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【短編小説】invalid (2)

前回はこちらです。

 女子高生の革命は涼しげに完遂し、瞬き一つの間に浴衣姿からセーラー服へ。風情に溢れる水風船は手の平サイズの扇風機に変わる。
 ルボンも学校指定の夏服を着込み、危うく朝のトーストをバッグの中へとしまいかけた。何時も不完全な化粧に行儀の悪さ、はしたなさ。小型扇風機の充電の終わりに片手でまじないをかける。貿易会社で働く父親が”娘よ”とダイニングで唸り、ルボンは食卓を抱えて玄関ポーチを威勢よく抜ける。
 小高い舶来品の丘は街路の只中。トーストを食べ終え絞ったトマトを飲み干し、鶏が届けたスクランブルエッグを箸で弾いた。
 朝食が終わると食卓はプンスカしながら家路に着いた。父親は戻った新聞の朝刊に指を這わせてこっそり紙面を捲ってみせる。
 ルボン自身の身の上は儚く、翌年の夏には往来での激しい事故を控える。それでも変異した高校時代の今は地下鉄駅の長大なエスカレーターを全速で駆ける。
 乗車の前には減速し、ユルッと反転しながらドアを通過。ベンチシートの隅に座って伸ばした両足を交差させる。英語の単語帳の捲りはバッグの上で扇風機の風任せ。自分自身は暗い緑のスカート上にコミック本を広げる。今にときめく瞳で少年少女のキャラクターにふやけた笑みを寄せる。
 既に身長は170cm代の後半。女子サッカーのオランダ代表のストライカーと同じ背丈だ。この点も彼女がフフッとしてしまうところ。
 はたまた曲げて束ねた後ろ髪の隙間に月の丘みたいなうなじを覗かす。随所の要塞をお洒落に整えながらも暗い彼女。
 二重の現在のルボンは分身したみたいなことになり、じとっと熱帯夜な眼差しを彼女に送る。特段面白い一コマがあるよと彼女は彼女にページを示す。
 それで左右の頬を張り合わせ、まるで紙媒体の見開きを占有した二人のルボン。額の熱を測れば一方と電車が剥がれ出し、もう一方の周囲で流れるようなカーブを描く。
 食卓に向かってそうしたみたいに片手を振りながら、ゆっくりアンヴァリッドの地下で堕落して行く。追いかける方のルボンは片足でマンホールの蓋をこじ開ける。
 今度は薄気味悪い、魚のエラ奥みたいな膨縮する弧状の回廊だった。影溜まりに身を伏した幼年期のルボンの背中を見かける。数回りと小柄な彼女は重たい綿菓子みたいな雲を見上げていたところ。ポケット内のコインを噴水目掛けて投げつけ、蛍光灯の紐を引っ張る具合に一切れを掻っ攫おうとする。
 けれどもおしゃまやこす狡い、かような彼女にも忍び寄る影がある。ブラフ積みのレンガ場で技を磨いた自転車乗りの少年だった。じゃじゃ馬のお面を身につけ、マウンテンバイクの前輪を調教して宙でなだめる。
 アクロバティックなのだが集約される緊張感は控えめ。彼は摩擦も少ないウィリー走行で彼女に迫った。
 
 過去を振り返る行為は禁忌とされないまでも、煙たがられやすい。アンヴァリッドの重たい扉を開く行為を彼女はダイヴと呼んでいる。どうにも映画やアニメ好きであるらしく、文化の破壊者と守護者では後者の立場だろうと自分を思う。
 オフビート映画の初体験は中学生時代。黄金期のハリウッド映画の大味なアクションに熟れつつあった頃の話だ。異なる映画作法と照らし合わせ、その筋の巨匠も無惨に評価していた記憶がある日に返った。どうであれ卒業以降の彼女は所謂音楽が恋人である的な、オフビート映画を地で行く高校時代を送った。
 母親の職業は耳の医者で開業医だった両親の診療所を継いでいる。こちらはその母親からの証言で、患者を苦しめる医者の狂気は少ないとは骨身に染みる程に伝えられていたもの。
