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『裏表太閤記』 7月歌舞伎座 夜の部

7月歌舞伎座、夜の部を観てきました。

*約4,500文字あります…

序幕 

第一場 弾正館の場

松永弾正は市川中車。見た目は、化け猫になりそうな老人。
信長の使者によって、切腹か恭順か、迫られている。
いかにも化けそうな雰囲気だが、化けることはなく、我が子光秀に三日でもいいから天下を獲れと伝えよと、但馬守に源氏の白旗を託す。

但馬守は市川青虎せいこ。この人は今回「実は…」を含めると、僧日計、但馬守、天蓬元帥、猪八戒と大活躍。

第二場 本能寺の場

時今也桔梗旗揚ときはいまききょうのはたあげ』の、通称「馬盥ばだらいの光秀」から来ている場面。

光秀が酒を飲まされる馬盥は、今回ほんとうに木のタライだった。わたしが過去に見たのは、『勧進帳』で弁慶が酒を飲む、鬘桶かずらおけのフタのような、黒塗りに蒔絵模様のあるものだった。

確かに今回のほうが見た目として、あれで飲むのは嫌だなぁという気分になるが、そういう「うわ」を歌舞伎に感じたいかどうかは、人によるかもしれない。

内容は、かなりスピーディにまとめられている。
光秀がひたいに傷を負わされる場面も、光秀の辞世の句(と見せかけた謀反宣言)も、春永(この演目では信長)を討つのも全部ここでやってしまう。

蘭丸が中村京純きょうすみ。良かった。

盃として馬盥が差し出されるとき、松也の光秀は顔を上げていたと思う。それだと、運ばれてきた時点で馬盥が視界に入ってしまうのでは?と素朴な疑問が湧いた。

過去に他の「馬盥の光秀」を観たときは、光秀は盃やろうと言われて喜び、平伏して待つのだが、顔を上げたら不審にも馬盥。お前の盃はそれが分相応と言われ、喜びが萎んで耐える…という場面だと感じていたので、松也の光秀の頭の高さは意外だった。

松也の光秀は抑えた声の調子、悪役に見えすぎない化粧が良かった。
信長を討つところまでこの場面で一気に進むので、凄みのある顔でありつつも、謀反を表明するまで、どうなるんだろうと最後まで興味を引くものになっていたと思う。

坂東彦三郎の信長も、声の良さと張りが生きていて存在感があった。
特にこの場の幕切れ、最後まで自害のために腹に刺した刀を引き回していたのが、信長の豪胆さを感じて目に残る。

第三場 愛宕山登り口の場   
第四場 愛宕山山中の場

市川猿弥が、光秀家臣の十河軍平。
さすがのうまさで、それが却って、猿弥をここに使うもったいなさを感じさせる。

坂東巳之助の信忠。信忠の生まれの良さが漂う、貴族風の、ハッとする美しさだ。お通が尾上右近。お通と信忠がしっかりと心を通い合わせているのは伝わってくる。

猿弥の軍平がやってきて、腰元たちを相手に、土器かわらけ投げをしようと誘う。
これを合図に兵が踏み込んできて、信忠とお通は応戦する。
セリフをしながら、巳之助が両袖の紐を結んで肩にかける。
こういう、舞台の上で役者が着替えたり装束をどうにかする(語彙力ゼロ)部分が好きだ。スムーズにやっていると惚れ惚れするし、ちょっともたつくのもそれはそれで面白い。

信忠はこの場面で死んでしまう。よって、巳之助の出番はあと最後の幕だけ。
もうちょっと出てほしいのだが…。

二幕目

第一場 備中高松塞の場

この場面、面白かった。

幕が開くと、老兵が番をしている。
高いところに立って遠眼鏡で物見しているのは市川寿猿。

「どうだ、(敵の数は)いくつだ」と問われると、出井(寿猿)は「今年で94になった」と返す。いや年齢じゃなくて人の数だわ、と周りは呆れつつ、まったく我々のような老人まで駆り出されるとはいよいよ、死を覚悟せねばなるまい、と言い合う。
そしてまた「どうだ、(敵の数は)いくつだ」、「94になった」、「まったく我々のような…」とループするおかしみ。

