エピソード0.? 狭間伝 蛇と蠍

※本編のキャラは出ません…へへへ…すみません…


地下へと続く階段を降りる。
苔が生える位に湿って、気にしようと思えばやや埃っぽい程度の匂いがする階段を。
女は、一人である。
これは別に格好良い言い回しをしたいという訳では無くて、実際にその女は一人だった。
灰色の長髪。それを一本に束ねて蛇の剥製を巻き付け、前に垂らしている。嘘みたいに珍妙な髪型であるが、それも不思議と様になる程の美型だ。
瞳は琥珀色。瞳孔が縦に伸びた、裂ける様に鋭い爬虫類の目付き。肌の白さも相俟って、まるで大蛇が人に化けた姿の様であった。
白く小綺麗な軍服に身を包んでいる。見た所任務終わりとでも言った感じか。身長も体格も並の男位には立派なので、ただの扮装には見えない。
与えられている階級もお飾りでは無く、自身の力で掴み取った物であろう。
有り体の言葉で表現するならば、"男装の麗人"である。それも、頭に"かなり"が付く美男子の。
名前はイバン。
単独での制圧任務上がりに、一杯飲める小粋なバーでも。そんなつもりで店を探し歩いていたのだが、如何せんこの辺りには土地勘がない。
気付けば迷路の様な街の奥へと迷い込み、引き返そうかと思った矢先、建物の前に看板を見付けたのでる。店名は『BAR 狭間』。矢印が地下を差していた。
イバンが半信半疑で階段を降りると、そこには確かに扉があった。
小さなOPENの看板が掛かっている。
「…ご丁寧にどうも。」
そう言った声はややハスキーだった。
木製のドアを押して開く。少し重いが問題は無い。
からんからんと乾いた鈴の音がして、店はイバンを受け入れた。
少し暗い、間接照明の良い雰囲気な店である。
カウンターが何席かと、四人掛けのテーブルが二席という、あまり広いとも言えないが、不思議とそこまで窮屈には感じない。調度品もモダンに統一されていて、内装のセンスには一家言有るイバンも納得のレベルであった。
ここなら、良い酒が飲めそうである。
ふとカウンターを見遣ると、マスターと思しき人物が佇んでいた。顔は仮面で隠れているが、然程違和感は感じない。とても落ち着いた雰囲気で洒落た店なので、イバンは
「あぁ、そういう演出か何かだろう。」
程度にしか思わなかった。
「御注文は何に致しましょう。」
マスターは言った。
ただ一言、決まり切った文句で訊ねただけであるのに、イバンは何故か其処に美しさを感じた。
冷水の様に澄んだ綺麗な声である。
無垢な少女の純粋さと、神前に仕える聖女の凛然さが同居した様な、不思議な声色だった。
顔が隠れているのもあるが、年齢が計りかねる。
しかし一つだけ言えるのは、十年二十年この台詞を発し続けたとしても、此れ程の落ち着きと流麗さをイバンが感じる事は無かっただろう、という事だ。
「…ウイスキーを。トワイスアップで。」
少し悩んだが、一番好きな酒を注文した。
店内を見渡す。
この正体不明のマスターを、すっかり口説いてみたくなったのである。
イバンはどちらかといえば女性を好む。
このマスターの趣味嗜好は分からないし、勿論たった今であったばかりなので何も知らない。しかし顔も見えない、何処か人間らしさを感じさせない様な声だけでは年齢も推測出来ないというミステリアスさが、不思議とイバンの心をくすぐったのだ。
とは言え、イバンも人並みの常識は持つ。
ただの一見客でしか無い自分が彼女を占領してしまうのは、店にとってもマスターにとっても迷惑だ。
そして、もし居るのなら他の客にとっても。
そういう訳で、イバンは店内を見渡したのである。
内心、溜め息を付いた。
一人、先客が居た。
カウンター席の最奥に、脚を組んで。
これで期待も潰えたかとがっかりしかけたが、イバンは直ぐに気を持ち直した。
そのたった一人の先客は美しかった。
