『夜明けのすべて』 演出分析

三宅唱『夜明けの全て』の酷評の追記。あの後、何を血迷ったか他の新作の邦画を劇場に見に行こうという気になった。そして『すべての夜を思い出す』と『MY LIFE IN THE BUSH OF GHOSTS』を観て、『夜明けのすべて』って面白かったんだ、とあまりよくない評価の改め方をした。上記二作に関しては本当に言葉を選ぶと、映画として良くなかった。前者は初めて、映画には返金、後払い制度が必要なのではないか?と鑑賞後真剣に悩んだ。
 後者は、人生二度目の途中退席を決意した。足は出口へ、尻は椅子から数センチすでに浮いていた。しかし尺が69分という短さで、決意した瞬間に映画がエンドクレジットに入ったため幸いにも、二度目は免れた。自分から人を誘って一緒に観ておいてこのような非常識な行動を取ろうとしていたことは到底許されるものではない。

 上記二作がなぜ面白くなかったのか、映画として良くなかったのかはいずれ書きたい。ただ、その前に念を押して言いたいのは『夜明けのすべて』も含め、俳優の芝居は素晴しかった。俳優の芝居に何か思うところは一ミリもなかった。ただ監督の演出、無視された映画の本質に対して思うところが多々あったので、それをひたすらに書き綴りたい。
 おそらく自分の映画に対する感想は、映画を作ろうとしている人間の視点のため、一般的な観客の視点、俳優や監督、原作のファンからしたら理解に苦しんだり、不快に思ったりするかもしれない。ただ自分は映画を観に映画館へ行く。しかし蓋を開けたらどうだろう!オフビートな現実の劣化版みたいな日常映画や、観客に理解させる、観客を飽きさせないようにさせる気が微塵もない自慰映画を観て理解に苦しんだり、不快に思ったりする。これを変わった、少数派な映画の観方だ!と非難されると映画が映画でなくなるような気がして悲しくなる。

『夜明けのすべて』の演出の問題点

 『夜明けのすべて』に限らず映画には、演出された芝居と、演出されていない芝居(演出されていないように見える芝居)がある。そして本作は、リアリティラインの設定上、明らかに前者の演出は隠蔽されなければならないのだが、あまりに、露骨であった。もはや観客に演出を見せびらかすかのような印象さえ覚えた。

 本作の露骨の演出の例を2つ挙げる。ここで挙げる演出は観客に対してある一定の効果を狙った映画的な演出ではなく、芝居に対しての演出、その結果のことを指す。
 2つは少ないだろうか?申し訳ないのだが、観てから2週間以上は経つので忘れてしまった箇所が多々ある。ただし、この映画のリアリティライン(以下RL)を崩壊させるには2つで充分である。(真実の中に1つでも嘘が混ざっていたら信じられなくなるが、嘘の中に1つの真実があれば信じてしまうのと同様の理論に基づく)

・メンタルクリニックの医師が松村北斗演じる山添に治療法を説明するシーンで、医師は椅子に座り、足を組む(山添がネットで知った他の治療法を試したがることに対してのわかりやすいリアクション)そしてすぐさま足を組みなおし、テーブルに置いてあるお菓子を使って現在山添に行っている治療法の説明をする。
・山添が電車に乗ろうとする駅のホームでのシーン。電車を搭乗口で待つが、後ろに乗客が並ぶ。それに気づき避けるようにカメラに近い別の搭乗口へ移動する。

 等の演出が、明らかに演出として目立っていた。目立っているということは、つまりどこか不自然であり、この映画に馴染んでいないということである。上記に挙げたシーンは、演出という補助線の上を俳優が歩かされているように見える。動かされて見える。なぜ動かされて見えるのか?おそらくそのシーンの演出が、ある一定の情報を伝達する以外のことを果たそうとしてないから、というのが現在の自分の結論である。脚本上の本質を説明する以外の何物でもない、それ以上でもそれ以下でもない、特段面白くもない、人工的で有限的なのである。

【追記】インスタントな演出に関して


・上白石萌音演じる美沙がポテチを豪快に頬張るシーン
・転職エージェントの追い焚きシーン

 勤務中、子供から追い焚きのボタンがわからないと電話がかってくる。このシーンの転職エージェント演じる梅舟惟永の芝居は本当に素晴らして鑑賞時幸せな気分になった。しかし、追い焚きという日常生活を想起させる状況がなお、その場しのぎ的な、嘘っぽく見えてしまうのはなぜだろうか?このシーンはただ映画のRLを上げる機械的な機能しか果たしていない。もちろん電話の向こうには子供存在しない。(ただし、芝居が良くて本当にいるように見える)追い焚きが、転職エージェントという人物の今まで生きてきた一人生や、温もりを表現できてない。上白石萌音のポテチの食べ方も同様に。

良かったシーン

 さすがに酷評ばかりは疲れたので、最後に素晴らしかったシーンと、その芝居を挙げたい。もちろん全体を通して俳優たちの芝居は良かったため、今から特に印象に残っている芝居を挙げる。

・山添の家の玄関前で山添と美沙が話しているシーン(具体的にはどこの玄関前シーンか忘れたが、山添が美沙と話しながらノールックで玄関の棚に鍵を置く芝居)
・渋川と山添が外の木の下で座って会話している。渋川の人間と接する時の絶妙な距離感。その後フリスビーを無茶苦茶な方向に飛ばす山添。
・美沙から退職の話をされて、涙ぐむ光石研の一連の所作。
・女子高生3人、主婦の自転車、団地で挨拶をする子ども等の芝居

 良かったシーンは、事実がどうであれ、まるで演出されていない、芝居をしていないような、現実で起きていることをたまたまカメラが捉えたかのような誠実さがある。それはカメラの容赦無いメカニズム(細部までも完璧に記録し、開示する)によってフィクションの中に生まれた奇跡のような瞬間である。

さらに追記
 山添がZOOM会議中にエアロバイクをしているシーンがある。これは山添という人間を端的に説明する演出としてはかなり面白い。ポテチや追い焚きといったその場しのぎ感がない。さらに監督の映画的感覚とその実力が試される電話シーンの現代版でもあり、三宅唱の映画に対する愛と姿勢が伝わっきて好き。




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