IFルート 蠍と傷①
ポイゾナは木のテーブルに倒れ込む様に、落ちるように額を強く打ち付けた。右手に持ったジョッキはその勢いで横に倒れてしまいそうになったが、すんでの所でテーブルを挟み、向かい合わせに座っているナラクがそれを手で受け止める。
「大丈夫か?飲み過ぎだろ。」
ポイゾナは突っ伏したまま、
「……うん、ごめん…。」
と言って、目線だけをナラクに向けた。
「あ…。止めてくれてあんがとな…。」
普段は何処に居ても基本的に人目を憚る事が無いポイゾナも、今夜ばかりは様子が違っていた。普通の会話でも10m離れていて聞こえる声量は、大幅にパワーダウンして、少し耳に集中しなければ正確には拾えない程度になっている。普段は明朗快活でハキハキと歯切れの良い口調にも文節に僅かな間が空いて、どことなく語気と言うか発音が、丸みを帯びている様に感じられた。
ぎりぎり分かる位に小さく、視線だけで示した感謝のお辞儀の目付きすら、いつもの刃物の様な鋭さと光を持つことなく、少しとろんとしている。
ポイゾナの交通事故じみたナラク宅への唐突な来訪に拠って、数年振りに再会した二人は積もる話も有ってか非常に盛り上がり、酒がとても進んでいた。
両者間の飲酒量に大した差は無いが、ナラクは生れ付き肝臓のアルコール分解機能が強く殆んど酔っ払っておらず、対して人並みより少し上程度の耐性しか持たないポイゾナは、御覧の通りである。
かなり"出来上がっていた"。
「ごめんナラク…アタシ、結構キテるかも…」
顔をしっかり上げないまま、ポイゾナは文節区切りでゆっくりと、呻くように言った。
この場合の"キテる"とは説明するまでもなく、体内に蓄積されたアルコール成分の事である。
漠然とした倦怠感に拠ってふやけた海藻類の様に脱力して、テーブルに張り付いて動けずにいるポイゾナを見かねたナラクは、
「水持って来る。」
とだけ言って、椅子から立ちあがった。
コップを取りにキッチンの方へと行こうとするナラクだったが、その裾が不意に、ぐいと掴まれる。
「どうした?」
「………。」
当然の疑問であったが、そうやって彼を引き止めたポイゾナの答えは無かった。
「気分が悪いのか?」
「………………。」
問い掛けにも、応じない。
「吐きそうか?」
「……………。」
これにも、ポイゾナは答えない。
「分かった。喋らなくて良い。バケツ急いで持って来るけど、最悪耐えられ無かったら大丈夫だ。」
「………。」
しかし、ポイゾナは答えないどころか、ナラクの着物の裾を掴んだまま離そうともしない。
これではどうするにも埒が明かないので、
「気にするな。俺が掃除しておく。」
とだけ、ナラクは穏やかに声を掛けて、優しく振り払った。そもそも、彼女らしくもない、決して強いとは言えない力であったので、手自体は意外にも簡単にナラクを開放した。
そうしてナラクが、今度こそバケツを取りに行こうと背を向けたその時、
「……行かないで」
そう、頼り無く弱々しい声が聞こえた。
一度振り向いて、思わず脚を止める。再び沈黙が流れたので流石に聞き間違いかと思ったが。
「……一人に、しないでくれ。」
迷子の子供を想起させる、何処か怯えた様な、酷く寂しがる様な声色はとてもアンマッチだったが、それは紛れもなくポイゾナの発した声であった。
寝言にしてははっきりしているし、からかっている調子も、過剰に甘えようとしているポーズも無い。
それは本当に切に、誰かを乞うている声であった。
これは今日のなかでも、…下手すればナラクと出逢ってからの長い月日のなかでも、一段と"らしくない"。
