泥の海を渡る㉗

目が覚めた時には、彼と同じ病院にいた。

何一つ変わらなかった。
いや、私も彼も変わらなかった。

療養してから職場復帰した。
良き妻でもなく
良い母でもなく
良い社会人でもなく
良い娘にもなれなかった、私。
生きている意味があるのか
分からない時もあった。

彼は少しずつ治療が効いている、と報告を受けた。
改善はしていても完治はしない。
前のようには戻らない。
待っているのは
退学届、役所への申請だけ。

帰宅して
家事へ向きおうとすると
涙が出てくる。
これからのことを
思うと涙が溢れてきた。

私の何が悪かったのか。
私の育児が悪かったのか。
育児と家事を両立させようと必死だった。
母の癌治療、通院にも付き添った。
一人で泣きながら子どもの入院にも付き添った。
二人とも泣いて点滴をしている姿を
夜中見守りながら
一睡もせず
仕事へ向かう時もあった。
仕事場へ向かう車の中、泣きながら自分の生き方を考える事もあった。
それでも
私は人を責めることも環境も嘆くこともなかった。
こうなって苦しいのも辛いのも悲しいのも
全部、私が悪いのだから。

いろんなことを考えている時
過呼吸になることが増えていった。
ただただ
涙が頬を流れていく。
そして家族へ食事を出した後、
「ごめんなさい」
と涙を浮かべながら話をして
部屋へ籠る。

もう
誰かに助けて欲しい
とは思わなくなった。
声をあげることも
しなくなった。

全部、私が悪い。

罪悪感の中、目を瞑る。
目を閉じると
冷たい泥の海をひたすら歩く自分がいた。
でも
誰にも言わない。
声をあげずに泣く。
静かに。
このままずっと
振り返らずに進む、と決めたから。

ある朝
自分の背中を見た。
体重が落ちて骨が見えるようになっていた。
背中に、しこり、らしいものが見えた。

気のせいだと思った。
日に日に
少しずつ大きくなってきているのを感じた。
用事があった週に
時間があったので小さな総合病院へ行った。

「念のため、病院を紹介しますので
そちらで治療をして下さい。
全身麻酔になると思いますので、МRIでの検査もしてから
紹介状を書きます。」

声が出なかった。
ただ、少しだけ楽になれた気がした。

もう
冷たくて
暗くて
手足が思うように進まない
口を開かない
泥の海へ。
もう
振り返らない。

恐怖はなかった。
黙ってその日を迎えよう。

会計をして次の予約表をもらった。

最後の約束だけは守ろう。
覚悟を決めて
病院を出た。



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