サラブレッドの様な、しかし締まった脚である。
あの脚から繰り出される蹴り…。
威力は正直、想像もしたくない。
「あのさ、木刀で良い訳?」
ポイゾナは構えたまま、視線だけを動かし、ちらりとオルキスの手元を見た。
「心配は無用だ。真剣では殺してしまう。」
ポイゾナは浅く溜め息を吐く。
「オルキス。アタシは殺す気で殺そうとしないと死なねーぞ?つか、殺す気で殺そうとしても全ッッ然死なないのがアタシだ。それでやっと半殺し?」
「…大層な御自信だ。隊長はいつから舐められた?」
「おいおい。誤解すんな。アタシが指してんのは隊長じゃなくてオルキス、お前だ。そりゃ武神とか聖神にマジで来られちゃ、アタシとて半殺し、もといおはぎやキムチになっちまうかもだけどさ。」
オルキスの右瞼がピクピクと動いた。
彼女がかなり苛立っていると現れるサインである。
「…総督やヴァサラ軍、同期の仲間達を侮辱し、舐め腐るのはまだ赦す。しかしワタシに対して、その軽んじる態度は万死に値するぞ、ポイゾナ。」
「逆だろ。」
そうポイゾナが間髪入れずに答えるのが、二人の間での開戦の合図となった。
傍目に見れば同時だが、先に動いたのはオルキスの方であった。両手で構えていた木刀を、ポイゾナの頭部に向けて容赦無く振り下ろす。それを迎え撃つ様な形で、ポイゾナの右脚が高く跳ね上がった。
素晴らしい高さ、速さのハイキックである。一朝一夕で身に付く物ではない、洗練された動きだ。
木刀の刀身部分を蹴り上げて飛ばす、もしくは破壊する狙いで放たれた物である。
しかし、オルキスは蹴りと木刀が触れる直前に、両手から左手へ、柄を持ち替えていた。そのまま体を右側に捻り、地面を蹴った反動を乗せて踏み込み、肩を入れて、左腕を真っ直ぐに突き出す。
分かり易く振り上げ、頭を狙ったのはオルキスのフェイントであった。本命は鳩尾への刺突である。
この一撃は上がる脚の横を擦り抜け、ポイゾナの急所へと届く…前に、外側へと弾き出された。
ポイゾナは跳ね上がる右脚の軌道を即座に修正し、やや高めのローキックへと変えていたのだ。
ポイゾナは木刀に当てた脚をそのまま最後まで蹴り抜いてしまうのではなく、反作用を利用してバネとして飛び跳ね、身体を逆方向の左へと捻りながら、左脚を高い位置…オルキスの顎へと飛ばした。
オルキスはスレスレになりながらも、半ば身体ごと後ろに倒れる形でこれを回避する。
「チッ…」
舌打ちをしたオルキスの顎先には、血が滲む擦過傷が出来ていた。
対するポイゾナは、満足げにニヤニヤ笑っている。
「避けたか。ルキヤ直伝の二段蹴り。」
「誰だそれは。」
ポイゾナは意外そうにぽかんと口を開けた。
「知らねー?アンポルキヤ。チャンピオンだぜ?」
「変な名前だな。」
「おう。耳馴染みねぇ発音だよな。いやいや、見様見真似出来るもんだね、試すのは初めてだけど。」
「……ワタシを遊びに使ったのか?」
「うん。遊びじゃなくてどうすんだよ。マジでやったらお前を殺しちまうだろ。」
ポイゾナの声色には、煽っているわざとらしさも、ハッタリや強がりをしている様子も見られない。
それがいっそう、オルキスの神経を逆撫でした。
「舐めやがって」
再び両手で上段に構え、オルキスは躍り掛る。
右上から振り下ろす袈裟斬り、一文字斬り、逆袈裟斬り。踏み込みながら立て続けに攻撃を繰り出すがポイゾナは全てに、軽くステップを踏むように下がりながら躱して行く。オルキスの剣速は常人には目視出来ないほどの超高速ではあるが、ポイゾナの身体にはあと一つの所で届かない。
逆一文字斬りを顔だけで仰け反って躱したポイゾナの目が、オルキスを試す様に細められた。
「んなモンかよ?」
応える様にオルキスの動きが更に一段速くなった。
