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エドワード・ヤン『恋愛時代』(リストア版)ーー虚構の愛をめぐる物語


 先日、お気に入りの映画館、那覇の桜坂劇場で楊徳昌(エドワード・ヤン)監督のリストア版『獨立時代』(1994、恋愛時代)を観た。今日はこの映画の感想を資料によらずに自由に書いていこうと思う。少し恣意的になるかもしれない。事あるごとに観返してきた作品ではあったが、改めて劇場で観て少し違う印象を抱いた。

那覇・桜坂劇場で上映されているリストア版

  この映画が「時代を先取りしていた」とは思わない。むしろ「同時代の台湾で生きる現代人の困難さを鋭く風刺していた」と言ったほうがいい。儒家思想では埋まらない、もう一つのヤンの教義が提示されているのだ。
 本質的には、この映画は台湾華人社会におけるエリート階級コミュニティの物語なのである。オフィスを中心に繰り広げられる経済発展の恩恵を受けた豊かなエリート層の物語とでも言おうか。高級中華料理店、フライデーズ、アメリカンパブ、アキンの超高級住宅いずれもこのコミュニティの高いステイタスを象徴する空間だ。
 農業から工業へとシフトチェンジし、アジアの四小龍にまで経済成長を遂げた台湾。その経済的恩恵を受け、先だって豊かになったのは他でもない彼らだった。彼らはけっして黄春明が命を懸けて描いてきた台湾人の貧しいサンドイッチマンではない。財閥の御曹司と娘、売れっ子舞台演出家、テレビ番組の看板司会者、人気小説家。彼らはごく一部の「成功者」なのである。
 この物語は「青春群像」とは呼べないと思う。チチやミンやモーリーが大学時代の青春を謳歌した後の、いわば「迷いの時代」を彼らは生きている。だからこそ彼らは苦悩し、迷走し、すれ違い、騙し、騙され、猫なで声を誘惑したかと思うと激しく罵りあって別れる。そして、都会の中心で愛を告白したそばから、その愛が虚構だったことを宣言する。孔子の徳や儒家思想とはほど遠い不健全な愛なのであるl。
 無数の虚構は暗いベールのように彼らの人間関係を覆い隠し、出口を見出せないくらい疲れ果てさせてしまう。チチの恋人ミンと寝たばかりのモーリーが台北市内が見渡せるオフィスでチチの肩に頬を寄せ自分たちの青春時代を回想する。
 しかしその積み上げられた虚構の都市のなかで、目を細めてわずかな光=真実を見出そうとするところにヤンの慧眼がある。例えば、財閥の御曹司アキンが芸術家バーディの助手の女の子に一目ぼれするシーンは興味深い。この恋はまったくの勘違い、すれ違い、どたばた劇から始まり、モーリーとの婚約を破棄させるほどの衝撃をもたらすものだった。
 女優志望のフォンが電話口で演じた甘い声が、元来ロマンチストであるアキンの琴線に触れたのだ。その後フォンはアキンとエレベータ口ですれ違うが、フォンはアキンのことを「じゃまよ! エレベーターにさえ乗れない田舎者!」と罵る。これこそが真実のフォンの姿とでもいえるのだが、面白いのがフォンの甘い声の誘惑が、アキンが助手と恋に落ちるきっかけになっていることだ。本来、愛情や恋に脈絡というものは存在しないということを、私たちに知らしめてくれる。それは偶然でしかない。とくに人間関係が複雑化し出会い擦れ違いを繰り返す大都会において、「勘違いの恋」はすぐに正統性を獲得し真実となるのだ。

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