『君たちはどう生きるか』 鑑賞後の独り言

目次

1.キリコさんについて
2.「下の世界」から受けた印象について
3.「君たちはどう生きるか」の解釈

1.キリコさんについて

個人的に作中で最も謎が多い人物だと感じたのがキリコさんである。この人本当に何なのだろう。

主人公、眞人が暮らすことになった家の家政婦たちに混ざって登場するが、彼女だけちょっと立ち位置が違う気がする。続柄は設定資料を読んでいないため不明だが床に臥せっていた老人(母方の祖父、塔を土で塞いだ人と思われる)の妻?あるいは時代背景的に妾だった人なんじゃないかと思った。

理由はいくつかあるが、最初に気になったのは廊下をゾロゾロ並んで歩くシーン。最後尾で通り過ぎた他の使用人(らしきおっさん)に手を上げて会釈する所で、ん?と思った。ご苦労さま、というか、そんな感じのワンシーン。そして部屋につくと一人だけ床に臥せっている老人の隣に座ったのを見て、眞人は老人に会釈をする。

次に、トランクに詰めてあった父からの東京土産を物色するシーン。他の家政婦が砂糖やら調味料やらにキャッキャしてる中、迷いなく誰よりも早く手を出して煙草をガメている。古株っぽさというか、貫禄のような雰囲気を感じさせた。同じ煙草呑みであり、ちょこちょこ老人の悪口も口にしていて、付き合いも長いことが伺える。あの時代なら女性は使用人とほぼ扱いが変わらないから単純に使用人の古株キャラというよりも親族ではないがそれに連なるポジションとして考えた方が自然な気がする。

そして、キリコさんは眞人とは別に、若い頃に1度、合計2回「下の世界」に行った(と考えられる)ことがあり、しかも、眞人よりもずっと長く暮らしていたと思われる。しかも下の世界では「自分はここの生まれだ」と言っていたがしれっとヒミと同じ時代の扉から「上の世界」に帰っている。あんた扉そこで良いのかよ、って突っ込みたくなった。ヒミのことを様付けで読んでいたので、あの時代には既に家政婦をやっていたのだろうか(ちなみに、産屋から抜け出てきたナツコとも顔見知りで、ナツコ自身も彼女をさん付けで呼んでいた。姉であるヒミはともかく、多分見た目は「下の世界」のキリコさんもナツコより若そうだけど、ナツコから見たら年上の女性なのだろう)。今作のように、当時はヒミと2人で迷い込んだのだと思われる。あの後、なんやかんやあって当時の旦那様(だったのか?)であるあの爺さんと懇ろになったのでは?館に入る時、大叔父様の声は聞こえていないようだったし、外から来た人間なのは確かなのだろう。というか、眞人と一緒に「下の世界」に行った時はなぜ人形になってしまっていたのか。自分同士が出会うとタイムパラドックス的な不都合があるから強制的に人形にされてしまったのだろうか。もう考えれば考えるほど分からない。

2.「下の世界」から受けた印象について

眞人の母方の祖父の家の大叔父様、と言われていたが、母親のヒミも大叔父と呼んでいたので眞人からすると曽祖父の兄弟ということになる。ちなみに、塔を塞いだのは母方の祖父なので、やはりあの爺さんか。眞人(とキリコさん)が迷い込んだのは、そんな大叔父様の創り出した世界である。宮崎駿監督が、もはや原作と全くもって無関係と言っていいほどファンタジーな内容の作品のタイトルを、あえて「君たちはどう生きるか」としたのか。それぞれの場面で印象的だったシーンから、この作品に込められた意図というか、メッセージ性のようなものについて個人的に考えたことを書き連ねていこう。


老いたペリカンの最期

まず、キリコさんの家で過ごした眞人が、老いたペリカンの最期を看取る場面。

「我々はこの地獄に連れてこられた。翼の限り上を目指したが、どれだけ飛んでも、この島にたどり着くようになっている。生まれた子らは、もうあまり空を飛ばなくなった」確か、そんな内容だったか。

生まれた「子」とは言うが、飛べる年まで育っているため、彼らは大人だ。世代としては老人が今の現役世代を見て言っている言葉である。
やがて頭打ちとなる先の見えすいた現実に対して、抵抗を試みる者と、受け入れてしまう者の対比。