 今では銃弾の如く飛び交う電話線が度々母娘を繋ぐ。二人は冴えない皮肉を交えた台詞も奔放に向け合う。
 相手の身を置いた診療所内の待合室、本棚には絵本と共に古びたコミック本が悠然と並べられている。そのチョイスを小学生時代のルボンは一任されていたそうだ。
 少年と少女物が均等になるぐらいにジュブナイルを読み耽った幼少期の彼女。ボーイズライクなベストや純白のワンピースが多分なかなかお似合い。めかした姿でコミック本と寝転ぶ数々の写真が残る。
 更には晒したお臍に見開き状態のコミック本を充てがい、ソファーの上で仰向けになった至福の時間の一枚。下腹部からの実り豊かな人生法を試していたらしい。ふと目を開くと天井裏に向かって安らかな乾杯や微笑みを。
 お気に入りのページも同じ呼吸や人生法で記憶していた。それも記憶の喪失後には断末魔の叫びを上げる間もなく弾け飛んだ。
 
 可愛らしくあどけなかった自分を受け入れ難いとする理由は何だろう。母親からの説明を聞いた彼女は今にも折れそうな時計の針を見つめ、経験の受け入れにクロノスの方の時間をかけた。
「ルボンは耳と鼻とが繋がっていることも信じられない子供だったの」
 身体で覚えていたお茶の淹れ方を試すと母親が言った。
「子供の頃にも事故に遭ったわ。覚えているかな?」
「いいや全く」
「やっぱり小学生になるかならないかぐらいの頃だね。当時に新設されたボードウォークのショッピングモール。ルボンはその中のレストラン街を元気よく駆け回った。マウンテンバイクは潮気に塗れたブティックを離れ、丘上の住宅街へ配達に出かけたところだった。貴方はそのマウンテンバイクに撥ねられ、まるで化鳥の悲鳴を上げながらもんどり打った」
「うっ。頭が痛む」
「耐えられそうな痛みであるならば大丈夫と言いなさい。後から駄目になる場合はその際の判断を呪うことも覚えなさいね」
「最初の痛がりが徳をしそうな話だ。初めて月面を踏んだ宇宙飛行士の話みたいに。母さんはその時どうしていたんだろうか」
「生憎冷戦が終わっても、世論が様変わりする前だったから。貴方が大きな怪我を免れた事故だったのよ。どのような戦争の終わりが世論を劇的に変貌させるのかは解らない。世論が本当に巨大な関節を持ち得るのかと言うことも」
「それでなんだねぇ。私はしばらく、散歩へ行ってくるよ。過去も現在の地理上に据えられて栄え込む町。色々なことを滑らかに思い出すことに役立ちそうだ。コンビニはコードに溢れて刺激的だし、最近は店員さんとも親しくなれた気がする」
「ルボンは二度共昼日中に事故に遭った。だからと言って夜道の不安が消えた訳じゃない。牛乳の選び方は覚えているかな。以前のルボンは電子マネーを使っていた。今ではパスワードの解除にどの町の泥棒たちより絶望することも多い」
「母さんもついてくるって言うのかい? そういうのって矢鱈と恥ずかしがっていた記憶があるんだ」
「今日の診療所の受付で、母さんのことを若奥さんって言っていた患者さんがいたんだ」
「娘がタイムマシンみたいな被害を受けた後ではさ、そういうアンチな気持ちにもなったりするんだろうか。何時までも若々しい母さんでいて欲しい、私がそう願うことには恐れがあるかなって考えるんだ。年を取っても素敵な人生を送れるならばそれも良いよ」
「ルボンは以前より饒舌になった気がする。ほろ苦い体験が貴方を成長させたのかしら。これまでは一度も使ったことがない言葉が増えたと思うの」
「感覚的に出て来る言葉が沢山あって、自分の発言から失った記憶が喚起されることもありそうで」
