見出し画像

【舞台感想】文楽5月公演Bプロ『ひらかな盛衰記』

ほぼ初めての、劇場での文楽鑑賞。
『ひらかな盛衰記』の半通し狂言。木曽義仲の家臣である樋口に関する段を中心に上演される。


義仲館の段

お筆が動き出した瞬間に、息を呑んだ。そこでお筆が息をしているのを感じた。

耳で捉える語りと三味線、そして目に映るビジュアルを、脳内が一つに仕上げていく。
舞台の上部にあるモニタに出ている詞章も、ときどき見る。
文楽は、文章としても美しいし、使われる字はときに耳で聴くより生々しい。

お筆は物おじせずサバサバと物をいうタイプなのが分かる。
彼女は後の段で事態をこじれさせることになるのだが、この時はまだ賑やかな雰囲気。

下手(しもて)から、白い馬に乗って登場する巴御前が凛として美しかった。
下手寄りの座席だったので、文楽人形ってこんなに大きいのだな、と仰ぎ見る。

義仲は「竜に翼を得る如き」という語りにふさわしく、萌葱色の羽織が美しい。

楊枝屋の段

一番の驚きは、置物で出てくると思った猿が、ちゃんと操られる人形だったこと。

予習に使っていたのが『日本古典文学大系51』で、猿について「看板として店先に猿の置物があるため」と注釈があった。
てっきり、木彫りの猿でも出てくるのだと思っていた。
もう少し広く予習しなくちゃいけなかったなと反省。

この段は、お筆とその父の隼人が、義仲の子駒若と、妻の山吹御前を匿って敵を欺くハラハラの展開。

猿にセリフはないが、体を掻いたり、家主の頭によじ登ったり、かなり動く。

無邪気な猿の動きにクスッとするおかげで、緊張疲れせず見られる。

大津宿屋の段

追跡の手を逃れ、山吹御前と駒若たちは大津の宿へ。
隣の部屋に泊まるのは、駒若と同じ3歳の子を連れた巡礼の家族だ。

権四郎は、宿賃やら行灯の代金を交渉しまくる。
登場からものの数分で、権四郎の濃いキャラクタが、太夫の語りで伝わってくる。

子の取り違えの場面は、よくできている。

廊下を挟んで隣あう、槌松と駒若の座敷。
夜更けに幼い2人が、目を覚まして廊下で遊び始める。
2人が行灯を取り合って、倒して灯りが消えたところに、駒若を追う討手が踏み込んでくる音。
このとき、槌松と駒若の位置は、座敷から這い出てきたときとは逆になっている。

サッと障子を開けて暗闇の中、お筆は目の前にいた槌松を、およしは駒若を抱いて座敷へ引っ込む。

笹引の段

悲痛な場面。

お筆たちは暗闇を逃げるものの、討手に追いつかれて隼人が死に、子供も首を取られてしまう。
ショックに耐えきれず山吹御前も死ぬ。

この段は、立ち廻りもあって動きが激しい。
文楽って、人形がときどき、宙を舞う。文字通りポーン、と放られる。
映像で初めて見たときには、驚いた。

今回も、槌松は駒若と間違えられて殺されたときに胴体がポンと放られるし、お筆も、討手の死体が笹の上に乗って邪魔だから、オリャと放り投げる。

そんな力持ちなら、もっと軽く山吹御前の遺体を引っ張れるのでは、とも思うが、そこはそれ。
笹の生い茂る暗い山道を、お筆はしおしおと笹を引いていく。

松右衛門内の段

どの段も面白いが、ここは特に面白かった。

お筆の来訪に、槌松を連れてきてくれたか、と権四郎は喜ぶ。
そこから、槌松の死を知って悲しみ、お筆の「起きてしまったことは諦めて若君を返して」という言葉に激怒する。

感情の全部盛り状態。

この日で一番、驚嘆したのが、権四郎の一つのセリフ。

権四郎:そちがためにも子の敵。その小死人づだづだに切り刻んで女子に渡せ
松右衛門:アイヤさうはいたすまい
権四郎:なぜいたすまい

セリフはプログラムより

権四郎が松右衛門の言葉を聞き返す「なぜ、『いたすまい』」。

激昂に対して、思いもよらぬ方向からアルコールランプにフタをかぶせられたような、きょとん、に近い疑問の返し。

このセリフの響きは衝撃だった。

まだ松右衛門は、実は義仲の家臣樋口であると顕していない。
権四郎は松右衛門を、船頭の素質ある婿だと思っている。

権四郎の、感情が絞れない、どこに感情を転がすか決まる前の混沌と戸惑いの響き。

こんな響きを、声だけで表現できるなんて。
もちろん、人形も、その肩の先に漂う悲しみまで表現している。

このあとは、松右衛門が実は樋口だと正体を顕して、権四郎を説得する。

そんな簡単に権四郎が「子が武士なら親も武士だ」って思えるかなぁ?と感じるが、カットになっている樋口のセリフも読むと、なかなかに言葉を尽くして説得している。

カットされた部分を読む(日本古典文学大系51『浄瑠璃集』上)と、樋口はまず、家族として槌松の死を悲しみ、他の場合なら相手を放っておかない、と言っている。

それから、武士は主君の若君を殺すわけにいかない、槌松が若君の身代わりとなったことは名誉で、これも家族となった縁のうちと思ってくれないか、と言う。

求めていることは、お筆も樋口も、「駒若を返してくれ」なのだが、樋口のほうが、寄り添ってくれている感は確かにある。

この段は、セリフも多く動きも大きい。
権四郎はじめ登場人物のキャラクタがいっそう濃く浮かび上がり、没頭して見た。

逆櫓の段

松右衛門内の舟宿のセットから、どうやって逆櫓の段に行くんだろうと思ったら、波の幕を振り下ろして舟宿の屋体を隠し、足元の床も波幕を被せるという方法で、瞬時に場面転換。

勇壮で美しい、樋口のカシラ。

不思議なもので、生身の人間よりずっと小さな身体が、ねぶたの山車くらいの巨大さに感じる。

プログラム表紙裏の写真より。実物は大迫力

立ち廻りの部分は語りも強烈で、船頭に化けた討手2人の死にざまは、「天窓(あたま)の皿、微塵に砕け死してんげり」。

強すぎるよ、樋口。

人形の動きは激しく、かなり遠慮なく人形同士がぶつかる。
投げたりぶつけたり、こういう遠慮のない動きは生身ではできないし、文楽でないと笑えない。

権四郎が訴人したのは、若君を守るためだと分かって樋口は嘆きをおさめ、この世の辛さと未来への望みを抱きつつ、幕となる。


文楽は刺激がいっぱい

文楽、定期的に観ようと思った。

生身の人間が舞台で演じるのとは違う、分業でこそ極められるもの。
語りは語りに専念することによる、極限まで磨かれたセリフ術。
人形遣いは操りに特化して、「人間みたい」な部分もありつつ、人形でこそ可能な、超現実を見せてくれる。

そして最終的には観る側が、耳と目からの情報で物語を自分の中に構築して仕上げる面白さ。

読む、聴く、見る、それぞれでも面白いが、これが劇場で合わさったときの没入感は驚きだった。

自分の中で、普段は使っていない(らしい)情報処理機能を意識するのも楽しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?