寿猿や欣弥など、澤瀉屋の歌舞伎を支え続けているベテラン役者のありがたさを味わえる。

重成(幸四郎)の妻関の谷は市川笑也。
重成の母浅路を演じる市川笑三郎、上品さと情があって好きだ。

染五郎が孫市。スッキリとして美しい姿。
秀吉軍との和睦交渉に失敗して勘当を受けているので、すんなりと中に入るわけにいかず、藪に潜んで様子をみる。

幸四郎の重成は、思案の様子で出てきて、藪に潜む孫市に気づく。
厳しい状況を語りながら、頑なに孫市の勘当は解かない重成(幸四郎)と、その言葉に耳を傾けつつも、孫市への情から切々と訴える浅路(笑三郎)の芝居に惹きつけられる。

笑三郎は若い頃から老け役も多く、経験に年齢が重なって味わいも増している。これからますます楽しみだ。

幸四郎の重成は、孫市の刀を自らに刺してからの心情の吐露が特に良かった。
抑えた声の中で、孫市への愛情と、戦況の打開に迫られた使命感、緊迫感が漂って、歌舞伎らしい見応えがある。

重成はこのあと上手の障子屋体に入って首を落とされ、幸四郎は秀吉に替わる。
華やかな衣裳になり、顔もしっかり白くしていたように感じた。
秀吉はこの狂言の「表」を担う男なので、重成からの大きな変化が良かった。

第二場 山崎街道の場  
第三場 姫路秀吉陣所の場  
第四場 姫路海上の場

光秀の手のものがお通と三法師を探している。
お通(尾上右近)は三法師を抱えて秀吉の陣に辿り着き、秀吉は三法師を守ると約束する。

ここでセットが、陣所から船の上に一気に変わる。波幕も使ったスピーディな場面転換で「海上の場」になる。

突如、海が大荒れになる。
お通(尾上右近)は懐剣を胸に刺すと「弟橘姫おとたちばなひめの故事に倣い…」と自ら海に飛び込む。

上手から、椅子に腰かけた松本白鸚が登場。綿津見神わだつみのかみ
神の計らいで船は「天ノ鳥船」となり、秀吉たちは空から、琵琶湖へ向かう。

スピーディも良いとは思うけれども、せっかく白鸚が出ているのだし、「八大龍王…」も含めてここはお通の覚悟のさまと、偉大な神の奇瑞をもう少しゆっくり観たかった。

第五場 道中の場
第六場 大滝の場

天ノ鳥船で琵琶湖へ着岸した秀吉、いよいよ孫市とともに光秀と対決する。

幕の向こうから、ザアアアアア…と重みのある水音がしてくる。
幕が開くとさらに荒々しい水音。
本水(ほんみず)、と言われる演出。劇場全体がひんやりするようだ。

松也の光秀、幸四郎の秀吉、染五郎の孫市による、滝の中での立ち廻り。

幸四郎は、見ている側が気持ちよくなる豪快さで、ざんぶと滝壺にダイブ。

松也は水を吸った衣裳も重いだろうに、機敏にバシャバシャと脚で水を跳ね上げる。

染五郎は、水の重みと滑りやすいのに耐えながら、必死に2人についていく。

力強く頭のてっぺんで滝の水を受け止める松也、仕組みをわかってうまくダメージを避けている幸四郎、落ちてくる水をまともに食らって潰されそうになりながら踏ん張る染五郎。
三者三様の、大滝での見得が面白い。