「まるで荒野のシュプレヒゲザング。歌と語りの中間に当たる歌唱法でドイツの言葉。焦らないで欲しいし、無茶をしなくても構わない。シゲヨミ先生は何て言っているかしら」
「人の言葉に頼るの? 母さんはそんな風に嘘をつくんだ」
「何故って脳の話は専門外だから。脳と耳では一つの頭のとても近いところにあるのだけれど。少し仲を違えた母子みたいね」
「もうっ。馬鹿にして。父さんは元気にしているの?」
「癌になったし今朝の食事の後では仕事に行った」
「皆色々あるんだよね。大変なんだ」
「でも痛みは一人一人のものなの。それは忘れちゃいけないことだよ」
「そうしたいし、私は癌になりたくないのだけれど」
 
 丘道からのスロープでなだらかさも通じる。二階建ては和洋の折衷様式、これは耳鼻科の診療所を兼ねた実家の話。ついでに記憶喪失直後の母娘の一幕だった。
 二度目の喪失? あるいは一応の回復? 彼女が変異と呼ぶ状態を迎えた後では混沌としていた。それもやがては変異の解かれた復興と感じられる状態に至る。ルボンは海から浮上した島の軟土を綴る調子で感想をしたためる。
 父親に一報を入れて裏づけも求めたところ、幼い頃の事故や習慣に概ね事実関係の一致が見られた。職場で学んだフェイクニュースの見分け方の知識も役立つ。会話の全てをいちいち克明に覚えられる訳ではないにせよ、随所の互いの都合良い台詞に途方もない濁りを感じた。
 心象面を中心に、軽度の脚色や記憶変化は健常者でも当たり前に起こる。それに加えて差異やら嘘の問題もある。こうなると全てが劇場的でけったいな黒衣くろこも働く。彼女が精査を行う場合だが、別世界のような自然的に返るものや裏づけの取れるものを中心に努める。
 映像化も情報化もむさ苦しいぐらいの進展が遂げられた時代。事実関係の保証は得られやすいとは言え、例えば魔女狩りを避ける類の慎重さが必要。
「君はそもそも広範への情報拡散欲が乏しい、謙虚な人柄のようだね」、などと語っていた脳神経科の医者の言葉が励みになった。だが復興自体にも必要性を導入したりと、彼女の熱心さが幅を利かせすぎる訳じゃない。やっぱり揺らぎを抱えた状態が記憶のあるべき姿と解しているためだろう。
 だけども変異した記憶は異界的も甚だしかった。アンヴァリッドと名づけた時空間で展開される映画を見るようで、ルボンは趣味として楽しめなくもないのだけれど。
 
 AIは夢の筆や櫃のユメビツと名づけ、客観的な描写を中心に日記を綴らせている。会話の記録はどうしたものかと悩みはしたが、事前に許可を取れたものについては記述を実行させる。それで仕上がる一日の日記は膨大な量となり、とても全てに目を通す時間は得られない。
 積み重なるジャンクの山へ宝探しに出かける、空いた時間に左様な感覚の下でルボンは閲覧を試し、変異の解かれた復興の手応えは連日得られる。
 日常的な内容なのだが、それらも過去へ向かって伸長されていく様子。これは会話からの記憶の喚起に近しい理屈と思しかった。
 眠っていた過去が今日や昨日の細かな事実描写に活性化される。入れ子の関係も頻出するなどややこしさは極まるが、有り触れた箇所から生じた彼女の異変も多い。
 ところがそうした箇所には自分自身の言語化は届き難い。ユメビツによって造作も少なく果たされ、当初の強張りも次第に解される形に。そうしてまだ裏づけや関連も欠いた情報の断片が、実際の住空間にも仰山積み上げられた。
 彼女は空き部屋の戸を開き、重層的な地下鉄網さながらの模型資料を作り上げることにした。それが今ではどこぞの大統領の暗殺事件を追う民間人の調査ボードの類、復讐に悶える個人の秘密の屋根裏な様相を呈する。