「お前飲み過ぎたんだよ。ちょっと横になって休めば落ち着くから。俺も水取って来てすぐに戻るし。」
言い聞かせる様に、ゆっくりと文節を切る。
この様な配慮をするのも自分らしくないな、ナラクは我ながらそう思ったが、ポイゾナは再び
「…行かないで」
とだけ、子犬の様に弱々しく零した。
「…分かった。大丈夫だ。」
ナラクは若干ぶっきらぼうながらも、普段の彼にしてはかなり優しい声色で呼び掛ける。日頃の溌剌としたポイゾナの様子からしてはあまりにも異常な…いや、普段の彼女の振る舞いがあるからこそ、冗談やからかいと切り捨てられない、ただ事でない何かを、ナラクが感じたからである。
変わらずにテーブルに突っ伏したままのポイゾナの後ろへと、ナラクは回り込み、その背中にそっと腕を回してさすってやった。
「……落ち着くまで側にいてやるから。どうした?嫌な事でも思い出したのか?」
「……。うん。」
顔を上げないままポイゾナは小さく細い声で頷く。
「大丈夫だ。」
それだけを静かに言って、ナラクはさすり続ける。
そのまま二人は何も言葉を発さず、二十秒ほど、ただ沈黙の時間がリビングに流れる。
男物の黒革ジャケットが違和感なく様になっている筈の鍛えられた無骨な背中は、今ばかりは何故か、普通の女性並みに小さく、寂しい物に感じられた。
「……ナラク」
詮索して余計な負担を掛けない為に、ただ沈黙して
いたナラクではなく、ポイゾナが口を開いた。
「何だ?」
それからまた数秒、ポイゾナは何も言わなかったがナラクも急かす事なく、穏やかにただ待った。
「手…握ってくれる…?」
ポイゾナの要求は普段の厚かましさの欠片も無く、寧ろ恐る恐るとして懇願めいていた。
ナラクはジョッキを掴んでいない方のポイゾナの手を自ら取って、慣れない手付きながらも出来るだけ優しく、両手で包む様に握った。
少し冷たい。手のひらには角質層が硬く盛り上がったマメが、拳の方には物をずっと習慣的に叩き続ければ出来るタコがある。ごつごつとした、言い方によっては普通の女性らしからぬ、無骨な手だ。
長年、何度も何度も傷付き続けた果てに完成する、凶器とも呼べる代物である。…しかし、それは言い換えれば、爪を彩ったり、アクセサリーで飾られる事が誰にでも許される"ふつう"の女性とは違って、戦い続ける事を強いられた結果に行き着いてしまった、悲しい物でもある様に、ナラクは感じた。
「…温かい…」
疲れ果てた先の、つかの間の安心を感じている声。
小さな氷が溶け出る様に、ポイゾナは呟いた。
ポイゾナの手の脈拍とナラクの脈拍が重なってちょっとずつ、手にナラクの体温が移っていく。
「アタシさ…」
「…うん。」
ポイゾナは言い出して、何かの思い切りを付ける為だろうか、一度息を吸い込む。
「………寂しい」
ぽつりと、小さな雨の一滴目の様に、呟いた。
「うん」
そのたった4文字を言うのにも、ポイゾナは踏み切らなければいけないのか。
…そのたった4文字を言う事すら躊躇われる程に強くなる事を、誰にも寄り掛からずに一人で戦って生きる事を、ポイゾナは強いられていたのか。
漸く出てきた本音の言葉の短さと、その後に中々続く言葉を見付けられずに少し狼狽え、黙ったまま戸惑っている様子は、見ていて心が痛かった。
ナラクは気付けば強く固く、手を握り締めていた。
自分がここに居るという事を、発するべき言葉をまだ見付けられずに居るポイゾナに付き合う様に、無意識に示そうとしていたのだったと思った。
