初恋の鎮魂歌【小説】

 それは一目惚れだった。忘れもしない中学校の部活の最後の大会の日。勝てば県大会に出られる決勝戦だった。もう試合のスコアは忘れてしまったが、市民体育館で見たその人の顔は忘れられなかった。チームメイトの歳の離れた姉、それだけの情報しか無かった。それでも私は猛烈に頑張った。その努力を受験勉強や部活に向けられたらと思わないことも無かったが、当時の私は止まらなかった。幸いにしてこのチームメイトと仲の良かった私は恋心を隠しながら彼の家に頻繁に遊びに行った。部活を引退すると時間が余るようになったことの僥倖だった。
 しかし、何故今まで彼女を見かけなかったのか。聞くところによると勤めている会社の近くに一人暮らしをしていたが、転職を機に実家暮らしに戻ったとのことだった。これまた願ってもないことだった。11個歳上で結婚はしていないとのことだった。

 私は彼女が一人でいるのを見かけた時、告白をした。中学生の何でも出来るような無敵感というか怖いものなどないという無鉄砲さというか、それらを前面に押し出した直情的な想いを言葉に乗せてぶつけた。要するに幼かった。彼女には軽くいなされてしまった。それもそうだろう。弟の友達が告白してきたところで彼女の目には年上のお姉さんに憧れる子供にしか映らなかったであろう。
「ありがとう。〇〇君は嬉しいこと言ってくれるね。でも、その言葉は本当に愛せる人に取っておきなさい。」その大人の余裕がさらに私を狂わせた。
学校で姉に告白したことをからかわれるかと思っていたが、どうやら弟には話してないようであった。その誠実さが益々好きになった。

 その頃の私はどうも狂っていたようだ。その人に会う度に思いを伝えた。
「本気です。」
「子供だと馬鹿にしないでください。」
「愛しています。付き合ってください。」
その度に冗談とあしらわれていたのだが、目を見て聞いてくれる彼女が素敵だった。ただ答えは変わらなかったのだが。
「そんなお世辞言っても何も出ないわよ。」
「まだまだあなたには早いわ。」
「こんなおばさんじゃなくて同級生の可愛い女の子と付き合いなさい。」
彼女もまた言い方を色々と変えつつ、私を諭していた。今思うとストーカーまがいの行為に及んでいたと反省しているのだが、当時は気付かなかった。

 そんなことが続いたある日(続いているのがそもそもおかしいのだが。)遂に彼女の態度が変わった。
「年の差なんて関係ないです。本当に好きなんです。あなたしかいないんです。」
いつものように目を見て聞いてくれていたが、言い終えると
「そう。じゃあ〇月×日の△時うちにいらっしゃい。もし本気だと言うのならね。」彼女は答えるときには視線を外すことが多かったのだが、この日は私の目を見続けていた。口調はいつもの通り柔らかかったが、その言葉に通底する大人の怖さみたいなものが含まれていて一瞬背筋に冷たいものが走ったような気がした。それでも嬉しさがすぐに打ち消してくれて、
「はい、わかりました。絶対に行きます。」と上ずった声で答えた。有頂天に舞い上がった私だったが、彼女は答えるのに須臾の間があったのを見逃してはいなかったようだ。

 約束の日が訪れた。私は少し洒落た服を着て彼女の待つ家に向かった。インターホンを鳴らすとすぐに出てきてくれた。ジーンズに白いTシャツ姿だった。ラフな格好の彼女もまた美しい。見惚れていると
「ほら、早く上がって。」と促された。
「今日はうちには誰もいないから2人きりだよ。」家の中だからだろうか、彼女がいつもと違って見えた。リビングに通された私は椅子に座った。
「何飲む。コーヒー、紅茶、ジュースもあるよ。」
「じゃあコーヒーで。」
「大人だね。無理してない?」茶化されたが、いつもの彼女だと安心した。ケーキとコーヒーが運ばれてきた。彼女の飲み物は紅茶だった。そのカップを見ていると、「私はコーヒーは苦手なの。」と言った。
「こうしてゆっくりお話しするのは初めてじゃない。」
「そうですね。いつも外でしたから。」
「毎回びっくりしちゃうよ。いつも告白してくるんだもん。」ケーキを一口食べた彼女が笑いながら語りかける。
「仕方ないじゃないですか。いつもいつも取り合ってくれないんですから。」拗ねた風に言う。
「ごめんごめん。だって子供にしか見えないから。でもその真っ直ぐなとこ好きだし、素敵なこと言ってくれるから嬉しかったよ。」
ケーキに向けていた視線を彼女に戻すと、その微笑みが眩しすぎた。
「あ、赤くなった。可愛い。」言われても否定できなかった。
それからお互いのことを色々話しているとあっという間に2時間近くが経っていた。この楽しい時間が永遠に続けばと思ったその時、彼女が立ち上がった。背を向けたまま言った。その声はあの時のように恐れを感じさせた。
「本気ならそこの和室に来て。あなたの想いが本物ならね。」見えなかったが、彼女の顔は大人のそれだったのだろう。正直怖さの方が勝っていたが、
「ここで引く訳にはいかない。」との思いもあって、勇気を振り絞った。椅子から立ち上がり、襖を開けて和室に入った。彼女は私に背中を向けて窓際に正座していた。

