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私の言語学#22


言語を二つ操れる人は強い


私は日本語ネイティブかつ、英語学習者である。それを生かして日常生活や仕事を行っているので、日本語話者と英語話者と会話することができる。
しかし、日本語だけ、英語だけ、しか話せない人は、会話に入るために彼らに自分の母語(理解できる言語)で話してと言うしかない。
私の職場は、韓国人2人と私の3人で1日回す、小さなお寿司屋さんである。彼女たちは接客の時は英語だが、それ以外の時は、ひたすら韓国語で話し続ける。私をあいだに入れて話すときも、彼女たちはずっと韓国語。
はじめはその状態がストレスだった。なぜなら、彼女たちの考えが理解できないから。今では、メンタルが強くなり、自分の仕事をしっかり全うして、少し英語で雑談ができるように成長できたのだが。
この時に私は、言語のハードルはとても高いものだと実感した。母語だと饒舌な人でも、別言語を話さないといけなくなると、途端に静かになる。
理解できないものに対して拒絶する人間の特質を目の前で見たような感じだった。

異文化交流の本質


話したい人と話すためには言語を共有していないといけない。さらに文化や価値観、背景なども持ち合わせていないと心から会話することは難しい。
例えば、お酒を飲めない人に対して、いくらお酒の魅力や伝統、そこから生まれるコミュニケーション、ノリを口頭で説明しても、理解できないように、別の文化で育ってきた人間と本気で心を通わしていくことは、とても難しい。
これは私の実体験だが、多くの日本人は宗教への信仰心を持ち合わせていない。これを海外の人に説明しようとしても、みんなどこか腑に落ちていない顔をしている。その根底には、彼らには信仰心があってそれが当たり前の環境で育ってきている、というものがある。
このような埋めがたい溝を海外の人と交流していくうえで、1㎝でも1㎜でも埋めることができたのなら、それは異文化交流といえるのではないか。

日本語と英語でどのように伝えるか


私は言語の不完全性が好きだ。自分の考えを相手に伝えるとき、「言語」というフィルターを通して、聞き手に伝える。聞き手もまた、その「言語」を「思考」というフィルターを通して、話し手の意図を理解する。すなわち自分の考えが相手に伝わるとき、2つのフィルターを通すことになる。ここに言語の不完全性が生じる。
例えば、一つ目のフィルターについて、私がある感情を「好き」と表現する。そこには恋愛感情だけでなく、尊敬や一緒にいたい気持ちなども含まれる。私はそのようなぼんやりとした言葉として「好き」を用いる。なぜなら、「好き」の包含する内容のすべてを伝えたいとき、その一つ一つを表現していたらきりがなく、また表現しきれなかった感情に申し訳なく思うからである。
しかし、ここで2つ目のフィルターを通すと、基本的に、その文脈にもよるが、恋愛感情でしか理解してくれない。そのもどかしさが愛しい。なぜなら、私が「好き」と思った人間には時間をかけてその感情を表現したいと思えるからである。


英語の場合はまた変わってくる。私は英語学習者であり、ネイティブのようには話せない。したがって、自分の感情を正しく、知っている単語の中からいかに簡単に相手に伝えるかが重要になる。この時に大切なのは、勇気と傲慢さである。
私は留学中、よく言われた言葉がある。それは「Don't be shy.」「Don't say sorry」である。
シャイになるな、謝るな。
何度この言葉を言われたことだろうか。
自分の意見が恥ずかしくて言えない。
英語での表現の仕方がわからない。
話している途中に言葉に詰まって、つい謝ってしまう。
これは日本的な発想。外国の英語学習者はもっと自由。
わからない単語は自国語で話す。
文法なんてハチャメチャ。
発音もあいまい。
でも、彼らは絶対に意見は言うし、伝わらなかったら何とかしてでも伝える。
外国にいるのであれば、日本の思考は通用しない。「郷に入っては郷に従え」。まさしくその土地の人間になりきって自分をロールプレイする。そこには勇気と傲慢さが何よりも大事。


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