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エレクトロニカ2024 Aug.02

 一つ一つの感情が陸地で跳ね回った。
 水の檻への回収を免れ、天に召されることもないまま生の踊りを繋いだ。
 
 僕は不条理の魚だった。
 如何なる海を泳ぎ回っていたかも大分怪しい。
 
 上陸した先はニューヨーク、大きなリンゴのマンハッタン島。
 千葉県内の小学校の五年生、十歳の頃の夏休み。
 夕涼みの空気は今より数回り涼し気で、マンションの上層階では窓を開け放つだけでも十分だった。
 クーラーは現在よりも必要じゃなかった。
 言葉の意味も言語ゲームの中では幾分変化していたはず。
 
 夏は四季の中では最も苦手な季節だ。
 この先憎しみが一層募っていくかもしれない。
 僕は今の内に長所を挙げておきたい。
 
 例えば予感に支配されやすいこと。
 肩や膝の関節がだらけ切ったその中で。
 疲弊を誘う荒野は無意識の帯となり、僕の瞳や唇にまとわりついている。
 過激な改革を求める動機にかかる鍛冶屋が取り組み、花火の明かりの下で研ぎ澄まさせる。
 まだプロセスでまどろっこしいけど、僕の一部はソファや畳の上で確かに尖鋭化させられている。
 歪んだ欲望の温床。
 ゴリアテに挑んだダビデの活躍が待ち望まれる。
 下馬評の僕は何時も底辺、ドアマットに描かれる非力な獣。
 
 枯渇した二人の天使が水を求めて闘争を繰り広げる。
 長所とは少し違ったのかもしれない。
 それから僕は平和主義者だ。
 ペットボトルのコーラの赤いキャップをゆっくり取り外した。
 
 時代は冷戦が終結した後。
 僕はその戦争を本当には知ることのないまま、何本ものハリウッド映画を鑑賞していた。
 渡米の前後にフォレスト・ガンプやフェノミナン、ブロークン・アローにフェイス/オフも。
 
 ジョン・ウー作品の二丁拳銃にはあまり意味を見出せなかった。
 おそらくこだわりの二丁拳銃。
 パルプ・フィクションの鑑賞は大学生になった後の話。
 ジョン・トラボルタは好きだった映画俳優だ。
 多分それ程格好良いとは映らないところが気に入ったのだ。
 
 今頃どこで何をしているだろう。
 僕は失礼を重ねてばかりな気がする。
 今の内にしっかり謝っておきたい。
 二つの銃弾に身体を撃ち砕かれるその前に。
 
 時代についてもう少しだけ。
 9.11の悲劇が現地を見舞う前、世紀末へ連なる階段の最終盤のステップ。
 あのテロは悲劇とは限らないかもしれない、意地悪な知人が現在の僕に囁く。
 どれ程の人が亡くなったのかを数えるだけでも良さそうだ。
 しかし僕と知人が話を続ける間も、どこかで人は命を絶っている。
 鶏や昆虫の後に従い連綿と。
 僕は劇的とは異なる死のことを考えやすくなる。
 
 僕は少年野球チームに所属していた。
 休日の練習を放ったらかしにし、母や兄と羽田空港へ向かった。
 国際線の旅客機は滑走路からの離陸を無事に果たした。
 自分の笑みを自分で掴むことが出来るかのような、巨体の浮かぶフワッとした一瞬。
 皆で見えない鏡を覗き込み、一塊の笑顔を客体視していた訳だ。
 
 時々仮病を使って休んでいたのだけれど。
 少年野球の練習は。
 意外とコーチや監督は怒らず、僕を以前と何ら変わらずベンチに置いた。
 一枚のドアの表裏に張り付いた寂しさと喜び。
 後者は快適なゲーム小屋へ逃がれた幸運に対しての。

 試されていたのは僕のモラルだった。
 かようなシチュエーションに際し、僕は立派な振る舞いを積み重ねて来なかった。
 そのために現在の玄関に絶えざる惨状を招いているだとか。
 別にどうでも良い話だと思うし、ニューヨークの猫も前脚で首を掻いた。
 
 勿論今述べた推測が正しいという保証もない。
 その手の証明を得られぬままに流れる、それが人生なのだとも考えられる。
 僕は不思議な数式。
 何時も細部が間違った黒板上の文字の並び。
 そしてやっぱり不条理の魚だった。
 感情の一つ一つが大地や橋の上で跳ね回った。
 僕はマンハッタン島に上陸していた。