 テイクアウトのエスニック料理を手土産に、母親は司祭者通りのルボンの住まいを訪れていた。四畳半の空間で抹茶やヨガと和んだ機会も最近あった。模型資料は艶気を維持する手の指で軽く触られ、カラフルなコードが取り巻く時限式の某アイテムに喩えられていたもの。
 確かに数歩と歩み違えればルボンも危険な陰謀論者だ。犯罪研究の仕事をしているため、彼女には取り扱いはお手の物だが油断ならない。全くどこが純朴なのかは解らなくなる。
 されども意外とプライベートでは粗暴には奥手と振る舞う同僚も多い。それから彼女はユメビツの悪戯な使用は避けるようにと心がけている。
「全くルボン君は大したモラルっ子さんです」。再びの大桟橋、世界の終わりの自動販売機前のようなスポットで出会ったヤシロは語った。こちらは珍しい情報拡散の壮大な流れの中で出会った男性だ。その出会いは記憶の変異後の話だったが、また今度話そう。
 拡散網に散った過去の画像や動画や雑多な文章が見つかることもあり、毎度のルボンは伏線回収のドラマ技法を見る思いで体験している──彼女は流石に記憶喪失を体験した身だ。特に大学時代の後期は何らかの形を残したいとする意欲に溢れ、それも何時かは失われるとする虚無の淵での喘ぎも残した。
 実際に変異する形で記憶は六年後に再び困難に見舞われることになる。どうやら失われたままだった記憶の一部と戻ったそれの一部に変異は生じ、保全されていた記憶の方も多大な影響を被った。
 無謀な航海に繰り出す類の舌触りも悪い不安は常につきまとう。そのために不用意な情報拡散にブレーキをかけていた向きもあったのだろう。謙虚は事故以前の自分を表した言葉だが、道徳面において大した秀逸さを示す、また一つ好ましい評価を向けられた背景にはそんな事情も関係している様子。
 
 これらの前に二度目の事故や記憶喪失や、その後の記憶変異やアンヴァリッドについてを語った方が良さそうだ。
 彼女の氏名はカワナカルボンと言った。三本線の川に真ん中の中でカワナカ、流れる盆と書いてルボン。視覚イメージと昔話へのアナロジーが湧いて来やすい。これは人にもよるだろうが、両親からの捻りの恩恵もたっぷりと感じられている名前。
 十八歳の大学一年時まではルボンはルボンだった。二十五歳な現在までの間もルボンだが、十八歳までの麗かさとオフビートな記憶はやはり損なわれていた。喪失の当初にその名は気ままな形では放たれず、医者から教えられると口唇に馴染むのに三日はかかった。
 文芸部に所属し、文化祭に際してクラス芝居の脚本執筆を手がけた高校時代。学業成績はそれなりに優秀だったものらしい。それで大学は二年時までのキャンパスが自転車でも通えるところ、高校よりも近いハーバーズガーデンの国立大学を選んだ。
 夏前までの学生生活の記憶だが、虫食いにやられた畑の作物みたいな惨状を呈した。サトカとイクの高校時代からの友人が一種のリハビリを手伝ってくれた。事故後に再会するなり、サトカは空手の正拳突きの構えで歓迎していた。イクは片手の指をメガネのつるに添えて奥の瞳を不敵に輝かせた。
 素振りは漫画的ながらもルボンの記憶の大部屋を補修し、時には大掛かりなペインティングも施した数々の証言──頭頂部をアンモナイトに仕立てる新しい髪型を試し、日に日にうねった性向も深めていた春のルボン。政治経済学部でサークル活動には消極的だった。学生起業家やパーティピープルからの誘惑、それよりは鎖国を終えた後の国内発展の中心地、先進文化が次々と流入して来た由緒ある港町へ。
 現代に残るレンガや建築のレトロもモダンさも塩梅も、ハーバーズガーデン内ではとても名高い。一つのスポットからの身体距離に異なる名所が複数見つかる。薔薇の咲き香った植物園や重厚感に漲るドックや蒸気船も。湯煙や料理の匂いでごった返した中華街やら。