黒い革のジャケットの下に紫のニット。ダメージジーンズを履いている。着る者を選ぶロッキーなファッションだが、それがとても様になる、格好良いタイプの美女だったのだ。
組んでいても分かる程、脚が長い。顔は小さいが、
女性にしては長身のイバンよりも、身長が高いかも知れない。正直言って、彼女の好みにドストライクであった。(元よりかなり広いストライクゾーンの)
一瞬でも存在を疎ましく思った事を、心中で密かに侘びて、イバンは店の奥へと進む。
赤紫の髪の美女に、同席の許可を戴くべく。
「ledy、お隣は空いていますか?」
恭しく、イバンは問うた。
それに対する女の返答はとてもシンプルで、
「…悪いな。旦那と二人だ。」
であった。
若干の申し訳無さと憂いを含んでもいる。
こう声を掛けて女性に断られた経験が殆んど無いので、自信があった分、イバンは少々肩透かしを食らった気分を味わった。
勿論、店内に他に客は居ない。
待ち合わせでもしているのか。適当な方便にしては
やや感傷的過ぎるし演技が達者過ぎると思ったが、
イバンの予想は外れていた。
女が落としている視線の先には、ギムレットが注がれたグラスが二つ。カウンターに並んでいた。
隣の席の前には、指輪が置かれている。
「…失礼しました。御邪魔して申し訳有りません。」
イバンが僅かも気取りを含まず、頭を下げる。
「…いや、気遣いありがとうな。」
女は顔を上げて、イバンを見る。
「やっぱり座って良いぜ。」
そして清々しい程に一瞬で、手の平を返した。
急変ぶりに少し困惑するイバンを前に、女は平然と続ける。
「そんなにカッケーなら先に言え。『私、格好良い者ですが、同席しても宜しいですか?』と声を掛けろ。それ位はすべきだぜ。勿論アンタ位格好良ければの話だけどな?アタシはポイゾナ。な。そうでも無ければボコボコにブチのめすぜ?アタシは調子に乗ってるヤツが大嫌いだけど、相応の自信っつーかプライドは持つべきだと思うんだわ。さぁ言え。『私、格好良い者ですが、同席しても宜しいですか?』と。」
通訳が欲しかった。
此れ程一瞬で感情が起伏する人間は見た事が無い。
女はもう既に苛立ちを覚えているのか、丸いサングラスの奥から髪と同色の視線を鋭く覗かせ、カウンターを指先でトントン叩いている。
イバンは一体何待ちの時間なんだと思ったが、言葉の末尾に呼び掛けがあった事を思い出した。
…が当然、どれほど自信があっても易易と口に出来る内容の台詞ではない。マトモな感性とプライドを持っている人間にとっては剰りにも恥ずかし過ぎる。
しかし女は…、そう言えば長台詞の中で韻を踏みながらサラリと名乗っていた…たしかポイゾナは、一切の情け容赦無く、無言の圧力でイバンを急かした。
最早同席するかどうか所ではなく、別問題である。
言わなきゃ帰らせてすら貰えなそうな剣幕だ。
イバンもやむ無しと腹を決める。
「…ん゛っ!…私、格好良い者ですが、同席しても宜しいですか?」
言うとなれば恥じらってはダメだ。寧ろ堂々と。スマートに。そもそも己が用意した台詞かの様に。
パチパチパチと、ポイゾナが拍手をした。
「調子に乗んじゃねぇ。」
低く吐き捨て、もっと鋭くイバンを睨み付けた。
「気に入ったよ。隣座んな。」
今度はヒマワリみたいな満面の笑みを咲かせる。
頭がおかしいのか、イバンはそう思った。
しかし、イバンもイバンである。
褐色でロッキーな、高身長で筋肉質な未亡人。
オマケに気が強くて思考が全く読めない荒馬と。
困難で硬そうな相手ほど燃えてしまうタチの彼女にしてみれば、気持ちは冷める所か強く加熱された。
出来合いの表現を借りるのであればそれこそ当に、「おもしれー女」と言った所だろうか。
…少々、言葉通りの意味で面白過ぎたが。
「おや、旦那さんは宜しいのですか?」
薄く微笑みながら、イバンは問い掛ける。
ポイゾナはカウンターの上の指輪を、左手の薬指にそっと戻しながら、