それからまた暫く時間が空いたが、ポイゾナは漸くとつとつと溢す様に言葉を話し始める。
「アタシ…、いつまで喪い続けるのかな」
末尾に句読点が付くほど、ポイゾナは落ち着いている訳でも整理が付いている訳でも無さそうだ。
「アタシ…いつまで強くならなきゃいけないのかな」
ナラクは黙ったまま、これを聞いた。
「…生まれた時から何にも与えられなかった。だからせめて丈夫な身体を活かして、何にも失わない為に、強くなろうとした。なれたつもりだった。」
彼女がこれまでの生涯で、誰にも見せまい聞かせまいと塞き止めていた感情と言葉が、一度口を開いた事を切っ掛けに、堰を切ったように溢れ出した。
「…失いたくないから、側に置く人は強くあってほしかったんだ。でも弱い人を好きになっちゃって、アタシが守れば良いやと欲を出したら、罰が下りた。
…子供もそうだ。アタシが中途半端に生きてきたから、……あの子は何にも悪くないのに…」
何度か、ポイゾナは顔を上げずに洟を啜った。
「……。」
胸が痛んで、見ていられなかった。
此の期に及んでも、ポイゾナは泣き顔を見せようとしないのだ。いや、"強くなければいけない"から、泣き顔を晒してはいけないと、そう思っているのだ。
顔を上げずに、必死に嗚咽を洩らすまいと、涙を流すまいと抵抗して力む息遣いが、聞こえた。
きっと、ナラクでなければ見抜けず、聴き取る事も出来ない程の小ささで。一度箍が外れて流れ出た己の弱みを食い止めようと一人戦っているのだ。
ポイゾナは何分そうしていたか分からない位、突っ伏して堪えようとしていた。ナラクがポイゾナにしてやれる事は、彼女が誰にも負担を掛けまいと一人で背負ってきた、悲しみとの戦いを無駄にせず尊重する為に、敢えて声を掛ける事無く手を握って、傍らで気付かないフリをする事だけであった。
小さく震えている背中を、見守る事だけであった。
未練を振り切る様に、ポイゾナは息を長く吐いた。
それから、ジョッキを持ったままでいた方の手の甲で目元を敢えて乱雑に、何度も何度も拭って、漸くポイゾナは勢い良く顔を上げた。
「…な〜んてな。ウソウソ。楽しい空気に水差しちまってゴメンな。」
いつもと何一つ変わらない、真っ直ぐで輝いている笑顔が其処にはあった。
だが、その完璧さが寧ろナラクの胸を空っぽにしたし、痛々しく感じられた。
いつから、そういう嘘の笑顔を獲得したのか。誰にも気付かせない程完璧に隠し通して、笑う術を獲得しなければいけなくなったのか。
それを見抜けずにいて、その時に側に寄り添っていられなかった自分を、心から憎く思った。
「飲み過ぎで気分悪くなったら心配してくれて、それが嬉しくて、ちょっと芝居打ったんだよ。」
ごめんな、と、ポイゾナは悪戯っぽく微笑んだ。
「案外乗ってくれたもんで、ちょっとばかしからかい過ぎちまった。あんまり笑えない冗談だよな。」
片手で拝むようにしてポイゾナは軽く頭を下げる。
「…長居するのも迷惑だし、アタシもうお暇する。」
椅子からゆっくりと立ち上がって、ポイゾナは小さく顔の横で手を振った。
「…あ。」
ポイゾナは視線を落として、片手をナラクが握ったまま黙っている事に、漸く気付いた。
それから慌てた様に、その手を振り払う。
「…っ!ごめん!ついつい調子に乗って、手まで握らせちまって!…いやさ、あんまりにも情熱的かつ優しく握るモンだから!コイツ、アタシに気があるんじゃねーの?終いにゃキスの一つでもおねだりすればしてくれんじゃねーの?って思ってさ!ごつごつしてて綺麗じゃない手だから、気分悪かったよな!