左手に木刀を持ち替え、後退をしようと踏み込んでいるポイゾナの脚元を払う。これは両足で後方に跳び退いて躱されたが、振り抜いた勢いをそのまま活かして、オルキスはミドルキックに繋げた。此処までは、ポイゾナの予想通りである。それを見越してただ跳ぶに留めず、距離を取る様に下がったのだ。
…しかし、彼女の思惑に反して蹴りは当たった。
オルキスの軍服ワンピースが、彼女の脚の長さを隠して見誤らせ、間合いを僅か7cm程であるが短く想定させたのである。
「…おっ!」
靴の爪先が、ポイゾナの左脇腹を横から捉えた。
感触が硬い。オルキスはヒールブーツを履いているが、それ越しにでも伝わる位、ポイゾナの腹筋は異常に頑強である。人体の手応え…足応えではない。大岩を蹴っている様だ。やや不安定な体勢とは言え、オルキスの蹴りが肝臓のある位置に当たったのに、破裂させる所か完全に弾き返されてしまった。
これでは大してダメージにもなっていないだろう。
だが、それで良かった。
この蹴りは飽くまでポイゾナの隙を作るための物。
右足が弾き返された勢いをそのままに活かし、身を逆方向に捻って左腕に遠心力と体重を乗せる。標的は未だに空中。回避は物理的に不可能。オルキスは木刀による、全力の殴打を顎に打ち込んだ。
ポイゾナの顔がガクンと揺れ、完全に入った。
「"二段斬り"とでも言おうか?」
笑いもせず、オルキスは言う。
勿論、手は緩めていないし、止めてもいない。
ぐらついた顔を逆方向に殴り、鳩尾を蹴り、仰け反って剥き出しになった喉を突く。
最初から避け続けているのと、攻撃を食らって一瞬でも隙が出来るのとでは話が全く違う。
一瞬の隙は一撃を捩じ込む隙となり、その一撃が更にもう一撃の隙となり続けるのだ。オルキスはその隙を決して見逃す事が無いし、彼女の高速の剣術は一撃の隙に二度、三度攻撃を叩き込んでいた。
ポイゾナはその勢いに押され、後退し続けている。

…が。
「拍子抜けだぜ…」
どれも効いていなければ意味が無い。


止まらず更に技を出そうと、前へ出たオルキスの意表を突く様に、ポイゾナは脚を止めて呟いた。
オルキスは反射的に左手に持ち替え、突きを繰り出したが、ポイゾナは身体を捻ってこれを躱し、伸びきったオルキスの手首を左手で取って引き寄せ、右手を頭の後ろに回し、跳ね上げた左膝を腹に捩じ込んだ。オルキスは辛うじて右手を間に入れてカバーしていたが、そのまま後ろに飛ばされた。
4〜5mほど後方に背中から着地し、オルキスは無防備に身体を打ち付ける。痛みに悶絶した。背中の方はまだ受けた面積が大きいので衝撃が分散され、身動きが取れないほどの痛恨のダメージではない。
問題は…腹。高所から太い鉄柱の上に落とされた様な、太いながらも内部へと刳り込んで来る痛みだ。
鍛えた腹筋をまるごと体内に押し込まれる様に臓器が急激に圧迫され、そこの部位が丸ごと消えた様に感覚が無い。急所の鳩尾ですら無いのに、マトモに息を吸えない。身体の内側は熱いのに、外側は悪寒が止まらない。脳が着地の衝撃で揺れている。ただ何とか身体を俯せにして、蹲る事が精一杯だ。
「…オルキス。お前さ、アタシと相性最悪だぜ。」
ポイゾナは至極残念そうな口調で言った。
「お前、滅茶苦茶強いよ。雑兵じゃ幾らいたって相手になんねーし、半端な実力者や小手先では攻略出来ねーよ。でもさ。相手がアタシじゃ別だよな。」
ゆっくりと歩んで距離を詰めながら、ポイゾナは語りかけ続ける。オルキスは応答出来る状態では無い事を知った上で、それでも尚続けた。
「お前の剣術、大したモンだぜ。でもアタシには"視えてる"。"視えてる"から少し打点をずらせるし、それに木刀じゃこの身体のダメージになんねぇさ。」
頸を捻り、肩を鳴らす。ゴキゴキと音が鳴った。
オルキスは無理矢理身体を起こそうとしたが、全身に電流が流れる様な痛みに顔を歪め、再び伏す。