「旦那には席を外して貰った。」
そう真顔で言って、事も無げに返した。
…飽くまで"居なくなった"のではなくて、今も心の中には彼女と共に"在る"という事か。
イバンは見方に拠ってはどうとでも取れる笑みを浮かべて、軽く御辞儀をしながら隣席に着いた。
座る位置が決まったので、マスターがグラスにウィスキーを注いで持って来る。そして直ぐ様、それが鉄の掟である様に一礼をして、定位置に戻った。
「んでよ。えっと…アンタ、名前なんだっけ?」
ポイゾナが何かを言い掛けて、名前をまだ聞いていない事に気付いて質問した。
「イバンと申します。ポイゾナさん、でしたね?」
ポイゾナは信じられないと目を見開いた。
「うっそ!エスパーじゃん!?スゲ!じゃああれなの!?アタシが医者っつーことも知ってる!?」
「貴女が名乗りましたし、それは今知りました。」
イバンは苦笑した。自由過ぎる。
「…しかし、お医者様ですか。」
正直言えば、とてもそうは見えない。
「だろ。見えねーよな。カツアゲと用心棒で生計立ててますっつった方が納得行くよな。」
今度はイバンが一瞬、言葉を失った。
「…。失敬。エスパーなんですか?」
「残念だけど違うな。だったらギャンブルでも負け無しのハズだぜ。下手すりゃ納豆の名産地みてーな名前の奴から、今頃豪華客船買ってたかもよ。」
納豆の名産地…。はて?
イバンは首を傾げた。
「あ、そーそ。話が逸れちまった。イバンはさ、仕事っつーかさ、何してんの?」
ジョークが伝わるか伝わらないかは、それを言いたいだけのポイゾナにはどうでも良いのだろう。早速気にも止めずに、別の話を切り出した。
「まぁ、見ての通り、軍の所属です。」
「ほぇ~。だから強そうなんだな。どこの軍?」
ポイゾナは興味有りげに頷く。
「…どこの?此処らで軍と言ったらヴァサラ軍しか思い当たりませんよ?」
ポイゾナは驚いて鯉の様に口を開けた。
「ヴァサラ軍…!?そいつぁご苦労なこったな。何で言葉が通じる人が居るのかなと思ったら、国外にも出張任務が有るのか…。組織もデカくなったな…。」
国外…?言葉が通じる人…?この地域は確かに移民が多いし、国の中心地とは言えないが、国外と言うのはかなりオーバーな表現だ。
「アタシが最後に行ったのが七年くらい前になるのかな?その間に随分と時が流れちまったんだな。」
行った?戻ったでは無くて?少々齟齬が見られるのは、彼女が酔っているからであろうか。
まぁ、適当に合わせておくか。
「…えぇ。帝王カムイが復活し、その猛威は急激に拡大しつつありますからね。」
イバンは、そう答える。
しかしポイゾナの反応は予想外であった。
数秒真顔で黙ったかと思えば、急に天井を仰ぎ見てげらげらと爆笑し始めたのだ。
「ハハハッ…!大将軍カムイがダニィを排して王座に着いて、そんで大将軍ヴァサラと喧嘩してるってのかよ!しかも復活だ?まるで一回死んだみてーな口振りだな。やっぱりお前おもしれーぜ。イバン。」
これでは酔っ払っていると言うより、浦島太郎状態である。まるで二十年か、下手すればもっと昔の人間と話している様だった。
最早知っている、知らない所の話では無いが、認識を正そうとしたところで、恐らくこの様子では平行線であろう。こうしている間にも、ポイゾナは顔を突っ伏してカウンターをバンバン叩いている。
「…はー、笑い死ぬかと思ったぜ。お前と飲んで話してる分には退屈しなそーだな。」
気に入っては貰えた様だが。
「まぁ良いや。お前が軍の所属っつーのは間違い無ねーな。その身体付きはぜってー強い。剣…じゃねぇよな。得物は。言い方あれだけど、繊細な動作をしそうな筋肉じゃなさそうだからよ。」
顔を上げて、ポイゾナは頬杖を着いた。
イバンは頷く。
「えぇ。まどろっこしいのは苦手で。戦斧を使ってます。多少、近接格闘も出来ますけど。」