ホントにゴメンな!気色悪い思いさせたよな!」
照れくさそうに笑って、ポイゾナは背中を向ける。
自分が壊したドアへと向かって歩み出そうとするポイゾナの手は、何かを隠し通そうとする様に硬く握り締められ、そして微かに震えていた。
ナラクはそれを見逃す事無く、反射的に、去ろうとするポイゾナの手首を素早く掴んだ。
「…!」
びくんと、後ろめたい事がバレた時の子供の様に、ポイゾナの肩が少し跳ねる。
「待て。」
「……何?アタシとお別れしたくないの?」
「そうだよ。」
敢えて何かもっともらしい理由を作るでもなく、ナラクは真っ直ぐに言い切る。
「……。ハハ!んだよ。ナラクちゃんアタシの事、狙い通りまんまと好きになっちゃった訳?」
そう笑い飛ばして、振り払おうとしたポイゾナの手をナラクはより強く掴んだ。
「そうだ。お前が好きだから何処にも行くな。」
「……んだよそれ。アタシからかうのは好きだけど、からかわれるのは好きじゃねーんだよ。」
ほんの少し、声が強張っている。
「…演技なら上手過ぎるぜ。一瞬本気にした。」
もう一度、ポイゾナは振り払おうとした。彼女の力は名残り惜しむ様に、しかし嘘でない事を期待して傷付かない様に、ほんの少しだけ弱まっていた。
ナラクは答えを示す様に、もっと強く手首を握る。
「俺が嘘をつける程、器用に思えるか?」
「……」
ポイゾナは黙っていた。
「俺がお前をからかう程、軽薄に思えるのか?こんな嘘を付いてお前を傷付ける男だと思うのか?」
「……」
ポイゾナは無言のまま、膝から崩れ落ちた。
「……なんだよ……それ……」
背を向けたまま、頭を垂れて嗚咽を洩らす。
ナラクは気付いた。ポイゾナは黙っていたのではなくて、涙と泣き声を堪えようとしていたのだと。
ナラクは、しゃくり上げながら小さく背中を丸めているポイゾナの肩を掴んで、顔をこちらに向けた。
唇はわなわなと震えながらも固く結ばれ、喉からひっくひっくと嗚咽を洩らし、半開きになった目には溢れそうな涙を溜め込んだ赤紫の瞳が潤み、それでも頬に流れ出た軌跡に数本、髪が貼り付いている。
まるで無垢な少女の様に弱みを剥き出しにした、
これまでポイゾナが隠し通して来た本音の表情が、
其処には確かに存在していた。
彼女が救う事はあっても、救われる事はただの一度も無かった、そんな限界の表情が。
「……ばっか、これは…違くて…そ」
ナラクは、まだこの期に及んで何か言い訳をしようとしていたポイゾナの後ろに腕を回し、思いっ切り強く抱き締めた。
「……!」
最初の数秒こそ振り払おうと藻掻いていたが、その力は次第に弱まっていき、ついに止まった。
「違わなくて良い。泣け。思いっ切り泣け。」
「…でもアタシ、強くないと…」
「知ったことか。」
ぶつぶつと、囁きにもかなり足りない程の声量で、ポイゾナは耳元で何かを言い掛けて、止めた。
あとはただ、泣いた。
今度は声を殺すこともなく、隠そうとすることも、誤魔化そうとすることもなく。
まるで緊張の糸がぷつりと切れた幼い子供の様に、わんわんと声を上げて、無防備に泣いていた。
生涯溜め込んで、やっと詮が外れて流れ出した涙でナラクの羽織りの右肩はびしょ濡れになったが、そんな事は一切気にならなかった。
ポイゾナのそれは熱くて綺麗な、悲しい涙だった。
どれほど、そうしていたのだろうか。
ナラクはひたすら黙って、ポイゾナの耐えてきた悲しみを、痛みを、己の身体で受け止め続けた。
少しばかり大きいが、ちょっとばかしガタイは良いが、紛れもなく弱みを持った女の体温を、ナラクはその両腕で、熱を分け与える様に強く抱き締めた。
そうして、いつの間にか泣き声が止んで、ポイゾナの静かな息遣いだけが耳元で感じられ始めた頃。
「……ありがとう。…ホントにもう、大丈夫だぜ。」
ポイゾナは少し疲れた様に、しかし一片の紛れもなく、温かい安心に浸かり切った声色で言った。
ナラクが腕を離すと、ポイゾナは少し後ろに退り、ニッと笑顔を見せた。よく笑う彼女が今まで見せた事の無い種類の、誤魔化さずに照れた様な笑顔を。
ナラクはそれを見て、黙って頷いた。
憑き物が落ちた様な、今までになくスッキリとした表情を浮かべているポイゾナは、よっこらしょと掛け声を掛けながら、ゆっくり立ち上がった。
「全部吐き出してさ、楽になれたぜ。これでアタシは晴れて元の強いポイゾナちゃん。また頑張れる。」
残り涙を親指の腹で拭い、あんがとなとサムズアップして、ポイゾナは振り返って歩み出した。
「待て。」
今度ばかりは隠し立てする事は何も無いので、ただ純粋に驚いた様に、ポイゾナが立ち止まった。
「え?今度は何?」
彼女としては最初に呼び止められた事すら予想外の出来事であったので、泣き果ててスッキリした今、呼び止められる理由は検討も付かない。
くるりと向き直って、不思議そうな顔をした。
「また頑張れるって、言ったのか?」
ポイゾナは、意図を図りかねて首を傾げる。
「…うん。そーだけど。フル充電で、もうこの余韻だけで相当分の活力だぜ。」
「それもいつか切れるよな?」
「…?うん。そりゃそうだろ。」
「だったら俺と一緒に居ろ。俺と共に歩め。」
ナラクは平然と、冗談めかしもせずに言い切った。
対するポイゾナは唐突な投げ掛けに意図を掴めず、口を半開きにして、片手を自分の額に遣り、もう片方の手を、何かを制する様に突き出した。
「……。ちょっと待ってな。………。…うーーーん?
