アンチシネマティック

2024/6/28 映画の言語化


 映画を言語化するとは一体どういうことだろうか。言語化できる映画とは、当然、映画である必要性が問われてくる。言語化できない映画はないが、言語化が難しい、または言語化するなんて野暮だと思えるような映画はある。そういった映画は私達にとって何かしらの特別な映画に違いない。
 そういった個人個人の人生に特別な影響を与えた映画や、映画史に凛然と輝く映画の言語化は、マジックの種、仕掛けを明かす行為、神秘のベールを脱がす行為に似ており、ある種のためらいや怖気が生じる。心でゆっくり噛みしめたいと思う。

 しかし、これから映画に携わろうと夢見る冒険家たちは、そのシネフィル的態度から一刻も早く卒業し、映画という聖域を蹂躙せねばならない。たとえ言語化するのが野暮と思えるような素晴らしい偏愛しているような映画でさえも、辛抱強く能動的に言語化しなければならない。
 説明が遅くなったが、ここでいう言語化とはシナリオに書き戻したり、目に映る全てを一言一句書き起こしたり、記号化したり、物語や監督批評ではなく、映画という未解読文字を研究・分析・解読するような科学的アプローチのことである。

2024/7/1 具体から抽象へ

 映画を言葉に変換することは、よく抽象から具体に変換する作業と思われがちだが、事実は異なる。映画の言語化は、具体から抽象化する作業である。それは言葉は本質的に比喩的であるというレトリック的解釈に依拠する。我々はそれを逆手に取る。言語化して曖昧に抽象化されたものを基盤に、自由な発想と掛け合わせ、現場で応用する。

『ルチオ・フルチのマーダロック』(1985)

2024/7/2 アンチシネマティック

 技術部、特に撮影部はこの科学的言語化にあたって注意しないといけないことがある。というのも、撮影部は具体から具体化の作業に陥りがちだからである。それはシーンのレンズのミリ数、アングル、構図等のショット分析至上主義が諸悪の根源なのだが、結局映画はショットとショットの連なりでできているのだから、ショット単体で分析したところでほぼ意味がないと思ってほしい。
 ショット分析主義的言語化により作られた映画は映画的、シネマティックと揶揄される。なぜ揶揄なのかと言うと、小説を小説的などと言わないように、映画に対して映画的というのは最大限の侮辱である。
 つまりシネマティックに撮影された映画は、映画を考える過程において、具体から抽象化するのではなく、具体から具体化するショット分析主義的言語化の末路である。
(※映像は言葉よりも具体的なのだから、それを具体化する行為は映画の表面的な解読にしかならず、映画の本質には到達できない)(※いわゆる万田さんがよく言っていた雰囲気映画の一面でもある)

2024/7/5 アンチシネマティック2 動くなら動け、止まるなら止まれ

 最近地上波で放送されてたブラックジャックのドラマのカメラワークが所謂シネマティックすぎて見るに耐えれなかった。(ドラマだからドラマティックか)にしてもシネマテッィクな映画とは、カメラを意味もなく中途半端に自信なさげに動かしがでちである。動くなら動け、止まるなら止まれ。

20204/7/7 模倣

 オレは…映画を使って別に人間を解剖したいわけではないんだ…ただ赤ん坊が見様見真似で言葉を覚えて成長するように、映画というフィクションが到底太刀打ちできない現実・非映画的世界を見様見真似した結果出現する、神秘的ジンテーゼの世界を創造したいんだ.…という結論を阿佐ヶ谷にあるカビ臭い喫茶店で出し、氷の溶けたアイスコーヒーをズズズと底の方まで吸い上げ店を出た。


『愛と殺意』(1950)

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