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ローズマリ・サトクリフ 『アーサー王と円卓の騎士(サトクリフ・オリジナル』

僕の読み方:
アーサー王出生前から、円卓の騎士の集合、主要な冒険を描く。
円卓の騎士の個性、サトクリフの現代的感覚と時代考証のバランス。冴えた表現。お見事。

訳者あとがきによれば、チルドレンズブックオブザイヤーという賞を獲得したそうです。一流作家サトクリフによる、アーサー王伝説へのオマージュです。

アーサー王三部作は、1979~1981年の作品。日本には、訳者の山本史郎氏によって、2001年にはじめて出版され広く受け入れられました。

作者のサトクリフにとっては、アラウンド60の作品ですね。彼女は1920年生まれ。30歳頃に作家として活動しはじめたサトクリフの円熟味みたいな部分もあるのでしょう。

サトクリフは、以前にレヴューした『ともしびをかかげて』にもあったように、ローマ支配以降、中世前期のイングランドの歴史に造詣が深い人です。そうした激動、価値観の変動の時代をモチーフにしながら、現代人の心をゆさぶる語りを持っているひとですね。

キャラクターの個性は、べたべたと描かれません、無駄を排した硬質な表現だと感じます。
王アーサー、助言者マーリン、円卓の騎士ランスロットやガウェイン、初心者(僕のこと)でも知っている人気キャラはだいたい全部出てきます。

僕自身は、アーサー王については初学者ですが、初学者なりにそれは歴史的な存在だとイメージしています。実在していた、と信じているという意味ではありません(実在はうたがわしいのかな)。いつの時代でも当時の考え方や価値観をあらわしてきた、大きな目印だったんじゃないか、ということです。

たとえばハンドブックの『アーサー王伝説』には、イングランドとフランスが激しく鎬をけずった中世後期、人々のもとめに応じてアーサー王伝説は成立した、とあります。

ライバルであるフランス側が自国の歴史の中に理想の国王シャルルマーニュを持っていたことに対して、イングランドが負けじと作り上げたヒーローこそが、アーサーだったと解釈することができる、ということです。

つまり、プランタジネット朝イングランドが、「われわれは誇り高い軍団だぞ、だからブリテン島はもとより、あなたがたフランスや大陸の支配もできるんだぞ、徳もあるぞ」、と主張する根拠としてアーサー王は描かれた、ということでしょう。だってこんな立派な騎士道体現者であるアーサーが、かつてわれわれのリーダーだったんだから、と。

たしかに、ひとびとが歴史に英雄を求めるときは、戦いや革命を前に団結するときが多いように思いますね。

ただ、そうやって成立してきたアーサーの描き方は、時代によって移り変わった。完璧な騎士道の体現者として描いた時代もあれば、喜怒哀楽ゆたかに、いわば人間臭く描かれた時代もあった。ケルトの歴史の守護者としての性格もあるでしょう。

以下、印象的な場面を抜粋してみたいと思います。

アーサーの大王の権威の正統性は、サトクリフによって鮮やかに描かれます。権威の正統性は、きっと古の人々の最たる関心事だったことでしょう。サトクリフは、15歳で大王として出発するアーサーを感情的に描きます。できることなら大王になどなりたくない、とでも言わんばかりにアーサーを困惑させ、「運命」の過酷さを印象付ける。

僕なりに以前から思っていることですが、サトクリフは「個人の幸せ」と「運命」との折り合いを、ひとつのテーマにしているように思います。エクトルは、息子のケイと分け隔てなく、アーサーを養育したアーサー育ての親です。

(剣を)今度はエクトルが抜こうとしたが、剣はぴくりともしない。つぎに父親に言われたケイが試みるが、やはりうまくいかない。
「さあ、アーサーよ、もう一度抜いてみてごらん」
そこでアーサーは、なぜこんなに大騒ぎするのだろうといぶかりながらも、ふたたび剣を引いた。最初の時と同様、するりと簡単に抜けた。
 するとエクトルはさっとアーサーにひざまずき、頭をさげた。ケイもそれにならう。ただし父ほど機敏な動作ではなかった。事情がアーサーの頭に蘇りはじめていた。しかしアーサーは思い出すまい、思い出すまいと懸命につとめる。そしてこれまでの人生で味わったことのないほどの恐怖感に心をしめつけられ、ついに、
「父上…兄上… なぜぼくにたいしてひざまずくのです」
と叫ぶのだった。
「そなたが剣を石から引き抜いたからなのだ。それができるのは正統なブリテンの大王だけだと、神さまご自身がお定めになったのだ」
「ぼくじゃない、おお、ぼくなものか」
「マーリンが育ててくれといってそなたを連れてきたとき、そなたが誰の子か知らなかった。しかし、いまこそわかった。そなたは私が思っていた以上に、高貴な血筋の生まれなのだ」
「立ってください。ああ、父上、お立ちください。あなたにひざまずかれるなんて、我慢できません。ずっと僕の父上だったのですから」