アタシの聞き間違いじゃなければ、お前今、このポイゾナ・スコルピに向かって『結婚しよう』って、そう言ってプロポーズしたって事になるんだけど。」
「その通りだ。」
間髪入れず、ナラクは答えた。
「うんうん。なるほどな。確かにアタシは世界一美しくてイイ女だけど。そっかプロポーズ…はっ!?」
喋りながら漸く脳味噌が追い付いたのか。
ポイゾナは目と口を大きく開いて、言葉を失った。
剰りの衝撃に息すらも忘れて、佇んでいた。
それから更に一瞬遅れて、感情が追い付いた様で。
ポイゾナは頬を真っ赤に染めて、そこから蒸気を噴き出さんばかりに耳を熱くした。
「えっ?ちょっ……え?うそ…?は?どういうこと?夢?都合のいい夢?走馬灯?死ぬ前に見る幻影?アタシ何時の間に、幻覚を見せるタイプの敵と戦ってたんだ?目覚めろ。今直ぐ目覚めろ!!」
何故か、自分の頬を殴り付け始めた。
「夢じゃない。恥ずかしいからあまり何度も言わせるな。…俺と、結婚を、してくれ。」
どうやっても聞き間違いの余地が無い程に大きな声で、ゆっくりと文節を切って、ナラクは言った。
「…やっぱ、夢なら覚めんな。今解除したらテメェを徹底的に痛めつけてブチ殺すからな。幻術師。」
ナラクはポイゾナの頭を軽く叩いた。
「…痛っ。マジで、ナラクじゃん……」
現実である事を確認出来て頭を抑えながら、ポイゾナは嬉しそうに、しかし困った様な表情になった。
普段の思い切りが良い彼女らしくなくモジモジしている、やけにいじらしい態度である。
「えっと…その……あの……あー…ダメだ……いや、そのダメだじゃなくてだな?あれ……、なんて言えば良いんだろ……その…つまり……嬉しい」
恐らく、嬉しいと言う人間史上、一番長い時間を掛けた右往左往の末に、ポイゾナは言った。
しかし、次第にばつが悪そうに顔を曇らせて、視線が床へと落ちて行った。
「……嬉しい。滅茶苦茶嬉しいんだけど。ホントは今直ぐ暴れ出して軍を一つ壊滅させられる位に嬉しいんだけどよ………」
ポイゾナは、黙った。
それから数秒後に、とても重苦しい口振りで、
「……アタシが愛した人は、死んじまうんだ。さっき、話したよな。お前の事は好きだけど、だからこそお前を死なせたくない。何も奪われたくない。」
だから、気持ちは死ぬほど嬉しいけどごめんな。
そう、悔しさを噛み殺す様に言って頭を下げる。
ナラクはその頭を途中で掴み、止めた。
「痛い。何?」
「俺が死ぬと思うか。」
「…………。」
先ほどよりも、恐らく数倍長い沈黙の末に。
「………思わない。」
「お前が何回か本気で殺そうとしても未だ決着すら着いてない俺が、生まれて一度も風邪を引いたことすら無い俺が、他の誰かに殺されると思うか?」
「…………。思わない。」
ナラクは静かに頷いて、ポイゾナを開放した。
「……でもアタシ、既婚者だし…」
今度は気まずそうに、顔を少し背ける。
「それは俺もだ。」
「……そうだけど。……でも、アタシ結構引き摺っちゃってウジウジしちゃうと思うぜ…?」
「引き摺るならそれで良い。前の旦那を忘れろなんて俺は言えない。でもお前が暗い気持ちになる隙を与えない位、俺が幸せにする。」
「……っで、でもアタシ……アタシ…ホントにもう、これ以上は失いたくなくて……」
それでも尚葛藤に押し潰され、息苦しそうにすらしているポイゾナの肩を、ナラクは掴んだ。