ポイゾナは明らかに嬉しそうに、口笛を吹いた。
「良いね。気が合う。クールに見えて案外ストレートなヤツ、アタシのタイプだぜ。」
とても満足げに、笑った。
「あら、タイプの相手と飲んでいて、旦那さんには怒られませんか?」
悪戯っぽく微笑みで返した。
「いーんだよ。女の子と飲んでて一々目くじら立てる様なヤツと、アタシは結婚しねーさ。」
つれないな、と、イバンは苦笑した。
「であれば、女の子の友達として飲んだ方が宜しいですかね?」
酒に口を付ける。シニカルに含みを持たせて言った言葉は、ポイゾナに真顔で受け止められた。
「そりゃあ、お前の好きにすれば良いんじゃね?アタシ別に女も好きだし。」
ウイスキーを吹き出しそうになった。
剰りにも事も無げにサラリと言ってのけたので、危うく聞き逃しそうであった。
慌てて手で口を塞いで飲み込んだので、器官に入ってしまい、イバンは噎せ返った。
げほげほと、普段の彼女らしくない咳をする。
ポイゾナはイバンの背中を叩いてやった。
「…そう、ですか。良かったです。」
ハンカチで口元を拭い、イバンは言った。
しかしこうも堂々と言われては、却って攻め落とす方法が分からない物だ。
喩えるならば、屋敷に密かに侵入して暗殺をしようと企てていたのに、門が堂々と開いていて、ターゲットが仁王立ちで迎えて居る、そんな感じである。
イバンは百戦錬磨の経験が仇となって、逆に打つ手が見付からなくなってしまったのだ。
何なら、自分に全く興味がない人間や、身構えている人間、果ては自分を嫌っている人間の方がこの場合寧ろイージーである。実際、イバンはそういう人間達を全員、話術とテクニック、外見で徹底的に口説き落として、例外無く骨抜きの虜にして来た。
しかし今回の相手は勝手が違う。心中の椅子にはただ一人しか座っていない。それなのにスタンスは、「やれるものならやってみろ」だ。
『風を投げろ』位、無理難題に思える。
こんな経験は初めてだった。直接的なフレーズや殺し文句では、恐らく大岩を拳で叩く様にビクともしないだろうし、LV.95位のテクニックでもにっこりと「あんがとな」で霞の様に手応えなく返される。
これなら当初の予定通り仮面のマスターを口説いた方が、よっぽど勝率が高そうである。
結局、脳内に無敗のプログラムを組んでいたばかりに、イバンの行動原理はバグを起こし、発するべき言葉を失ってしまったのだ。
その様子だけ見れば、恋愛経験の無い青年が吃りを起こしているのと、皮肉にもほぼイコールである。
イバンの生涯初めての、"詰み状態"であった。
屈辱に、イバンの噛み締めた奥歯が軋んだ。
悔しかった。ドS王子様系も、高飛車な気の強いタイプも、どちらのタイプの女も落として来たのに。
何なら全く好みでは無かったが、「騙されて散々金を搾り取られた」と男に泣き付かれ、意趣返しの肩代わりとして、今まで散々貪り食って来たお行儀と男癖の悪い女を、一月掛けてイバン抜きでは生きられない程に徹底的に調教してから、それはそれは残酷に、あっさりと振った事すらあったのに。
そんな自分が、何も出来ないでいるのだ。
酒をちびちび飲んで間を埋めて、何も言えないまま二十秒ほどが経過した頃。
「そう言えばさ」
と、ポイゾナが助け舟を出してくれた。
ポイゾナは一人で静かに飲むのも好きだし、別に孤独もそこまで苦では無い。しかし、二人っきりでの会話に、沈黙は決して有ってはならない。
その上、相手がこれだけ喋る人間であるのに、というプレッシャーも伸し掛かっている。
ハッキリ言って、かなり有り難かった。
「軍っつったらよ、アタシの親友?息子?ダーリンっつーには大分青いか?まぁ良いや。そんなヤツが居てさ。ソイツが軍に入りたくて修行してんだよ。」
「…、名前は何というんですか?」
「カルノっつってな。えっと、七年前に十五歳だったから、今は二十二になるな。」