第2章 「石にささった剣」 より 

ランスロット、というのはアーサーの円卓の騎士の中でも、花形だろうと思います。聞きかじった知識ですが、眉目秀麗、完全無欠の悲劇のヒーローのイメージです。ところがサトクリフは完全無欠ではなく、醜い人物として描きます。
なぜだ!?
驚きました。どなたか知っていたら教えてください…以下、ランスロットの登場の場面。

未来の出来事が見えているマーリンは、さぐるような目でランスロットを見つめた。ランスロットはとてもみにくい若者であった。いまほど疲れていなくとも、みにくさに変わりはない。ぼうぼうと生えた黒髪の下に見えている顔は、まるで、つりあいなどまったく気にもとめない誰かが、左右を張り合わせたかのようだ。口の片側はまっすぐで、まじめくさっているのに対して、反対側は楽しそうに巻き上がっている。真っ黒で濃い眉毛も、片方はハヤブサの翼のように水平なのに、もういっぽうの方は駄犬のもじゃもじゃの耳のようにはねあがっている。しかしこの顔はもうすぐ、武人の顔となるだろう。そして、女性に愛される顔となるだろう。

第5章 「船、マント、そしてサンザシの樹」

ランスロットが醜いとされた理由、きっと何かあるんだろうけどなあ…少しネットで検索すると、同じことを疑問に思っている人はたくさんいるようです。サトクリフは、理由を説明していないのかな…

醜い人、といえば、ガウェインの婚礼の話もありました(「ガウェインとよにもみにくい女」)。民間伝承とアーサー王伝説をミックスしたものだ、とサトクリフは説明していましたが、個人的にはとても面白かった。円卓の騎士たちが、一生懸命ガウェインの結婚を盛り上げようとするところは、シリアスだが滑稽です。また、ガウェインの妻の言葉も深いと感じさせるところがあります。章を通じて作者の遊び心を感じました。

あとがきのサトクリフの言葉はたいへん清々しいです。古典と、今を生きる創作者の対峙について語ります。

「暗黒時代」の間に、一つの核となる英雄物語が成長してゆき、そのまわりにケルト神話や民話、輝かしい中世騎士の物語があつまってきて、現在アーサー王伝説として知られている物語の総体ができあがった。このように美しくも神秘的で、魔術的な物語は、われわれが過去から引き継いできた文化的な遺産の、きわめて重要な一部を占めている。どの世代にも、どんな時代にも、これらの物語はくりかえし、くりかえし語られてきた。そんななかでも、もっとも燦然と光彩を放っているのは、サー・トマス・マロリーによる『アーサー王の死』であろう。

あとがき 「作者の言葉」より

アーサー王伝説の歴史的意義に言及したサトクリフは、さらに続けます。

『アーサー王と円卓の騎士』では、わたしは主としてマロリーをもとにして物語を描いた。とはいえ、もとより、奴隷のように片言隻句にいたるまで手本にしたわけではない。過去の時代から受けついだ歌を、一字一句反復するだけの吟遊詩人などありはしない。物語を語るさいには、追加や省略、装飾なりをして、自分なりの味付けをするものである。この本でわたしが語っている物語の中には、マロリーの作品にはまったく登場しないものも、いくつかふくまれている。

同上

「奴隷のように」とは強烈ですね。何か片言隻句をめぐって心無い批判をもらった経験でもあったのでしょうか。
文学と歴史の境目は、人によってはゆずれないポイントだろうとは思います。アレルギー反応を起こすこともあるでしょう。歴史的な小説を書く作家は、いつでもこの類のアレルギー反応や攻撃にさらされているのだろうと想像します。サトクリフは、端的に、吟遊詩人を引き合いにして反論しているかのようにみえます。


こどものころ、僕はRPGに熱中したゲーム少年でした。エクスカリバーは、ゲームではだいたい主人公がもつ強い剣の名前でお馴染みだったように思います。たとえエクスカリバーという名前ではなくとも、聖なる剣をめぐるゲームは多かったように思いますね。アーサーのことは知らなかったけど、エクスカリバーのことはなんとなく知っていた、そういうこども時代を過ごしました。

僕の息子は今3歳ですが、彼が崇拝するシンカリオンという正義のロボットが振り回す剣も、エクスカリバーをモチーフにしています。息子よ、君も、アーサーやサトクリフよりも先に、エクスカリバーを知ったんだなあ。まあ、君が知っているのは「駅すかりばー」だからちょっと違うがな。

アーサー王の話をさも知ったようにいつも授業してきた僕ですが、このたびようやくちゃんと読むことができました。最初に読んだのがサトクリフで良かった。


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