「散々一人で戦い続けたお前がこれ以上失うモンなんか無いんだ。後は、俺が与えてやるだけだ。…あるとしたら命位なモンか?でも、それも奪われない。俺を殺せるとしたらお前だけ。お前を殺せるとしたら俺だけ。…なぁ、そうだろ?」
ポイゾナは気弱そうに顔を上げたが、やがて小さくとも、確かに首を縦に振った。
「その命すら、だ。俺の命はお前にやる。だから、その代わりにお前の命を俺にくれ。どうしても不安なら、くれとは言わない。俺が決して死なないと、
…お前の命を預かっている以上、絶対に生きると。
お前に何も失わせないと。」
ポイゾナの瞳は潤み、小さく震えていた。
ナラクはポイゾナをそっと抱き寄せて、耳元で優しく、しかし確かな決意を持って囁く。
「信じてくれるか?」
まるで胸の中に、ポイゾナの心臓が入り込んで移って来た様に、鼓動が直に伝わってくる。
二つの心臓は歩み寄る様に重なり、共鳴する様に、松明に火を分け与える様に強く高鳴っていた。
「………喜んで。」
ポイゾナは恐らくどんな言葉が一番良いのかを熟慮したであろう五秒の沈黙の後に、抱え切れない幸福が溢れそうな程に震えた声で応える。
ポイゾナの頬が、子犬が擦り寄って来る様に、ナラクの顔へとくっつけられた。
何度も何度も、幸福を噛み締める様に。何度も何度も、ナラクの愛と存在を確かめる様に。
少し濡れていた。だけど温かかった。
恐らく彼女が初めて流した、もう一つの涙。
それは、胸いっぱいの幸せの匂いがした。
何も言わないまま、満ち足りた幸福の空気に二人が浸っている中。唐突にポイゾナの身体が糸が切れた人形の様に力を失い、仰向けに倒れそうになった。
「…!おいどうした!」
慌ててナラクはポイゾナを抱き止めて、ゆっくりと身体を床に、横にさせた。
声を掛けても、肩を揺さぶっても、額を少し叩いて見ても、一切の反応が返って来ない。
一瞬途轍も無い嫌な予感がしたが、脈拍を確かめても全く異常は無く、呼吸も普通にしている。
眠っているとしたら起きないのが不自然だが…。
ナラクは少し考え込んで、合点がいった。
「……軽い脱水症状だな。今日は泣き過ぎだ。」
案外少女の様にあどけない表情で眠っている(本当は軽く意識を失っている)ポイゾナの顔を見て、
ナラクは少し呆れた様に、しかし愛おしむように、
彼にしてはかなり優しく微笑んだ。
翌朝。
「………。う~ん……。」
呻く様な声を上げて、ポイゾナの意識は目覚めた。
清潔感のあるシーツと、温かい布団の感触。
このままずっとこうしていたい気持ちになったが、その気持ちよさが却って旅に身を置くポイゾナにとっては違和感となって、彼女を飛び起きさせた。
天井に届く程に、布団を思いっ切り蹴り上げる。
普段より何故か、脚が高く上がった。
身体が、とても軽いのだ。長旅の疲れが完全に何処かへ行ってしまった様に。
周囲を見渡すと、自分は知らない部屋に居た。
知らない部屋のベッドの上に立っているのだ。
バサリとさっき蹴り上げた布団が横に落ちて、
「…起きたか。」
そう、ナラクの声がした。
布団は、そこで横になっていたナラクの上に被さって落ちたのだ。だから彼の姿は隠れて見えない。
「お前、そこで何してやがんだ?」
「そりゃ、お前がそのベッドを使ってるからな。」
コツコツと、床を叩く音がした。
ナラクは静かに抗議しているのだ。
「アタシ、なんでお前の部屋で寝てるんだ?」
「……。お前、何にも覚えてないのか?」
億劫そうに、ナラクはため息を付く。
「………ん~と。結婚したのは覚えてる。」
「覚えてるじゃねぇか。」
ポイゾナは、言葉を詰まらせる。
