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花咲く庭にだいこんを#1 「庭に野菜を植える」

庭の仕事をするようになったのは、どちらかといえば「仕方なく」という話になる。学生時代に、“自然”と触れる仕事をしなければならないと思った(たぶん。何しろもうずいぶん前のことなので……)。そこで、農業がいいと思った。ただ、20年前はまだ新規就農の壁はずいぶん高かった。縁もゆかりもない土地に移住して農業にチャレンジするだけの意気地はなかった。
そこで、都市に暮らしながら触れられるもっとも身近な自然であるところの庭に目をつけた。そんなことだったと思う。

だから、庭は自然と人が交流するためのしつらえだと考えてきたし、今もそうだ。
独立して造園の仕事を始めたとき、「里山ガーデニング」というコンセプトを掲げた。里山は、人の手が加わった自然だ。雑木林、田んぼ、ため池、小川、里山を構成する要素は多様だが、本質は人がかかわり続けているという点にある。自然の摂理と人の営みが交錯し、常に変化しながらも一定のバランスを保っている。里山ガーデンではなく、ガーデニングという言葉を選んだのも、その変化や動的なイメージを表現したかったからだ。

そうした庭づくりを求めて仕事を続けてきて結果はどうだったか。
里山ガーデニングという観点から見てうまくいっている庭もあれば、そうでない庭もある。正直に言えば、そんなところだ。
まず第一に、人の生活は変わる。長い人生の中では、庭に目を向ける余裕のない時期だって巡ってくる。
第二に、植物が成長し、庭が安定してくると、それを維持するための手入れにシフトしていく。
そうした理由によって、僕のような庭師が年に数回、手入れに入って美しい景観を保つ、そういう普通の庭になるケースが多い。もちろん、これが悪いということはまったくないのだけど。

里山ガーデニング的にうまくいっている庭に何があって、普通の庭には何がないのかを考えてみると、「わがまま」というものかもしれないということに思い至った。
せっかくガーデンデザイナーに設計してもらったのだから、素人はあまり手を出さないほうがいいかと思って……、というような遠慮があるといけない。里山だって、美しい風景をつくろうと思って手を入れていたわけではなく、人が生きていくための日々の営みの結果として、あのような懐かしい風景がある。

今さら里山ガーデニングと言ってみても、新鮮味は感じられない。里山という言葉も、すでに消費されてしまったのかもしれない。それでも、庭に対する考え方は変わっていない。庭は、人と自然が交流するためのしつらえなのだ。ならば、どうやったら「わがまま」を導入できるかを考えなければならない。
理由もなく人はわがままにふるまうことはできない。身体の内側から湧き上がってくる「こうしたい!」という思い。そうした感情を引き出し、なおかつそれが継続するように仕向けてくれる何かが必要だ。
池は効果絶大だ。その環境を良好に保つためには無数に考えるべきこと、やるべきことがある。それだけに、誰にでも勧められるものではない。
カタクリみたいなデリケートな山野草とか苔とかも良い。ただ難しいので初心者には向かないし、結局は庭の立地その他の環境次第で、人の努力ではどうにもならないことも多い。
いぬやねこのような動物たちも可能性は持っている。でも、彼ら彼女らは動けるから、庭の環境が合わなくなれば、別の場所で楽しむことができる。庭にかかわり続ける動機としては弱い。

そこで、野菜を植える、というアイデアの登場だ。

庭に野菜を植える

「なんだ、そんなことか……」とがっかりされたかもしれない。確かに平凡なアイデアだし、キッチンガーデンみたいなスタイルはもはや定番とさえ言える。果樹やハーブを含めれば、食べるものを庭で育てていない人のほうが少ないかもしれない。
それでも、庭で野菜を育てるというアイデアについて書かずにはいられない。

まず、野菜そのものがわがままな存在だ。種類ごとに、日当たり、土壌の水分などにうるさい。それぞれにあった生育環境を整えるのに人の手を必要とする。
とはいえ、数カ月で結果が出るから気軽に取り組めるし、たとえ失敗してもそれが次の挑戦へのエネルギーになったりもする。
人は生きている限り食べるという事実にも目を向けよう。食べるものを育てることに終わりはない。
そして何より、「里山ガーデニング」にまとわりつくあいまいさと説教臭さを吹き飛ばしてくれる楽しさがそこにはある。
ナイスなアイデアだ。

ただし、一つとても重要なことがある。
野菜は不耕起栽培、土を耕さないやり方で育てるということだ。これ抜きにしては、庭に野菜を植えたところで、野菜を収穫できるということ以上の意味はない。

庭で不耕起で野菜を育てる。そのメリットをいくつか挙げておこう。

①耕さないから楽

野菜づくりで一番大変なので、毎度毎度の土づくりだ。雑草を取って、耕して、堆肥だとか苦土石灰だとかを混ぜ込んで、うねを立てる。不耕起なら、この作業が必要ない。楽ちん。

②土壌を大切にすることになる

毎回の土づくりをしない代わりに、土壌を常に守り、良い状態になるよう気をつけなければいけない。具体的には、常に地表面を覆っておく、草を抜かずに地中の根を大事にする、殺虫剤・除草剤などをまかない、化成肥料を使わない、などを続ける必要がある。土が良くなることは、庭全体、ひいては地球環境にとっても良いことである。

③雑草取りから解放される

雑草は基本的に抜かない。植物の根と土壌中の小さな生き物たちは共生関係にある。土壌中の生態系を壊さないことが不耕起の理由であり、最重要ポイントである。野菜より草丈が高くなるようなら、刈り取って敷いていく。抜かないから負担は少ないし、雑草を生えっぱなしにしておくことに罪悪感を感じないで済む。

④環境への関心が高まる

野菜は食べるものだ。目の前で育てていれば、土、水、空気など、野菜が育つ環境の質が気になる。地球環境の問題も、まずは身近な自然に関心を持つところから。自然の不思議に目を見張る力(センス・オブ・ワンダー)を育み続けることが必要なのは子どもだけではない。

⑤ストレスの緩和

野菜という言葉を持たない生き物との対話は、対人ストレスに囲まれ、何かを管理したり、されたりすることばかり求められる都市生活者にとって非常に価値あるものだ。サーフィンや登山も素晴らしいが、体力に自信がなくても野菜は育てられる。人間も生き物として生きようというなら、自然と継続的に触れることは必要な条件だ。


おいしい野菜が食べられるというメリットが抜けていると思った方もいるかもしれない。確かに新鮮な野菜はおいしい。まして、自分の手で育てたとなれば格別だ。
ただ、それはおまけだと考えたほうがいい。おいしい野菜を収穫することを目的に据えてしまうと、それに囚われることになる。殺虫剤のスプレーボトルを片手に、もう一方の手で肥料をたっぷり混ぜ込みたくなる。
もし収穫できたなら、その幸運に感謝するという姿勢でいよう。

野菜は方便だと言える。野菜を通して庭を、さらにその向こうに広がる大自然を感じたいのだ。
だから、庭に菜園用のスペースを用意するということ以外にも、いろいろと考えるべきことがある。

これから何回かに分けて探求していこう。

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