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家族のこと 5

こういう背景もあり、私は母方の親戚と過ごしたりすることが多かった。
母には妹がいた。その妹が自分の両親と同居していた。

母の妹には子供が2人いてどちらも女の子だったし、家も近かったので、しょっちゅうその家に行って私はその従姉妹たちと姉妹のように育った。
特に下の子と私は誕生日が7時間違いだったので本当に仲良く過ごしていた。

でもそこでまた私は祖母(母の母)から何かと嫌なことを言われることが多かった。その7時間違いの従姉妹と、全てにおいて比べられた。
家に遊びに行くたびに、まずは従姉妹と背中合わせに立たされて、身長を比べられた。私が勝つことはなかったけれど、従姉妹が勝つ度に祖母は大喜びだった。

私がすることは何もかもダメで従姉妹がすることは全ていい事だった。同じことをしても私は怒られて従姉妹は怒られなかった。
同じ服を着ても、私が着ると思い切りけなされた。「全然似合わない、変だ。」と馬鹿にされ、従姉妹が着るととても褒めた。

勉強は従姉妹が賢かったのでその点では比べる次元にも達することはなかったのである意味助かった。

最初私は従姉妹と遊ぶのは好きだったけど本当に祖母が怖くて苦手だった。でもそのうち馬鹿なふりをして従姉妹をもちあげるようにすれば、怒られないと気づくようになり、従姉妹の家では徹底的に馬鹿な子の振りをした。


私を取り巻く家族は大体こんな感じだった。
同居していた祖父(父の育ての親であり、父の伯父にあたる)は父以上に寡黙な人で、ほとんど声を聞いた記憶がない。でも穏やかなおとなしい人だった。その祖父は私が幼稚園の頃に亡くなった。祖父が危篤になった時私は風邪で家で2階の部屋で一人寝ていた。お昼過ぎに、2階の窓がコンコンとなった。見ても誰もいない。どうやらその時に祖父が亡くなったと後で知った。挨拶に来てくれたんだなと思った。

曽祖母は私が小学生の三年生くらいに亡くなった。弱って家で養生していた曽祖母に入れ歯を洗ってほしいと言われて、、いつもは洗っていたのだけれどその時だけ気分が乗らずに、「イヤや」と言って立ち去ったのが最後の会話だった記憶がある。
あの時、あんなこと言わずに洗ってあげればよかったなと後悔した。


私は母方の祖母には従姉妹の目の敵にされ嫌われて、父方の実父には酒乱で酷い目にあっていたけれど、それ以外は皆に愛されて育った。今思うと、お年玉の金額もびっくりするような額をもらっていた。
その中でも曽祖母がダントツで私を溺愛した。曽祖母は毎日私が学校から戻ってくるのを家の前で待っていた。雨でも関係なく1日も欠かさず待っていた。その時はその曽祖母の行動が当たり前として受け取っていたし何の嬉しいとかの特に感情もなかったけれど、今思うとありがたいなと思う。
曽祖母はしょっちゅう私に達筆の手紙をくれた。それは今でも宝物として持っている。

「人の家の中は入ってみないと何があるか分からん」というのは本当にそうだと思う。外から見たら何も問題なく幸せそうに見える家でも、必ず何かしらの問題はあるように思う。我が家もそうだった。裕福で何も言うことないように周囲からは見えていたかもしれないけれど、実際は全然そんなことはなかった。
幸と不幸は同じ分量だけあると聞いたことがある。私は裕福な家に一人娘として産まれ、曽祖母や祖父母・両親に愛された分、それと同じだけの重さの酒乱の祖父や母方の祖母の負の面があっただけな気もする。

酒乱の祖父はよそではとても人格者で素晴らしい人と言われていた。世間では体裁を繕い、とても立派なことを言い人の相談にのったりしていた。しかし実際は胸の中に恐ろしいほどの醜さを抱えた人だった。だから私は、簡単に人のことをあまり素直に見れない性格になったと思う。特にお酒を好む男性に関しては、悪酔いしないに人だったとしても絶対に受け付けなかった。

また母方の祖母にしてもこんな身内でえこひいきのひどい人が学校の先生をしているのかと思うと、教師に対してもいいイメージは全くなかった。

こうやって幼い頃の体験や周囲に言われたことがその後の自分の価値観の物差しの基準になっていくんだろうなと思う。

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