摂ったばかりの昼食の混ざった胃液が、食道から迫り上がって来た。鼻腔からも口からも溢れ出そうになるが、オルキスは無理矢理その生暖かい酸っぱさを飲み込んで堪える。
…こんな醜態、訓練時代以来だ。
屈辱に、軋む音がする程歯を食い縛った。
「…お前さ、極み使えないんだろ」
顔を上げられないので見えないが、ポイゾナがすぐそこの距離まで来ているのが分かった。
噛み締めた歯の隙間から、憤りの呼吸が漏れる。
不規則でデタラメなリズムで。
「雰囲気っつーかな、お前さ、元々は貴族か何かだろ?ホントならこんな事しなくていい筈だろ。でもどういう訳か知んねーけど、こう生きなきゃいけなくなっちまったんだろ?」
声のする位置が、低くなった。
ポイゾナがオルキスに合わせて屈んだのだ。
「カルノの同期っつーなら25?18から始めてたとして7年。7年でその剣術、お前は天下一の才能持ってるよ。んで、隊長。25の若さで。剣術歴7年で。女で。極み無しで。お前は特別だよ。スゲェよ。」
哀れみとも、称賛とも取れる様な。
優しく言い聞かせる様な口調でポイゾナは語る。
その言葉はオルキスに向けている様で、何処か自分に言っている様でもあった。
「…お前とはもう遊ばねぇ。遊べねぇ。アタシが間違ってた。悪かったな。お前の気持ち、ちょっとは解るぜ。女なのに強くなきゃいけねぇ。そうじゃなきゃ生きていけねぇ。でも火や雷なんて都合の良い不思議な力なんか出ない。……解るよ。」
ポイゾナは、オルキスの右手を取った。
悔しさに握り締められ、爪が喰い込んで血が滴っている手。剣を握り続け、タコが出来た手。
「……。ボロボロじゃねぇか。」
そしてポイゾナの膝蹴りを受けて、骨を砕かれ、壊された手であった。
「…片手じゃもう戦えねぇさ。……これは大陸の寺院に伝わる薬だよ。塗れば治る。」
ポイゾナは小瓶を取り出し、蹲り動かないままのオルキスの前に置いた。
「…じゃあな。麗神。…強かったぜ。アタシ相手によく一人で良く頑張ったよ。」
「……う。」
呻く様に、オルキスが何かを言った。
立ち上がり、その場を去ろうとしていたポイゾナは足を止めた。
時間を掛け、難義しながらもオルキスは無理矢理呼吸を整え、言った。
「……違う。」
聞き間違いでは無かったかと、ポイゾナは思った。
それでも不明瞭なので、顔を近付けた。
「……間違いは……三つ。」
ポイゾナは訝しむ視線をオルキスに向ける。
「一つ…。ワタシは極みを持たない訳では無い。……剣術しか無い訳では無い。"閃花一刀流"…剣術こそがワタシの"極み"だ。」
「……。」
「……二つ。極楽蝶花抜きのワタシは、……本来の半分の強さにも充たない。」
「……。」
三つ目は。
沈黙するオルキスに、ポイゾナが問おうとした時。



「お前、オルキスに何してくれちゃってんの?」



ポイゾナの背後に、青髪の男が立っていた。
ポイゾナは目を見開き、距離を取る。
「……三つ。ワタシは一人では無い。」
オルキスはしっかりとした発音でそう言った。
そのまま立ち上がろうとして蹌踉めいたが、青髪の男が駆け寄ってオルキスを支えた。
「……遅いぞ糞福。」
「七福な。マイプリンセス。クガイと飲んでてよ。急に嫌な予感がしたからアイツを置いて飛んで来たぜ。俺の運の極みに感謝しろよ。」
「…気色悪い。死ね。」
七福と名乗った男は、オルキスを横たわらせようとしたが、オルキスがそれを拒んだ。それより、と、木刀を棄て、七福に左手を伸ばす。
「何故貴様が持っていると問い詰めて八つ裂きにしたい所だが。今回は感謝する。寄越せ。」
「はいはい。賭けの金にでもと掻っ払って質屋に持ってこうと…何でも無い何でも無い!!ほら!」
射抜いて殺すほどの視線で睨み付けられ、七福は必死に誤魔化す様に、白い鞘の剣を手渡す。
