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エレクトロニカ2024 Aug.8

 昨日の私には何が生じたか。目を閉じた闇の中の私をどんな出来事が襲った。やがて開けた眩い景色、夢の中の私は如何なる峠の坂道を巡ったか。
 まっさらな白紙の瞳から湧き出るドロップ、前触れの少ない涙はどうしても出難い。対極の訓練を受けて来た一種の反女優。
 本当に振り返ったのは昨日よりも遠い日、抽象領域で薄く棚引く過去のこと。凝り固まった人や自然の群像が陽の中で溶かされ、至る所の輪郭の門を解放している。それで絶えざる興亡の過程で踊りをやめない。反女優な私の思い出の国。
 
 リアルな私の姿はベッドの上に存在している。今はまだ目覚めてまもない時分だ。鈍い嵐のような欠伸で顔を歪め、鉛の色で想像される眠気を枕の上で引き伸ばす。
 大胆な背伸びも疎いつつ、私は汚れの蔓延る天井に半身を晒す。両足を折り畳み、対称的な脛の前辺りで二本の人差し指を絡める。人の身体の卵のポーズで壁紙にあしらわれた葡萄を見つめる。小さな引っ掻き傷に舌の裏を差し向ける。
 ブラインドの隙間からは覗けたタブノキ。海に近い土地柄に関わらず、平素の私の耳に波音は聞こえない。外の街頭や街角には港町としての性格は希薄だ。時折陰気を誘う海からの臭気が私の脳をくらくらさせる。

 寝台の上は散らかっている。赤い目覚まし時計が透明の前面カバーを外され、腕時計の革のベルトを侍らせながら安らかに眠る。シンプルなデザインの盤面は白一色、楕円形の周囲にはローマ数字が刻み込まれる。
 三つの針は規則正しく回転を続けるが、どれも本当のところはひたむきなレースを始めていない。私は最も長細い秒針の向かう先、Ⅵの数字の辺りに右手の人差し指を置く。十秒程もすると、その針の脇腹が私の指の先端にぶつかる。微動を続け、わずかにしっとりした感触を私に伝える。例えば目元に滲んだ涙の感触、私の中の海が起こした波のそれ。
 
 今日はどうしてこんなに朝から寂しい。私はまだもう少しの間両足を折り畳み、抽象領域の群像劇に頭を浸す。張り詰めた低気圧みたいな朝の気分に包まれる。