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エレクトロニカ2024 Aug.03

 見つめた闇がなかなか消えない。
 瞳に柔かく刻まれる一時の暗黒症状。
 僕が夜の時分を迎えていただけ。
 大層蒸し暑い夏の夜。

 暗灰色のアスファルトも微熱を帯びている。
 大きな惑星の人工の額。
 容易には冷めやらぬもう一つのキッチンのフライパン。
 腰の先では、こちらもたぎりを絶やさぬ中華料理が暴れ回る。
 メインの色合いは熱情と野心の赤と黒。
 少し夜にも近しいソースの表皮。
 砕かれる豆腐はどれも賽子状の月の欠片だ。
 
 胃袋は僕の中のグロット(洞窟)。
 あるいは僕自身こそがグロテスク。
 面妖な魔物で身体の奥は酷く爛れた巣窟工場で。
 常に甚だしい歪みを抱える訳だと僕は思う。
 何であるにせよ。

 あまりに鮮明な可視化は望むべくもない。
 とても苛烈な夜のカラーだ、ある日の恋人も僕に胃袋を語った。
 今日の二人はしばしのお別れ。
 大体何時もそうである話、その別れは明確な理由を持たなかった。
 去り際の感触は惜しまれ、フックをかける具合に互いの上下の唇を絡ませた。
 僕はその後で白いリネンのシャツを身につけ、窪んだ玄関でスニーカーを履いた。

 中華料理店は駅前に所在している。
 僕は四川風の麻婆豆腐を食した訳だが、退店間際にコップの中の氷を揺らして麦茶を飲んだ。
 それから一駅離れた自宅までの道程を徒歩で進む。
 夏の夜道の感触を全身で感じ取る。
 また一つ大体何時もそうである話、僕の休日夜間の散歩は大きな意味を持ち得るものじゃない。
 侘しい暮らしの断章、流れる時空間を閉ざす繭の覆いだ。
 蛹としての僕自身もその繭もまた、立体的な世界の隅でどうしようもない身悶えを重ねる。

 背の高い街灯、交差点を目指す自動車のライト。
 温んだ町の歩道に二つの僕の影を作り上げ、交わった部分が一際色濃い黒に染まる。
 都市環境が覗かせる魔法の仕掛け、非円形なベン図状の僕の肉切れ。
 はたまた港湾エリアの壊れたネオン看板、こちらは飛び回る蠅の羽音によく似た音を聞かせる。
 どうにも儀式的だが、外観の洗練された新しいパン屋は孤独に佇む。
 closedの拒絶表示が粛々と夜間の海を眺め続ける。
 
 高層マンションは海辺に聳える塔で一つの攻略対象。
 僕は三分ぐらいの間その背を愛で回し、華奢な体躯の上述の恋人を思い出す。
 敷地内にはライトに照らされた蘇轍の木。
 三軒先には小さな船舶の修理小屋、店頭のテント上には水色のボートのおかしな帽子。
 随所に転がる金属片もまたファッショナブルか。
 僕は何度か手の平で輝く面とタッチを交わした。
 河口付近の川の流れは押し寄せる波に揉まれて淀んで見えた。
 まるで有形力に抗う一枚のスカート。
 これをファッショナブルと言うのは大いなる勘違いだ。
 
 やがての僕は味気ない低音倉庫の並びの前を抜ける。
 自動販売機で電子マネーを使って缶コーヒーを求め、孤独にしていたパン屋のように桟橋の間に佇む。
 二十歳ぐらいの男女の数名がスケートボードをカコンと鳴らし、言動は別のことでも騒がしかった。

 彼らは浜辺に漂着した鯨のことを語っていたものだ。
 サイズはどの程度、臭気は以前に寝泊まりした仲間の寝床や胃袋と相違ないだとか。
 巨体の生の繭としての漂着を思い、僕はもうしばしの間夏の夜道の感触に包まれる。