オルキスはそれを受け取り、鞘を右脇に挟んで、薄紅色に妖しく光る刀身を引き抜いた。
「感謝なら俺と結婚」
「ポイゾナ。間違いがもう一つあったぞ。」
七福の言葉を完全に無視し、オルキスは呟く。
「お前はもう戦えないと言ったが、片腕で十分だ。」
刀身を眺め、オルキスは愛刀に囁く。
「…行くぞ、"極楽蝶花"」
七福も慌てて、持っていた剣を構えた。


クガイは困惑していた。
休日と言う事で朝から七福と酒を飲んでいたのだが(仕事がある日でもそうだが)、
「悪いトイレ!!」
と言って、七福が店から出て行ってしまったのだ。
それならまだ大した問題ではない。
この場合の不味いポイントは、二人で飲んでいたこの店が、どうも怪しい所である。
地下だし、壁がどうも防音っぽいし、照明がやけに薄暗いし、店員の人相が悪い。キャッチの男がとんでも無く安い値段で飲み放題だと言うから来たのだが、メニューに一切値段の記載が無いのだ。
これは、限りなくボッタクリ臭い。
そんな事を薄々感じ始めた時に、七福が出て行った。トイレは店内にあると言うのに。
アイツまさか、気付いて会計を押し付ける為に、逃げたのでは無いだろうか。
そうも言っている内に、飲み放題が終わって支払いを迫られる時間は残り数分に迫っている。
不味い。不味いぞ。今日は全て七福に奢らせるつもりでいたから、財布など持って来ていないのだ。
別に店のチンピラが怖い訳ではない。
そんなのは何百人いたところで脅威では無い。
明確に支払いの意思が無いのに、大量に飲み食いをした事である。ボッタクリと、無銭飲食。これは裁判沙汰になった場合、どちらが悪いのだろうか。
暴れれば間違い無く勝てるが、加減できずに必要以上にボコボコにしてしまうだろうから、先に手を出されても過剰防衛になる。これも裁判になった場合クガイの不利にしかならない。というか負ける。
時間が無い。不味い。
ウエイターの男が伝票を持って、クガイの座るテーブルに近付いて来た。
冷や汗が止まらない。全身に鳥肌が立つ。
もう無理だ。終わった。
ソファ席が電気椅子に、ウエイターの男がスイッチを持った死刑執行人に感じられた。
「お客様。そろそろ」
ウエイターが口を開き、クガイが絶望した瞬間。
物音が聞こえて来た。
この店に繋がる地下階段からだ。
ぴぷぴぷぴぷ、と、間の抜けた音。
少し考えて、子供用の音が鳴る靴だと分かった。
その足音が階段を降り、店のドアを開く。
迷い込んだのだろうか。入って来た子供に向かってウエイターの男が近付き、しゃがみ込む。
「お嬢ちゃん。ここは子供が来る所じゃ無いぜ。お母さんは何処かな?名前は?」
突然、後方に男が吹き飛んだ。
クガイは目を疑った。この小さな…5歳位の子供が、ウエイターの顔を正拳突きで吹き飛ばしたのだ。
しかも恐ろしい速さである。
隊長であるクガイだからこそ、子供が殴ったのだと目で見えたのである。常人であれば、何も起こっていないのに男がぶっ飛んだ様にしか見えない。
正しく、"俺じゃなきゃ見逃しちゃうね"、である。
………しかし何故、脈絡無く殴った?チンピラとは言え、こればかりは男が普通に可哀想だ。
しかし子供は気絶している男など無視して、店内をキョロキョロと見回し、ポテポテと、…いや、ぴぷぴぷと足音を鳴らし、クガイの元へと寄って来る。
そのままビシッとピースを差し出して。
「コンチュエ強い。悪い奴殴る。ママの教え。」
と、決め台詞の様に言った。
そしてテーブルの上にあったバニラアイスをクガイに何の断りも無く勝手に食べ、
「…うまい。」
サファイアの様に蒼い目を、丸くして呟いた。














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