 空間演出に長けて居心地に優れるカフェも豊富だ。マンネリを恐れず、ルボンは高校時代からもサトカやイクと足繁く通い詰めていたらしい。
 学業の務めを終えた後に大らかな空洞的時間は広がっていた。されどもハイセンスなブティックには滅多に通わなかったものという。
 それで例えば両手を広げて川沿いの道を駆け、ライヴハウスの喧騒を抜けて異人の館のハンバーグハウスへ。馬車道に朽ちた身体も手厚い友情が運んだ。ザリガニの異臭も立ち込む公園の芝生上、一つ一つが異なるカップルの愛の彫像を見ていた──進行がノンシャランに陥ることも多かったようなのだ。
 夏日には豪華建築の日陰を伝って地下道も練り歩いた。ハイウェイの下の歩道橋は新種のアンビエントな音響空間。そうしてカフェの店員がホットな紅茶にジャムを垂らした。彼女たちは再び贅沢な飲料を囲ったテーブル席へ。
 
 大学一年時の四月には、緑の小さな起伏に満ちた住宅展示場へ向かった。「私たち、三人で一緒に暮らす家を探しているんです」。イクが年の近しげな案内スタッフの女性にそう話した。
「まるで何かの映画みたいですね」
 と身なりも口調もお固く澄ましたアルバイトの彼女からの言葉。
「酷い願望みたいな夢の話なんです」
「何の映画であるのか。私には詳しく解りません。ただ地元の劇団に所属しています。舞台みたいな雰囲気が日常的に感じられますので、こういう場所って私は好きですね。少年と少女の丘から覗ける迷子のような劇場をご存知でしょうか? 今度その劇場のお芝居に私も出演予定なんです」
「そりゃまたフリーキーなお話。いえいえ。こちらの話」
 最後にルボンが言うとその後の三人は夕時の桜の花見に洒落込み、今度は真っ白い木造りのベンチ空間を賑わした。サトカは新しいホッピングマシン風のダンスを示し、イクは今は亡きミュージシャンのバックナンバーの歌唱を披露してみたり。夢のアワーやスイートホームをテーマに語り続けることもした。
 何だかんだでエコーチェンバーに終わった総体としての彼女たちの一幕。「何事も変わっていくものだよね」。サトカが言うとイクは「そうかなぁ。何事もってところが引っかかってる」、ルボンは「私も少しはそうだと思う。優れた青少年にも時間を遡ることは出来ないからだ」。
「この町で過ごしているとそう感じやすいんだよ。気持ちも最早変わらなくてはいけない。強迫観念に近い傾向が私の中で芽生え出しているんだ。一文一文が進歩的な文学作品を読み進めている感じだな。こんちくしょうめ」
「相変わらず、サトちゃんの言葉選びのセンスは独特すぎるなぁ」
「それってつまり、生じるはずの切なさも押し流されていくことを意味している。川の先の海じゃなければ港の地層かどこかの中に」
「散ることの華やかさみたいな話だね。どこか矛盾していなくはないかい?」
「あんまり大袈裟じゃあない話。欠伸で広げた口が鼻にぶつかるぐらいの矛盾を自分でも感じる」
 イクが二度とサトカに受け応えていた。現在のルボンがサトカの言動を振り返る、するとパンクの精神に共存した不良っぽさとロマンチシズムが感じられやすい。
「結婚なんてナンセンスだって言いたい訳だよ」
「私は幾ら保守的と言われたって、愛とか恋とかの心の動きは大事にしたいな。純愛には遠く及ばなくてもさ。そういう湖に落ちたい気持ちは解るし、憧れがベースに来ちゃうタイプ」
「イクは純愛って要するに、自分を大切にすることに通じているって考えているんだね」
「でもルボンちゃん。それじゃあそんなに要約していないね。ただ自分が傷つきたくはないっていうことだから、この過保護もある意味では進歩的なのかもしれない」