注目すべきなのは、老人世代であるペリカンが、飛ばなくなった現役世代を悪く思っていない口ぶりであることだ。「俺の若い頃は〜」みたいな話し方で始まるのに、むしろひとつ下の世代に同調(同情ではない)するような雰囲気がある。
眞人、あるいは我々に突きつけられたのは、どちらが正しいのかという「問」ではなく、どちらの方法を選択したにせよ結論は同じ諦観という考え方に行き着いついてしまう残酷な「現実の姿」だった。

成熟した「わらわら」が空を上って「上の世界」を目指し、それを捕食するペリカンの群れと、それを火で追い払うヒミ、さらに巻き込まれる「わらわら」たち。ペリカン曰く「海には魚が少なく、わらわらを食べるしかない」という。

作中では空を上って「上の世界」に出た「わらわら」は、新しく人間として生を受けるらしい。紛れもなく若者世代を指すキャラクターである。放って置けば彼らは殆どペリカンの群れに食い尽くされてしまう。しかし、結局それを追い払おうと火を放てば一部は焼かれて死んでしまうのだ。
火を放つヒミを称える現役世代のキリコさんと、それを咎める若者世代の眞人。ここにも問ではなく、冷酷な現実の姿だけが我々に映し出されている。

年老いた世代と現役世代である「大人」を支えるために犠牲になる若者世代。そして、その若者世代を救うために講じた手段すら、一部の若者の犠牲が必要なのだ。

そして残念なことに、そんな皮肉めいた、ある種諦めに近い現実を、我々は最近よく耳にしている。


インコの王国

大叔父様の創り出した世界は、人類ではなく、人間のような姿をしたセキセイインコが支配していた。彼らは人間を喰い殺し、節操なく増え続け、もはや住む所が無いほどになっているという。

アオサギによると、彼らは元は大叔父様が持ち込んだものらしい。クライマックスで、大叔父様はこの世界は悪意に満ちており、崩壊寸前だと言っていたが、その悪意は間違いなくインコたちだろう。もとは理想の世界として創られたはずの「下の世界」は、どうして荒廃してしまったのだろうか。

そもそもなぜ悪役がインコなのか?個人的には人間の声真似の印象が強いので、擬人化したらより「人間紛い」の化け物に感じるのではないかと思っている。あと、ペットとして外国から持ち込まれた外来種であることもポイントだろう。

自分たちにとって「都合のいい」存在として持ち込んだ「自分たちの真似」が上手な余所者が、自分たちを駆逐して増え、あろうことか王国まで築き上げてしまう。

察するにこれは、そんな警告じみたメッセージか、あるいは既に起きてしまっていることに対する反省なのか。正直これ以上は荒れそうなのであまり書かないことにする。

大叔父様の願いと眞人の選択

作中のラスト、眞人は大叔父様の提案を断って内側に自分の理想の世界を作るのではなく、外に出てともに理想の生き方ができる友達を作りたいと答える。正直なところ、眞人の心理は観ていてあまり興味はなかった。ただ、大叔父様の思惑として、実は眞人に管理者の立場を譲る気は端からなかったのではないかと思う。

大叔父様は、眞人が帰りたいと言った「上の世界」を「争いに満ちた世界」と表現し、「じきに焼け野原になるぞ、それでも帰るのか?」と尋ねる。

しかし、表情は穏やかに笑っていて、声も少し嬉しそうな感じがした(ジブリ作品は大事なセリフに対する声優への注文が激しい事で有名だからわりと信頼できると思っている)。

ここからは単純に私の想像でしかないが、大叔父様は、自分が創り出した「下の世界」の存続を望んでいない気がする。インコの王との会話では、そもそも世界が崩壊寸前なことは既に王にバレているのにも関わらず、全く焦りを感じていないように見えたし、むしろ管理者を眞人に引き継ぎたいというのは建前で、時間を引き伸ばすための言い訳にしか聞こえない。

個人的には、大叔父様は過去に自分の世界に閉じこもってしまったことを少し後悔しているのではないかと感じた。穢れの無い完璧な人間なんて存在しないのだから、そんな人間が創り出した世界に穢れが存在しないなんてあり得ない。かつての自分は考えが足りなかった、浅はかだった、そんな後悔。

