どこまでも清潔で明るい家

13. グッドルーザー

「だから、グッドルーザーには次があるんだよ!」僕は珍しく声を荒げていた。声を上げた相手はもちろん、父親だ。
「はあ?ブルドーザー?」耳の悪い父親が聞き返す。父は長年、建設現場で働いていることが祟って、近ごろ難聴気味になっていた。補聴器を買うよう説得しようかとも思ったが、どうせ聞き入れはしないだろう。健康診断の聴力検査の欄に毎年、医師の所見が記載されているにもかかわらずだ。
「グッドルーザー」健全な耳を持つ母親が正確に発音してみせた。そして、「どういう耳してんのよ、あんたは」と正面から睨みを利かせる。
「でも負けは負けじゃねえか。本番のオリンピックじゃ散々だったんだろ?」
「ムッ」僕は言葉に詰まった。たしかにバスケットボール男子日本代表はオリンピックで全敗した。初戦はスペインだった。スター選手の寄せ集めと違い、長年同じメンバーで戦って互いをよく知っていることが強みである彼の国に、七七―八八で敗れた。二戦目は対スロベニア。ルカ・ドンチッチというThe Wonder Boyのスキルに翻弄され、八一―百十六で敗れた。三戦目のアルゼンチンにはなぜ負けたのかわからない。身長差はさしてないはずなのに、どうして……?
「でも、オリンピック直前の強化試合じゃ日本はフランスに勝ってた」僕は苦し紛れにそう口にした。しかし、すぐさま反論の憂き目に遭った。
「オリンピックで勝てなきゃ意味ねえじゃん」と父が言う。
「スカウティングの方に軸足を置いてたんじゃない?」自分の娘を膝の上に乗せた弟が悪気のない正論を言い放つ。「日本の手札を見たくて、敢えて全力は出さなかったとか」
 そう言われれば、フランスが強度を上げてきたのは後半第三クォーターからだった。前半は十パーセントほどの成功率だったスリーポイントシュートも次々と決めだした。世界ランク七位のチームがそれぐらいの狡猾さを持っていたとしても、たしかにおかしくはない。
「よし。野球見るか」父がそう言って、リモコンを手に取り無遠慮にチャンネルを回す。僕は何故だか知らないけれど、数年ぶりに真剣に向かっ腹が立ってきた。
「日本の男子バスケはここで終わらんからな」僕は気づいたときには、すでにまくし立て始めていた。「二人のNBAプレーヤーだけじゃねえからな、チーム引っ張ってんのは。タナカはスティールでリズムを引き戻せるし、ヒエジマは右からも左からもスリー打って決められる。ギャビン・エドワーズだって走る力あるからな。こんなところで―」
 ここでまたしても、映像が切り替わった。但し、チャンネルを変えたのは父親ではなかった。大婆だ。大婆は退院した十八か月前からここに来て、一緒に暮らしていた。入院期間は決して長くはなかったはずなのだが、彼女から自活能力を奪い去るには十分な長さだったらしい。代わりに彼女は自分で汚した下着を家のいたるところに隠して回る悪癖を新たに身につけ、そして日に三回は放屁をするようになった。娘―僕の母だ―が、ノイローゼになるのも無理はなかった。
「大婆、これが見たいの?」僕はそう訊ねた。しかし、聞こえなかったのかあるいは無視しているのか、彼女は何も言わずにテレビ画面を見つめている。
「お母さん?」たまりかねた娘が声を張り上げる。
「いいじゃねえか。お母さんはこれが見たいんだよ」父はそう言って、自分の妻をたしなめた。テレビ画面にはあの北野武が映っている。彼はもはや恒例となっている扮装姿で座っていた。世界的な映画監督がなぜそんなおかしな風体をしてテレビに出なければならないのか理解に苦しんだが、そこにはきっと彼なりの事情があるのだろう。ドストエフスキーの言うところの「内的な地獄」でも抱えているのかもしれない。そして、戯けた扮装はそれを隠すための優しいカムフラージュなのかもしれなかった。番組ではお馴染みのドタバタ劇が始まった。僕らはこの先、この番組を見るたびに聞くことになる大婆の次の台詞を、この日初めて耳にした。
「やっだ、たけちゃん!またおかしな恰好して!」


(完)

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