 イクからはのんびり屋な傾向を覚えやすいが、ひょっとしたら全ての友達は仮面の友達。性格面のルボンの見立ては総合的に裏まで勘繰ってみたもので、それ程当てにしないでもらって構わない。
「えっ。待てよ。ボンはどう感じているって言うんだい?」
「私は例によってどっちつかずだよ。バイアスのお化けがどちらかに取り憑く。反発してわざわざもう一つの選択肢に向かわないまでも、思いを寄せることはしていたくって」
「二択があると妙に落ち着かない、自分で困っちゃうタイプなんだよね。究極的にはそのことに気づいていないと言えると思うよ」
「歌舞いた身なりをしていないだけでそう言われるのはだね」
「それでルボンちゃんは蛙で蛇を睨んだり、火事の際には釣り船を担いで漁に出て行くことをしているのだ」
「結婚だなんて。リアルに考えたこともないのは確かなんだよ」
「基づくものを固めて定めていない、だから純愛もナンセンスなんだな」
「いやはや。それもウブ毛のようには生え広がっているのかもしれないよ」
「ねぇ。以前に悲惨なことに気がついたんだけど、古いホテルの舞踏会の話は二人にしたかな?」
「したかと思う」
「忘れちったさ。保守派の名折れさ」
「昔々にゴージャスな舞踏会が開かれたホテルが近場にあって。私はその場所を訪れた。それこそ親戚の結婚式の用事でだよ。でも私は事前にクローゼットの戸を開けてみて、現代の身近な結婚式の方じゃない、とても格式高い舞踏会のドレスコードの問題に考えを巡らせ、随分悩まされる結果になった。それでも私が舞踏会に出かけることは出来ると思った。冴えないドレスや靴を身につけて、冷たい視線を雨のように浴びながらだよ。これはその手の湿気った話」
「うんうん、ルボンちゃん。概念までもが舶来品で、立派に地元っ子として育っているねぇ。その冷静さ、私も見習わないと」
「何時も話を振って損な気分にさせない。魔性も一つだけだと気にかかるタイプなんだ。ちくしょう。だから私は好きだし肯定するよ。ボンのことはさ」
「ああっ。そのサトカの好きも変わっていくための伏線なんだなぁ。それに本当にクールなのかな。こういうのって」
 
 先述した通り、彼女は道端で跳ねたボールを追って事故に遭った訳だが、何も十八歳になって牧歌的にボールを追い回していた訳じゃない。そこにもわずかばかりの不思議や奇跡が感じ取られる。
 差し当たり、熱波にうなされながら最初の大学の試験期間を迎えた。その暑さが一段と極まった最終日のことだった。キャンパス近辺で七カ国の首脳会談が開かれるとの理由で、街並みの警備は凄まじい程に強化されて近未来的な拡声器までもが活躍していた。
 ヤシロとの落ち合い場所の大桟橋からは片手を掲げて友好的に、スキャンダル塗れな某国の要人が来日を果たした。すると海路の日和や心地について格言めいた数言を放ち、早速マスメディアからの顰蹙を買った。
 ルボンの親戚の兄妹も南方の島都市から遥々ハーバーズガーデンを訪れていた。幼かったこちらも事故とはろくに関係がないし、上述の縁談はまた別の親戚のめでたさだ。だけども小さな子供たちのアクションをふと思い、彼女の道の歩みは優しくなれていた気がする。
 音楽好きでワイヤレスのイヤホンを三つ愛用していたが、その日はいずれも未装着の状態だった。それで街路樹の木陰や空調の利いたオフィスビル内の道を伝い、ルボンはサトカとイクと待ち合わせたミニシアターを目指した。
 再開発が進んだ色街の繁華の只中だ。頭の中はどうやら夏休み期間のアルバイトや短期旅行、ロックフェスティヴァルのことでも一杯だった。友人たちとの恙ないメッセージのやり取りが電磁記録に残されている。
