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しぇんしぇいパパ、ありがとう②

ここからいよいよ東京編です      
いよいよ佳境に入ってきます、東京編。父は何度も飛行機の中で吐いたそうです。そりゃあそうですよね、普通に健康な人でも気圧の変化で気持ち悪くなりますもの。前日に大量の下血を起こして意識障害を起こしていた人が、よくぞご無事で羽田空港についてくれました。しかしほっとしたのも束の間で、今度は交通渋滞に巻き込まれ、父の体力は消耗するばかり。妹はトイレにもいけず車のなかでティッシュペーパーのケースにおしっこをしたとか。
さて、当分の間父の仮の宿になるのは、妹(三女)の旦那の勤務先になる「練馬総合病院」になりました。池袋駅から西武池袋線「江古田」駅で降りて徒歩7分ですが、妹(次女)の住む大宮からは、一時間かかりました。私は四歳の祐貴を連れて妹の家に泊めてもらい、妹と代わる代わる、見舞いに行くか子ども(3人の幼児)の面倒を見るかしていました。毎日病院には誰かが行きました。
行きはよいよい帰りは・・・(>_<)。松江という地方都市で毎日マイカーで移動している者にとっては、東京という大都会で電車をいくつも乗り換えて、
その都度地下4階まで上がったり下がったり、まあどんだけ歩くのか。しかも座席に座れることも何回に1回だけ。満員電車でぎゅうぎゅうずめのことも。帰りの電車の中では、つり革を握った状態で寝てしまったことも。
こうして父を愛する三姉妹の長い戦いは、始まりました。もちろん主人も相当犠牲になっていたことと思いますが。我慢して協力してくれていました。
さてここからあり得ない、まるで韓国ドラマのようなことが起こります。

皆生の東光園、大山をバックに次女と三女。
ということは写したのは、長女の私?
ちゃんと大山を入れて、なかなかのセンスじゃないですか。!(^^)!

父の手術日が決まるまでの待期病院では何回か、看護師さんから呼び出しの電話がかかってきた。が、はいはい直ぐに行きます、なんて松江じゃないんだから、一時間余り電車旅していかなきゃいけないから、電話がかかってくると受話器片手の妹と目配せして、どっちが行くー?あんた行きないよー?みたいな、押し付け合いが始まるのだった。足が向かない。何をしてくれちゃってるのかねー?うちの九州男児は。
そして私が行く羽目になった電話は、「原田さんがパンツいっちょで暴れていて、言うことを聞いてもらえません。」ってー??

行ってみると、「オーやっと来てくれたか。みんな話の通じんやつばかりで困ってたんだよー。」と話してくれたのは、「トイレに座ったら病院着の浴衣の裾が便座の中に入っててびしょぬれになったから脱いでただけなのに、人のことを気が触れた者みたいにいいよって」とかなりのお怒りモード。
看護師さんに説明して、身体を拭いてもらって新しい浴衣を着せてもらって安心した様子の父。それからは世間話をし、ご自慢の娘婿の大学病院での活躍ぶりを話してあげると一番うれしそうに目を輝かせて聞いていた。
この病院にどのくらいお世話になったのか、メモ魔の私の手帳を見ればわかるのだがまず手帳を探してもらわなければならない。自分で探せないのがもどかしい。
そしていよいよ慶応病院へ入院する。鳥大病院で黄疸を防ぐための管を入れてもらったのが9月、暦は12月になっていた。
松江で父の帰りを待つ間、診療所を守ってくれている看護師長をはじめとするスタッフの皆さんも、手術日が決まるのを今か今かと首を長くして待ってくれていた。
まさか嬉しいことのあったその日に地獄のような悲惨なことがおきる日になろうとは、誰が想像できただろう。

式の当日家で着せてもらったので、従業員の皆さんやご近所の、
私の幼少期から知っておられるおばちゃんたちにも晴れ姿を見てもらえた。
「美穂子ちゃん、おめでとうー、きれいよー。お幸せに!」とたくさんの祝福のシャワーを浴びて省さんの待つ教会へ
父の手術日を誰も覚えていなかった。私は、もしかしたら?と息子の幼稚園の連絡帳を出してみる。ビンゴ!!