夢じゃなかったんだ…。顔を少し赤くして、そう、消え入りそうな声で独り言の様に呟いた。
「……じゃあ離婚するか?」
「いやちょっ…お前…、絶対嫌だ!!したもんはしたんだよ!!おいふざけるな!!アタシの涙返せ!」
「あぁそう。じゃあ続行な。」
ナラクはあしらうように言った。
「アタシ、都合のいい事だけは覚えてるからな。
あとはなーんも覚えてないぞ?」
ポイゾナは少し安心した様に息を吐いて、それから直ぐに開き直るポーズを取った。
肩を竦めて、ポイゾナは新たな違和感に気付く。
自分のいつもの服じゃない。
黒革のジャケットに紫のノースリーブニット、黒いダメージジーンズではなくて、見慣れない少しだけ大きめのマロンブラウンのパーカーに、スウェットパンツを履いていた。そう言えば、丸サングラスも着けていないし、サソリポニーテールを編んでいる紐も見当たらず、髪は真っ直ぐ下りている。
「んだこの服!そんでこの状態!」
ちょっと余っている丈を摘んで、ポイゾナは叫ぶ。
「うるせぇ。お前の服大分汚れてるし(涙で)濡れたから、着替えさせたんだよ。あれは今洗ってる。」
ナラクが面倒そうに言ったのを聞いて、ポイゾナの脳味噌は数秒黙った後に何かしらの結論に辿り着き、顔を燃え上がらんばかりに熱くした。
ポイゾナは顔を、何度も何度も自ら壁にぶつける。
「バカバカバカバカ!!アタシのクソバカ!!
気絶しろ!!すぐ気絶しろ!!くそ!どうしてアタシはこうも身体が頑丈なんだよ!気絶しろ!」
「止めろ。壁が凹む。」
ナラクに言われて漸くポイゾナは頭突きを止めた。
それから蚊の鳴くように小さい声で、
「……ホントに何にも覚えてないんだけど…その、
アタシ……お前を襲ったりした…?してないよな…?」
ナラクは頭を掻いて、答える。
「おう。しこたまな。(大嘘)全部を搾り取られる位激しく。獣みたいにヤッた。(事実無根)」
ポイゾナは再び壁に頭をぶつけようとしたが、さっき止められたばかりである事をギリギリのラインで思い出して、枕に顔を付けて絶叫した。
耳をつんざく大ボリュームで。
「止めろうるさい。」
今度も素直に従い、直ぐに止めた。
「……。殺してくれ…。アタシを殺してくれ…。」
ベッドにうつ伏せになり、絶望した様に呻く。
「お前は誰も殺せないだろ。」
「そりゃそうだけどよ……。じゃあ山に埋めてくれ…若しくは海に捨ててくれ…アタシ来世はマグロになりたいな……美味いから……。」
はぁもう最悪……アタシお淑やかで奥ゆかしいのに…
クソみたいに軽い女と思われてるじゃねぇか……。
ナラクの超人的な聴力で拾えているだけだが、常人には台詞とも認識されないほどに小さな声量で、
ポイゾナはボソボソ呟いている。
「お淑やかで奥ゆかしい」と呼ぶには少々傍若無人で理不尽過ぎるが、…ポイゾナは想像していたよりもかなり落ち込んでいる様子なので、ナラクは少しだけ、からかった事を申し訳無く思った。
「気にすんな。もう夫婦なんだし。あと嘘だし。」
「そうか…そうだよな…。もう結婚したし…嘘!?」
ポイゾナは高く跳び、空中で錐揉み回転を加えて、両足を揃えて突き刺す様に、横になっているナラクの腹に飛び蹴りを放った。
ナラクの身体が、威力でくの字に跳ね上がった。
叫びはしなかった。しかし数秒、耳を澄ませば漸く聴こえる位の音量で悶えて、痛みを堪えていた。
「ペナルティーの純情ドリルキックだぜ。あんまり乙女をからかうなよ。」