 またそれでルボンはたぎった歩道を走り、炎天下にも毅然と立番する警察官の前を過ぎた。左手側に伸びる道路は片側二車線。午後の帰宅ラッシュを控えて自動車の密度が幾分落ち着き、その分スピードが伸びやかだった。
 観光者の運転するレンタカーが左車線を法定速度で進行していた。当時三十代のフリーター男性で車は走り回るフライパンのような黒塗り。剽軽なアウトドア派で太ったリュックサックを助手席に置いていたそうで、警察官を見かける度に両手をお化けの如く戯けさす仕草を示したりも。
 そして件のボールはと言えば、白色でテニスや野球のそれぐらいのサイズだった。全体どこからやって来てどこへ向かったのだろう。これが不思議なことに、ボール自体の撮影に成功したドライヴレコーダーを初めとする映像記録は一つも見つかっていない。
 でもルボンは右手側から視界に入り込み、数m前方で跳ねたそれを確かに見た気がした。喪失前クライマックスの記憶を占めるのはバウンドした球体で、網膜に焼きついたみたいに事故後しばらくの路上で続いた。
 近くの雑居ビルから出て来た上場企業の営業職な二十代の男性、高齢の散歩者の男性も同じボールの目撃証言をしている。それが一度アスファルト上で跳ねると、前者の男性は自動車の運行に差し障りそうだと案じたらしい。
 ”こいつは想像以上に跳ねたものだな”。その後に二度目のバウンドを行うと、彼は夕時の花火を見上げるようにした。
 しかし以降の放物線の行方は見失った。雲に溶けたものかと瞬きを示した視線の下方では、ルボンがフェンス際の外野フライを捕球する具合に左手を上げていた。
 
「ふっくらした感じのカーキ色のカーゴパンツを履いていて、上半身にはネイビーのシャツを着ていましたか。彼女も私と同じように感じ取り、咄嗟に身体を動かしたのだと考えます。二度目で矢鱈と大きく跳ねたものだから、その動きも釣られてビックリしてしまったのかもしれませんね。まぁイレギュラーバウンドは野球の試合を見てもままあるものですし、地面の状態の何が影響するかは解りません。角度を変えてみればラグビーボールの形状だったかもしれませんし、もしもそうだとすれば一層難解な話になりそうです。それに加えて地球の楕円体説も空洞説も耳にします。恐ろしいことだとは思いますが、何をどう気をつければ良いのやら。これと言った答えが見つからないという。リスク管理の難しい局面でしょうね。人がそうした困難な状況で叫び声を上げたがる、その気持ちは何となく察しますが、私自身は抑制させる手段を選んで毎日を生きているのです」
 同じ男性はそうとも話を続けている。踏ん張りを利かせていたはずだとは思われるが、ルボンの身体は宙を泳いで車道の方へ。
 映像の中の左手は受け身を取るべく路面に伸びかかっていた。肝心の頭部は歩道を空中ではみ出し、黒塗りのレンタカーの前へ投げ出された。オートの急ブレーキもままならず、一秒後には消灯されたヘッドライト部分が柔らかなドームを覆った骨を砕いた。
 人が弾けた油に慄くように、ポプラの街路樹に留まっていた三羽の鳥が飛んだ。路面を転がるルボンの認識は深い静寂と闇に落ち、以後の長い過程で失われた物事は実に沢山。
 ”おうい”あるいは”とうとう迷子になったのかい?”。救急車が到着するタイミングで、イクとサトカからのメッセージが届けられていた。
 結局彼女たちは二人だけでその日の映画を鑑賞したらしい。やはり暇を縫ってルボンの深い趣味のようなリハビリに付き合ってくれたが、事故後に一年休学した彼女との関係にはひび割れも生じた。
 先に三年時を迎えるとキャンパスは別箇所に移って離れ離れに。高校時代からの友情もあえなく崩壊を来たしていたものだ。
 
(続)