カルノ…、ヴァサラ軍のカルノといえば、何代か前の隊長である。雷の極みを使用し、戦場を稲妻の如く駆け抜けたと言う、通称怪神。噂によれば世界三大理不尽の一人だとも。他の二人の事をイバンは知らない。彼を育てたのがその二人とする説もある。
しかし、カルノは既に退役しているし、年齢は四十を超えていた筈だ。別人だろう。
「確か、同じ名前の隊長が居ましたよ。もう引退しましたけど。」
へー。と、ポイゾナは腕を組んで言った。
「なんか縁起が良いな。アイツもそれ位、BIGで強い奴になると良いな。」
「彼の身長は低かったですが。」
ポイゾナは、溢す様に笑った。
それから少し、二人は世間話をした。なかなか噛み合わない世間話を。それで少し変な空気にもなったりしたが、話題がそれぞれのエピソードトークになると、大いに盛り上がった。イバンはさっきも挙げた悪女退治の話だったり、うっかり小国の王女を口説いてしまって大事になりかけた話を。ポイゾナは世界中で体験した小説の様な大冒険の話をした。
その中には先ほど彼が挙げた"カルノ君"との思い出も含まれていて、吸血コウモリに追われたり、廃墟で血塗れの女から逃げ惑ったりと、なかなかアグレッシブで動的な、聴いていて楽しい話ばかりだった。
一通り、冒険の話を語ったあと、ポイゾナは唐突に思い出した様に「あ!」と声を上げて立ち上がり、指をパチンと鳴らした。
「そうだ。イバンに一つ御願いしていいか?」
イバンは何だろうと首を傾げる。
「えぇ。基本的にお請けしますよ。」
ポイゾナは助かったとばかりに拝むポーズをする。
「あんがとな。もしイバンがカルノに会ったらよ、渡して欲しいモンがあるんだ。」
そう言いながら、ポイゾナは黒革ジャケットのポケットの中を弄り、何かを取り出した。
二つの封筒と一枚の何も書いていないカードだ。
「手紙ですか?」
イバンが尋ねる。
「おう。ラブレターか遺書かは教えねー。中身は恥ずかしいから見ないでくれよ?」
分かりました、と、イバンは頷く。
「二つとも"カルノ君"宛ですか?」
「いや、黒い方の封筒はナラクって奴宛なんだが、多分カルノに渡せば届くからよ。あ、ぜってー白い方をカルノに渡してくれよ!?」
何をそこまで必死になるのかは分からなかったが、
イバンは再び了承の意を示す。
それでは、白紙のカードは何なのだろうか。
聞こうと思った所で、ポイゾナがカードを引っ繰り返して見せた。裏面には、PCCと印刷されている。
「これは近い将来に確実に流行るカードゲームだ。」
「カードゲーム?」
「あぁ。P-ポイゾナC-ちゃんC-カードゲームの略称でPCCだぜ。ちょっと待ってろ、」
ポイゾナは座っているイバンの背格好を、軽く上から下へと見回したかと思えば、ペンを取り出して何かをカードに書き始めた。
それから一分程経って、ポイゾナは満足げに
「良し!なかなか良い感じに描けたぜ!」
と、うんうん頷きながらカードを見せてきた。
カードの上半分には、何処か憂いを秘めた様な視線のイバンが、戦斧の刃で口元を隠す様に構えているバストアップのイラストが描かれていた。背景にはご丁寧に、粉雪も降り積もっている。
「……。」
言葉を失うほど、圧倒的に絵が上手かった。色は当然着いていないが、特徴を捉えるデッサン力が素人目に見ても高過ぎるのだ。イバンは自分が描かれているのに、滅茶苦茶に格好良い絵だと思った。
「素晴らしいです…。」
感嘆の溜め息を漏らす様に言ったイバンに、
「だろ!」
と、ポイゾナはニカッと笑った。
しかし、カードの下半分は白紙のまま空いている。
イバンは何も言っていないのにポイゾナは焦るな焦るなと手で制して、そこに六角形を素早く精確に書き込んだ。何のグラフだろうか。
ポイゾナはいきなり手の平をイバンに向けて来る。
何のことかと訝しむと、「殴れ」と言った。
「手の平をですか?」
「おう。」