ポイゾナは下のナラクに向かって、ピースサインをビシッと勢い良く突き出した。それから直ぐに、ジャンプして床に降りる。
「………。」
待ってもレスポンスが無かった。自分が思うよりもかなりのダメージが入っていた様なので、ポイゾナは手持ち無沙汰に感じた。
こう…、「乙女じゃねーだろ。」とか「技名がダサい」とか、言われた時の返しも用意していたのに。
少しだけ残念な気分になった。
「……。」
どうしようか。まだしばらく、ナラクは動けそうに無い。でもただ待っているだけでは退屈である。
何か面白くて、ナラクを怒らせる事無く、これ以上の反撃を貰わない且つ今の状況を存分に活かせる、そんな良いアクションは無いものか。
「……あ。」
思い付いた。飛び切り良いものが。
ポイゾナは後ろで手を組んで、ナラクの周囲をぐるぐると勿体付ける様にゆっくり回った。
「どうしてやろうかな、うーん?」
などと、何かしそうな空気を匂わせておいて。
ナラクは案の定、ダメージからもうすぐ回復しそうになっており、警戒して身を構え始めている。
ポイゾナは一息にジャンプしてナラクに近付き。
布団を勢い良く取り払った。
「………んっ…!んんぅっ…」
完全に油断していた所に飛び込んで来た、想定外に情熱的で深いキスに、困惑を隠せなかった。
動揺を剥き出しに、思わず相手を突き飛ばす。
「……嘘だろ」
ポイゾナの方が。
慌てて後退ったので足をすべらせ、尻餅をつく。
本当に一番隙だらけになるのは、獲物を狩る瞬間であると、昔からよく言われるが。
今のポイゾナは、当にその通りであった。
からかってやろうと策を弄し、相手が迎え撃って来る事を完全に思考の外に置いていたのである。
なかなか上手く立ち上がれないまま、ずるすると後ろに下がって行き、口を何処かの平行世界の誰かみたいにぱくぱくさせて。
結果的に口をついて出てきた言葉は、
「お、覚えてろよ…!」
負け惜しみ代表の様な情け無い物であった。
「5戦4分け。1勝だな。」
ナラクは気にも止めず、さらりと言ってのける。
ポイゾナは無理矢理恥ずかしさを誤魔化す様に、勢い良くその場に立ち上がって、
「……ん、んなの負けに含まれるかよ!」
と悔し紛れに吐き捨てた。
それから急に思い出したかの様にわざとらしく、
「あ…!アタシ、カルノ起こしてくる!朝だし!」
とだけ声を張り上げて、部屋を出て行った。
アイツの部屋は隣だぞ。
階段を駆け下りていく足音に苦笑しながら言うと、
「うるせー!!バーカバーカ!知ってらぁ!」
騒がしい声と共に、また足音が上がって来た。
そのまま廊下を走り抜け、隣の部屋のドアが開く。
「おはよう!!起きろカルノ!!お前に世界一良いニュースと悪いニュースがある!!」
うるせぇな。そう思いながらナラクは漸く、自分に掛かっている布団を退けて立ち上がった。
「先ずは良いニュース!!世界一美しいアタシが、お前と一緒に住むことになった!そんで悪いニュース!アタシはお前の親父と結婚したから、お前の初恋は絶対に叶うことが無い!!」
「…うるさいな!せめて静かに起こしてくれよ!」
「おっ!就任0日目でもう反抗期か!成長が早くてママは嬉しいぜ!!」
壁越しに聞く二人の家族の声は、とても騒がしく、しかし何物にも代えがたく素晴らしい物に思えた。
……本音を言えば、この騒がしさが一生続くのかと思って、ナラクはほんのちょっとだけ後悔をした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?