実際、必死にバランスを保っていた大叔父様の積み木は、むしろよく今まで崩れなかったなと呆れるくらいの不安定ぶりである。作中のラストでインコの王が慌てて積んだせいで数秒と持たずに崩れてしまったものと比べても大差ない出来だと思う。というか、眞人に対して「3日に1つずつ、よく考えて積みなさい」と言ったときのイメージ図は素晴らしい安定ぶりであることからも、大叔父様の中では、「下の世界」を支えている積み木は出来が悪いという内面がありありと伺える。

だからこそ、眞人に投げかけた最後の選択は、大叔父様の願いではなく、眞人を試すための「問」だったのだと解釈した。「穢れのない心の持ち主である眞人ならそれができる」という言葉は、かつて思いあがった自分に対しての戒めであり、警告なのだ。

これに対して眞人は、「自分の頭の傷は、己の穢れた感情により、自分の手でつけたものだ。自分は高潔な人間ではく、その資格は無い」と答える。その時点で、大叔父様は満足したのだと、そう思った。

あるいは、最上階に続く道で眞人を迎えに来させる前に、ヒミに対しても同じ質問をしているのかもしれない。ヒミもきっと、同じ言葉を返しただろう。去り際に彼女が大叔父様へ礼を言ったのは、そんなやり取りがあったかからなのかもしれない。


それぞれの時代に続く扉について

老いたペリカンの場面の話で「老人世代」、「現役世代」、「若者世代」の3つの比喩について書いたが、実はここにもその3世代が揃っている。自分はここの生まれだとか言ってたくせに、しれっとキリコさんもヒミと同じ扉で帰っているのだ。

一応、この場面で初めてヒミが眞人の実の母親であることが明かされるのだが、尺の都合なのか結構急ぎ足で色々な情報がポンポン出てきてなかなか忙しい場面である。そんな軽く流してはダメじゃないかと思うようなセリフの中に次のような会話がある。

「そのままいったら、火事で死んでしまうよ」と、眞人がヒミの最期を喋ってしまうのだ。だが、ヒミは迷うことなく「君のような子を産めるなんて幸せじゃない?」と答え、笑顔で別れを告げる。

正直なところ、この場面こそがこの映画の肝なのではないか。眞人と違い、ヒミとキリコさんは「過去の人」である。この扉をくぐった後に、どのような人生を辿るのかを、眞人だけが知っている。先の見えないはずの、しかもヒミに至っては悲惨な未来を知ってしまってさえいるというのに、なぜ彼女達は笑顔で扉をくぐることができるのか?

あまりにも短い場面なので全く印象に残らない人の方が多いと思うが、私はこの作品の1番の見どころだと思う。実際、眞人も特に気にする様子もなく「上の世界」へと帰っていく。理由は実に簡単だ。

「君たちはどう生きるか」

その問の答えを、彼らはもう知っているのだ。


3.「君たちはどう生きるか」の解釈

さて、随分と長くなってしまったが、最後の話題。この作品のタイトルについて。

実のところ、私はこの作品の原作にあたるものだと思ってわざわざ公開前に読んでから観に行ったのだが、タイトルのみ拝借しただけで作中のストーリーとはもはや別物であり、主人公である眞人が序盤に読んでいるのと、終盤に手元に置いておくシーンがある程度である。もう最初は正直意味がわからなくて考えるのを止めそうになった。いや本当にビックリした。公開まで何一つ情報出さないから普通読むじゃない、小説。

そんな愚痴はこのくらいにして、初見ではおそらく殆どの人が、観た人に対して何らかの「問」を投げかけるようなストーリー構成、あるいはメッセージ性のある作品なんだろうと想像したと思う。多分に漏れず私もその内の一人ではあるのだが、実際は全くそんなことはなかった…ように思う。

どちらかというと、「問」というよりは「独り言」とでも言うべきか。そんな、つい口をついて出た何でもない言葉が全ての発端な映画のように感じた。

宮崎駿監督が若者に対して、「あいつらってさぁ、これからどうやって生きてくんだろうねぇ」みたいな、そんな独り言を映画にしたと言うか、そんなイメージがある。何が正しくて、何が間違っているのか、というある種の教育じみた主張は何一つ感じなかった。この映画は、ただただそこにある現実をあの手この手で私達に見せつけているだけなのだと思う。そして、去っていく老いた世代が、残された世代に対してそんな独り言を呟いているのだ。私はそう解釈している。なんだか悪口のように聞こえなくもないが、決してそうではない。変に身構えず、肩を抜いて、楽な気持ちでぜひご覧いただきたい。

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