いきなりなので少したじろいだが、イバンはポイゾナの指示に従う事にした。
3割程度の力で様子見をしてみる。
ポイゾナは微塵も蹌踉めきすらしなかった。
常人なら椅子ごと倒れておかしくないが、ポイゾナは不満気に「本気でやんなきゃ分かんねぇだろ。」
と言うだけだった。
手応え的にも口調的にも、本気をぶつけても差し支えない。いや、本気で行かなければきっと彼女には怒られるだろう。
「良いんですね?」
とだけ一応確認して、ポイゾナが無言で頷いたので
イバンは椅子から立ち上がり、腰を捻り回転させ、重心移動とスピードを乗せた100%の威力の打撃を、ポイゾナの手の平に打ち込んだ。
椅子が傾き、ポイゾナは頭を壁に強くぶつけた。
しかしカタンと椅子の重心を戻し、受け止めた方の手を軽く振って、「痛ぇ。」とだけ言った。
恐らく鍛えた兵士の胸ですら殴れば肋骨を砕き、肺や心臓をそのまま突き破る威力の筈である。
いよいよポイゾナの底が知れなくなってきた。
信じ難いとイバンが何度も瞬きをしていると、ポイゾナはグラフに数字を書き込み始めた。
一番上の頂点から時計回りに、攻撃力78、防御力75,機動力55、波動??、知力80,体力80
であった。
それからグラフの真ん中に、「総合評価:A+」と、
赤いペンで書き加える。
恐らく、中々に良い評価なのではないだろうか。
「波動の項目はイバンが極み使えるのか分かんねーからよ、後でテキトーに書き込んでくれ。」
ポイゾナはそう付け足して、ペンに蓋をした。
それから少し考え込んで、膝を叩く。
「あ、アタシが御願い聞いて貰ったからさ、何でも一つだけ、イバンの御願い聞いてやるぜ?」
別に見返りを求めていた訳では無いが、そう言ってくれるなら無碍にする事も無いだろう。
恐らくポイゾナの性分的に、人に借りを作りたく無いのだろう。次にイバンと逢えるとも知れない訳だから、何か些細な事でも言った方が良さそうだ。
イバンは三十秒ほど時間を貰い、頭を捻ってお願い事の内容を考え込んだ。
折角の話だ。無駄にする訳にはいかない。しかし…何か特段困っている事もない。
「…あ。」
イバンは熟慮の末、良いのを思い付いた。
口にするのは少々…少々所では無く気恥かしいが、
「それでは、キスでもねだりましょうか。」
照れだけは鋼の演技力で表面に出さなかった。
ポイゾナは少し驚いた様に二度瞬きをしたが、
「おぉ。別に構わねーぜ。」
そう、案外あっさりと承諾した。
逆にその予想外な受け入れ振りに、提案したイバンの方が、まるで初心な少年の様に寧ろ気後れしそうになったが、こういうのは勢いである。
期を逃せばどんどんやりづらくなるし、今は数年振りにちょっとしたドギマギを感じている心臓と脳ミソも次第に冷静になって、十秒後にはきっと、取り消せない恥ずかしさに追いつかれてしまうだろう。
イバンは意を決して、
目蓋を閉じ、「ん。」と顔を傾けて迎える姿勢を取ったポイゾナに倣って、少し窄めた唇を近付ける。
「…ん?」
少しだけ冷たい感触。
目を開いて確認すると、イバンの唇が触れた物は、ポイゾナの悪戯っぽく微笑んだ唇では無かった。
二人の間に入り込んでいるのは、ポイゾナが自身の唇に添える様に立てた人差し指であった。
生殺しにされた様な、散々焦らされた末にお預けを食らった犬の様な感情を味わった所で、ポイゾナは隔てるそれ越しに、少し冷たく、しかし何処か蠱惑的な艶めきの温度を含んだ吐息が届いた。
イバンの心臓が年甲斐も無く、何も知らぬ無垢な少女の様に大きく跳ね上がった。何故か、緊張に手は少しだけ汗が滲んで来て、自身の耳や首元が風邪の時の様に熱くなっているのを感じる。
内心に有るのは自らの、聴こえる程に大きくなった響く心音と「この私が…?」という動揺だった。
ポイゾナはさらに追い討ちを掛ける様に、イバンの少し骨張った手を取って、自身の指を間に絡ませ、耳元にグッと顔を近付けた。
