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エレクトロニカ2024 Aug.11

 オーマイベビーカー。
 砂浜の君は空っぽだ。
 それでも決して孤独とは言えなくて。
 君の主は波打ち際を越えた先、繰り返されるグレープフルーツ模様の海で遊んでいるところ。
 本当に海ってやつは罪深い。
 何人もの子供たちがビーチサンダルを置き残し、倒れ込んだモノリスみたいに身を投げてしまうから。
 
 それからベビーカー。
 君は僕の翼で、僕は君と背中を付け合わせながら手紙を読んでいる。
 最初は海岸の砂や貝殻を詰めた瓶の中、真っ白い斜塔として佇んでいた一通の手紙。
 ここではない別の土地、また一つの海辺から届けられたスモールワールドの物語。
 君の主の出生の秘密を語ってくれる。
 まるでディケンズ作品の文学装置。
 
 固い意志が不在の場合は迷いが補う。
 一文字一文字が感情体のエメラルド。
 意地悪そうな記号も満載で、余白の所々はわざとらしい涙の痕跡で抉られている。
 どうしてこんなに穏やかな気持ちになるんだろうか。
 僕は斜塔の手紙を何度と読み返し、その中の数え切れない言葉に尋ねかけている。
 
 今、僕らの周りでは蝉音が賑わしく、砂浜を歩むカルガモが麦藁帽子の影に隠れた。
 竹や柳の鳴る音が爽やかで、飛行機は雲の向こうを進んで彼方に消えた。
 僕らは砂浜の片隅に取り残されているけれど、それ程悪い気分じゃあないと思う。
 先客の忘れ物、銀色のポータブルラジオも近くの石段上で賑やかだ。
 音数の少ないオーガニック・サウンドを聴かせてくれる。
 もう少し静かな海を伝えるみたいにだ。
 
 ニュースの最中には珍しく冗談が挟まれた。
 僕も君に一握りの秘密を明かしてみよう。
 君の主の手の平は空飛ぶトンボぐらいのサイズ、今はまだ。
 そんな二つの手の平を新しいイニシエーション風に振りかざし、主は側方から見上げた観覧車を求め始める。
 僕の耳ぐらいな大きさの足跡が、湿った砂の上に連ねられる。
 僕は君から背中を引き剥がし、頼りない君の主の救助に動く。
 
 かようにか弱い主を乗せて運ぶ君のこと。
 僕には祝福に他ならないと考えられている。
 まだもうしばし翼代わりの君に背中を任せ、僕らはその後で家路を辿る。
 主は崩れかけたピラミッドに別れの挨拶。
 僕もお辞儀を繰り出し、君はどこまでも無愛想。
 関わらず祝福のベビーカー。
 君の中身は君の主で一杯で。
 閉ざされた瞳の奥の闇さえ安らがせ、やがて目覚めた主は僕に三つの夢を語り出すだろう。