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親ガチャ論争に現れる日本人の宗教観

「親ガチャ」という用語は、主に日本のネット文化で使われる言葉です。これは、「ガチャ(ガシャポン)」というランダムに商品が出てくる自動販売機に由来しており、「親を選べない」という人生のランダム性を指します。つまり、人は自分の親を選ぶことができず、生まれた家庭環境や親の経済状況、教育、価値観などは完全に偶然によって決まるという考え方です。

この用語は、特に若者の間で使われることが多く、家庭環境に起因する不平等や社会的な障壁に対する批評的な視点を表しています。一部の人々は、この言葉を使って、個人の成功や失敗が、その人の能力や努力だけでなく、生まれた環境に大きく影響されることを指摘しています。

ただ、僕という人間は重箱の隅をつつくを突くことがめっぽう好きな人間でして、この「親ガチャ」という言葉を聞く度に、いつもひとつのことが気になってしまいます。それは現代の日本人に共通する宗教観が現れていて、僕はその宗教観を共有していないという点で気になってしまうのでしょう。

「親ガチャ」という概念は魂と肉体が分離されていて、魂が肉体をランダムに選択するということが前提となって存在しています。しかし、現実的には脳内の思考はセロトニンやドーパミンといった化学物質によって制御されていて、セロトニン輸送体遺伝子やそれぞれの受容体は両親から受け継いだ遺伝子によって制御されています。つまり、科学的には魂の象徴である思考と肉体を形作る遺伝子は完全には分離できない訳です。

そう考えると結局は自分の両親の下で生まれることでしか自分自身は存在しえない訳で、別の両親から自分が生まれるという事象は起こり得ず、現実的に起こり得た可能性は自分が存在するか存在しないかの2択な訳です。
(0に非常に小さい確率では自分と全く同じ遺伝子を持つような個体が別の親から生まれる可能性がない訳ではないですが、この確率は無視して問題ないでしょう。)

更には、魂と肉体が分離されているだけでは「親ガチャ」の概念は成り立ちません。例えば、前世の業によってどのように生まれるかが決定されるというようなヒンズー教的な宗教観を持っていればガチャという概念は起こり得ない訳です。

おそらく、人は生まれながらに平等であるという考えがこのガチャという概念を形作っているのでしょう。この考えは世界人権宣言第一条の「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」の「尊厳と権利について」の部分を取り除かれて拡大解釈してつくられているのでしょう。そして、この考えはある意味、一種の宗教観と呼べるほどにまで日本人に根付いています。

昨今の日本では、非信仰的な宗教観がより一般的になってきているといわれています。つまり、特定の宗教に深く帰依しているわけではないが、宗教的な儀式や行事を文化的・伝統的な行為として受け入れている人がより多くなっています。

しかし、若者を含めた多くの日本人にとってまだ科学を超越した宗教的な概念を前提として、それぞれの思考を構成しているといえます。もしかしたら、ドラマ、アニメ、小説等が日本人の宗教観を形作る主な構成要素となっているのかもしれません。

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