「…貴方の唇は、私に愛を囁やく為に。」
鼓膜に伝わるよりも、吐息の温度ごと骨伝導で脳に直接響く様な、冷たくて甘い囁きだった。
イバンは後ろへと、椅子から転げ落ちた。
それを見たポイゾナは、別人の様に無邪気な笑顔を満足げに浮かべて、
「アタシの好きな詩人の言葉さ。初めて人に試したけど、存外良い反応を戴けたみたいで嬉しいね。」
と、顎に手を遣って言った。
イバンは立ち上がって椅子に座り直し、
「約束と違いますよ。」
そう、静かに抗議した。
ポイゾナは苦笑して、悪い悪いと拝むポーズを。
「ごめんな。ある少年のとっても大事なファーストキスを預かってるからよ。ソイツに返す約束を果たすまでは、誰にも唇を許さねぇ事にしてんだわ。」
ポイゾナは独り言の様に天井を仰いで、言った。
ギムレットを二杯とも飲み干して、それから
「あ、」と思い出した様に付け足す。
「勿論、力付くで奪いたきゃそうすれば良い。」
イバンは呆れたとばかりに肩を竦める。
「…。挑んでも?」
ポイゾナは待ってましたとばかりに手を叩いた。
「おっしゃ。今から外でやろうぜ。得物は?」
「…外に置いてますよ。」
子供の様に嬉々とした表情を浮かべたポイゾナは、椅子から立ち上がって財布から紙幣を出し、カウンターの上に無造作に置き、
「先にウォーミングアップしてる。」
と言って、店から出て行った。
イバンが溜め息を付き、会計を済ませた後に続いてドアを潜ろうとすると、
「御待ち下さい。」
そう、仮面のマスターに声を掛けられた。
既に客に出して全く問題無い程に綺麗なグラスを、過剰な位丁寧に磨きながら、佇んでいた。
「ポイゾナ様は、恐らく外に出ても居られません。」
意味が分からなかった。
彼女が出て行ってから、まだ一分と経っていない。
それに、先に出て待ってる旨の発言をしていた。
会計を押し付けて逃げるつもりなら、もう既に支払いを済ませているのはおかしい。
「イバン様。此処は"狭間"で御座います。過去と現在。時には未来との。狭間の入口は何処からでも繋がっておりますが、その強度は剰りにも脆い。」
マスターは漸く磨き終えたグラスを置き、再び別のグラスに手を伸ばす。
「希薄な繋がりが辛うじて保たれるのは、この店の中だけ。私は時の流れが歪んだこの店で、常人の生涯の何度分も過ごしております。しかし一度この店を出て、再びお越しになったお客様は、未だにただの一人としておりません。」
混乱するイバンに対して、マスターは拙く抽象的な説明で申し訳有りませんと、深く礼をした。
「狭間には、決まって引き返せない程の運命の岐路に立たされた方が迷い込むのです。」
無機質な仮面の奥から、確かな視線を感じた。
「貴女が進む道が良きにしろ惡しきにしろ、確かな事はこのままでは居られないという事です。」
差し出がましい様ですが、最後に。
マスターは人差し指を立てて続けた。
「イバン様。覚悟は、お決まりですか?」
…。
心辺りが無いわけで無かった。己の足取りを重くするものに。背負わなければならない宿命に。
それは酒を飲んでいる時も、一人眠っている時も、
誰かに愛を囁やいている時もイバンから離れない。
しかしたった今、この目で世界で一番燦然と輝く自由と、眩しい程に憧れそうな理不尽を見たのだ。

イバンは、迷わなかった。
「…えぇ。私は預かり物を届けねばならないので。」
お気を付けてと見送るマスターに背を向けて、イバンは確かな足取りでドアを潜る。
階段を一段一段踏み締めながら、ふと彼女の口を突いて溢れる様に出てきた言葉は、

「…私の唇は、貴女に愛を囁やく為に。」だった。

カードの裏にでも書いておくか。
イバンは独り言ちて、静かに笑った。


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