この運命の日に、12月12日に手術日が決まったことを首を長くして待ってくれていた師長に電話する。「わぁー、それは良かった。周りで聞いてる看護師も事務員も喜んでますよー。先生に頑張ってください、こちらのことは心配いりません、とお伝えくださいね。美穂子ちゃんもお疲れが出んようにね。奥様にもよろしくお伝えください。」と本当に喜んで興奮しておられたように感じ電話を切りました。午前中のことでした。まさかこれが最後の会話になろうとは。
家族みんなでやれやれと胸をなでおろして久しぶりに明るい会話をしていた夜、主人から電話が。
「師長がトラックにはねられて、亡くなったらしい。詳しいことは今スタッフの二人が警察に呼ばれていってるらしいから、そのうち連絡があるだろう。」
言葉を失った。嘘だわ、人違いだよ、きっと。自分に言い聞かせるように、主人に話していた。
お昼前に電話して、あんなに喜んでくれてたじゃない。一体全体何が起こったのー?  喜びが一気に悲しみに。胸がどきどきして鳴りやまなかった。すぐにでも駆け付けたかったが、ここは東京、しかも父の手術を数日後に控えていた。 
師長は仕事を終えて、帰宅途中に横断歩道のない道を横断して、軽自動車にはねられ、起き上がったところに反対車線から来たトラックに巻きこまれてしまったようだ。なんてひどい事故に。
私を始め、妊婦の味方、産後はおっぱい指導など優しくて厳しい愛情のこもった看護をして下さった師長さん。
息子のお産の時には、やり方の違う二人の産婦人科医(父と主人)の間に挟まれながらも私の会陰部が裂けないように守ってくれた恩人である。
葬儀は9日、主人が原田家代表で参列させてもらった。3日後に手術を控えている父には知らせないことにした。
師長さん安らかにお眠りください。本当に父と二人三脚で原田産婦人科医院を守ってくださり、心から感謝しております。ありがとうございました。

祐貴の七五三のお祝いに父と金村師長と

こんな韓国ドラマにしかないようなありえないことが起こってしまった。が、悲しんでいる間もなく、手術前の説明を聞かなければいけなかった。担当医は、私一人に話すつもりでおられたのに、父が僕も聞くというので私と一緒に行く。先生方は父の姿を見てちょっと困惑された表情をされたのを私は見逃さなかった。
そして手術の手順や麻酔のことなど一通り話されて終わったかのように思えた。では、よろしくお願いします、といって席を立った時、「娘さんには書類にサインしてもらいますので少し残ってもらえますか?」と言われ父だけ部屋に戻っていく。そして私だけになったところで告げられたのは、
「手術後の5年生存率は25%です。」えー父は5年しか生きられないのー?そんな-。先生の言われていることの意味が直ぐには理解できなかった。
その後の話は耳に入らなかった。そしてその部屋を後にして、父の待つ病室までどんな気持ちで歩いたのか?父にきづかれてはならない、絶対涙なんか流しちゃならない。よし、ここからは女優になろう、演技しよう、ととっさにそう思ったのをおぼえている。そして部屋の前まで来たら、深呼吸をして、にっこり笑って口角を上げて部屋に入った。
案の定、父は医者としての感だろうか、「えらく長かったなー、何の話だった?」と聞いてきた。「サインする書類がいっぱいあってねー、大変だったわ。」女優美穂子の初演であった。また一つ父に内緒ごとが増えてしまった。

昭和32年美穂子、原田家の長女として生まれる

そして手術当日。平成7年12月12日、手術後の説明は、今度は三女の妹と二人で聞いた。そしてうまくいきましたといわれて、妹と目を見合わせて良かったねー、と微笑みあったこと、そして病院の何の飾りもない長ーい廊下をどちらからともなく手を握り締めて、手をつないでルンルンして戻った光景は今でもしっかり目に焼き付いている。背後から、映画監督の、「ハイ、カット!」の声が聞こえるようなワンシーンだった。
余談だが、父の手術の当日が早かったので、みんなで病院に一番近い宿に泊まった。名前を忘れてしまったのでググってみた、あったあった、そうここだわー、昔はたぶんラブホテルだったんじゃー?とみんなで話したわ。(笑)(あえて名前は伏せておきます。)
それから、息子の連絡帳によると、無事に退院して、父と母は三女宅でのんびり年を越し、私と祐貴は年末に米子に帰ってきて、やっと親子三人水入らずで、新年を迎えることが出来たようだ。めでたしめでたし。(^O^)/
【完】
次回は、復活編です。医師として又診療することになった父に私が身を挺してしたことは?



 

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