佐賀のヤバいばあちゃん

来た。
遠方から耳に飛来する微かな走行音を聞き、
今年、齢64歳を迎える登美子は
慣れ切ったクラウチングスタートの構えを取る。

接地は小指から。
次は薬指、中指…。
緩慢な動きで親指までを繰り返す。

初めはぎこちなかった動作も
幾日と続ける内にルーティン化され、
今ではこの所作こそが日常の中で、
登美子が最も心を落ち着かせる瞬間となった。

左足を下げ姿勢て姿勢を維持すると、
巨大な鉄の塊が起こす唸り声に意識を集中させた。

カタン…カタン。 カタン…カタン…カタン。
音の感覚が小さくなり、
遂に意識と音が平行に達したその刹那、登美子は走り出していた。

やはり初動では出遅れますか…。
登美子は一人ごちた。
相手は37万キロ平方メートルの面積を持つ九州を横断する九州新幹線。
福岡から熊本へと向かうその道中で、
加速は既にピークに達している。
出遅れた登美子はゆるゆるとその鉄塊の頭から尻尾まで後退し、
後ろを追いかける形となった。

新幹線が空気抵抗を減らすために突出させた
前方部分はのっぺりとした顔のようにも見え、
登美子はいつも一人息子の孫、
太郎の顔が思い浮かび、くすりと笑ってしまう。

いつも能天気で、
子供らしい無垢を全身にまとっている。
世に生み出された瞬間のみにある、
一瞬の美しさの中に生きている太郎…。
登美子はそんな孫の太郎が愛おしくてしょうがなかった。

ギギッ…と引きづったような甲高い音が
登美子を太郎との回顧から現実に呼び戻した。

おっと、いけない。
これだから年を食うのは頂けませんね。

登美子は太郎との記憶を呼び興してくれた
往年のライバルへ密かに感謝を送ると、
途端ぐん、と加速した。

いつしか初動で出遅れ、尻尾まで後退した
登美子が先を行くライバルと対面を果たす。

一度軽く笑みを浮かべると、登美子は更に加速した。
300km…310km…。
加速を続ける登美子の後ろには衝撃波が巻き起こり、
遂には音までも置き去りにした。

みるみると差が開き、
置いて行かれたライバルは彼方後方で
小さな鳴き声を漏らしたが、登美子にはもう聞こえていなかった。

ただ感じるのは風、熱、鼓動。
登美子はその鼓動に耳を澄ませ、ゆっくりと目を閉じた。
無音に達したこの一瞬にのみ奏でられる、心臓の一拍。

あら、そう言えばおじいさんに寒漬を頼まれていたんでしたね。
その一拍を感じ取った時、ふと夫の武道からの使いを思い出した。

先ほど感じた高鳴りは何処かへと消え失せ、
後方には登美子が引き起こした、
衝撃波により粉砕された家屋の残骸だけが転がっていた。

覚えていられると良いのですけど。
宛ての無い呟きを漏らすと、登美子は更に加速した。

武さんの晩酌までには家に帰らないといけませんね。
あの人は思いついた物が食べられないと
すぐ癇癪を起こすんですから、全く困ったものです。
熱燗を片手に寒漬を食べ、破顔する武道の顔を思い浮かべる。

小さく笑うと、登美子は熊本へと舵を切る。
新幹線は、もう豆粒程度の姿さえ見えなくなっていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?