幕が引かれると、確かこのあと、裃姿の中車が出て、これより大詰だよという短い口上。スッポンから下がっていく。

大詰

第一場 天界紫微垣の場

ここでいったん、世界が変わる。

猿弥が天帝、門之助が大后おおきさき
この2人だからこそ、急な展開もそれらしくできると、分かっているけど、それにしても、もったいない…。

お前のような暴れ者、日本という国をくれてやるから出ていけ、的なことを言われて孫悟空(幸四郎)の宙乗り。

昼の部が「狐と鼓」の宙乗りなら、夜の部は「猿と瓢箪」だ、ということなのだろう。幸四郎の孫悟空が、瓢箪に頬をすり寄せる仕草でそれを感じる。

澤瀉屋らしいと思ったのは、このあとの猪八戒「飛ばないブタは…」の宙乗り。

幸四郎が次に大坂城大広間の場に出るための準備時間、と感じさせない楽しさがある。
特に、猪八戒だけでなく沙悟浄も!?という展開に客席から「え…(マジで?)」という声が出るあたり、ああ7月だなぁと感じる。

猪八戒は市川青虎。大活躍。

第二場 大坂城大広間の場

観るまでは、どうして秀吉の「表」を見せる最後の場面が踊りなのかな?と思っていたのだが、華やかだったので、なんとなく納得。

北政所が中村雀右衛門、淀君が市川高麗蔵。淀君はアクの強いイメージだけど、高麗蔵らしい正統派な美しさで出ている。

三番叟は、
宇喜多秀家が染五郎(黄色)、加藤清正は坂東巳之助(緑)、毛利輝元が尾上右近(確か紺)、前田利家は尾上松也(確か紫)。

写真で見たときは幸四郎の秀吉の赤色がちょっと強くて、毒々しいなと思ったのだが、舞台で見ると朱色っぽい赤で綺麗だった。

幸四郎の赤を筆頭に、色調が「戦隊モノっぽい」と思ってしまうと、ちょっと冷める。だからそこは考えず、巳之助と右近どっち見よう!?に集中する。

巳之助か、右近か、忙しく目を動かしている間に幕になった。

最後に

チャレンジングな演目だったと思う。

夜の部の『裏表太閤記』は、「馬盥」のある光秀はともかく、秀吉は物語の中で長いセリフもないし泣かせどころもない。その中で、有無をいわさぬ、不可能を可能にするまばゆい光のような存在を描き出さねばならない。

観て、思ったことが2つ。

ひとつは、澤瀉屋狂言の特異さ。

わたしは43年前の上演を見ていない。だから、どこがどう改訂されたか知らない。しかし、澤瀉屋らしいというか、澤瀉屋が持つ跳躍力を前提にした芝居だな、と感じた。並大抵ではできない。

3代目猿之助(2代目猿翁)から4代目猿之助へと、澤瀉屋には、強烈な「夢見る力」がある。

現実を一瞬で飛び出す爆発力と、それでいて観る側の胸に「もしかしたら」という希望の火を灯す温かさ、懐の深さ。

歌舞伎の重厚な部分を力強く踏まえた上で飛ぶからこそ得られる圧倒的な飛距離、そこに天をも貫く情熱が加わって出現する、抑えがたい高揚の世界。

ストーリーが一見地味でも、ぶっ飛んでいても、澤瀉屋のこの力が観客を物語へ連れていく。

わたしは今回の『裏表太閤記』で、これまでの澤瀉屋の芝居が持っていた力、その特別さ、貴重さ、そして他者による再現の難しさが理解できた気がした。

もう一つは、澤瀉屋の芝居が、長い年月をかけて、貴重な役者を育ててきたことへの感動と感謝だった。

わたしがよく歌舞伎を見ていた頃、澤瀉屋の芝居は驚きに満ちて、華やかで、情熱的だった。
当時はそういう面にばかり目が行っていたが、その内側で、澤瀉屋の芝居は地道に人(役者だけでなく、もう少し広く)を育て続けていて、それは数十年経った今に繋がっているのだと、気づくことができた。

笑三郎、猿弥、門之助はもちろんだけれども、笑野、青虎ほか、役者は実に色とりどり。このままでは、もったいない。
(門之助の出番なんて、少なくて筋書を二度見した。)

長い文章、お付き合いくださってまことにありがとうございました。