 障子から西日が差し込んでいる。畳には薄くなった四角い光が規則正しく並んでいる。出入口となる襖は閉められているが、耳を澄ますとリビングのテレビから情報番組のアナウンサーの声が聞こえてくる。6畳の和室はまるで別世界のように静まり返っている。しかし、私の心臓は大きくそして速く拍動し、その振動が全身を震わせているのではないかと思えるほどであった。呼吸が浅く速くなる。このまま心拍数が上昇し続けて死んでしまうのではないかと思うほどであった。正座したまま拳を握りしめ、手汗が滲む。どんどん体が小さくなっていくような感覚に襲われる。
 「どうしてこんなことになってしまったのか。」自問自答したが、何かを考えられるほど冷静なはずもなかった。障子そして窓を開けたその先にはいつもの夕方の住宅街がある。パート帰りの母親たちが夕飯の材料を持って家路を急ぐ。子供たちが連れ立って遊んでいる。仕事が早く終わったのかスーツ姿の父親が嬉しそうに歩いている。犬を連れた老夫婦が日課の散歩をしている。障子と窓ガラス。この2枚の壁が時空を歪めたかのように外の日常が何光年も先にあるように感じられる。畳の擦れる音がして顔を上げた。かすかな音だったが、すぐに気付けるほどに神経が研ぎ澄まされていた。

 彼女はTシャツを脱いでいた。続けてキャミソールに手をかけ、ブラジャーのホックを外した。大人の女性の背中、その柔らかな曲線美は欲情というより畏怖の念を抱かせた。素晴らしい芸術作品を鑑賞するときのような気持ちだろうか。しかし、振り向いて近寄ってきた彼女の豊かな乳房を目にした時には本能的な欲でいっぱいになった。
「逃げずに来てくれたんだ。嬉しい。女性の裸を見るのは初めて?」耳元で囁かれ、鼓動はかつてないほど速く脈打ち、震えが止まらなかった。無言で頷くと、
「あなたも脱いで。」促されたが、ボタンを外せなかった。見かねた彼女に脱がされて抱き締められた。柔らかく温かかった。
「震えてるね。可愛い。」反論しようにも声が出なかった。動こうとしても金縛りに遭ったように動けず、抱き返すことしか出来なかった。
「ふーん、結構力あるんだね。大丈夫、私に預けて。」そう言いながら右手で頬を撫でられ、唇を近付けてきたときに一瞬見えた彼女の顔は大人のそれであまりにも官能的であった。目を瞑り、そのまま唇を重ねた。初めてのキスだった。ケーキの甘い香りと紅茶と珈琲の香りの混じった不思議な味だった。唇を離し、唾液の糸が切れると彼女はジーンズを脱いだ。
「恥ずかしいからあまりジッと見てないで。あなたも脱いで。」やっと身体は動くようになっていたが、思考を巡らすことはできず言われたことを機械的に実行するしかなかった。2人で布団になだれ込み、彼女の指示に従って行為を進めていく。段々と身体が動くようになると思考も戻ってきた。このまま快楽に身を委ねたい気持ちと一線を越えてはいけない気持ちがせめぎ合い始めた。遂にその瞬間が来た。
「このまま流れに身を任せていれば私の運命も変わっていたのだろうか。」
気付いたときには私は服を着てリビングにいた。彼女は追ってこなかった。

 頭と体の熱が冷めてきた。和室から出てこない彼女が気になり、戻ってみる。襖を開ける前に大きく深呼吸した。彼女は服を着て、布団で寝転んでいた。何と声を掛けたらいいかわからず、謝るしかなかった。
「何が?」語気に冷たいものがある。
「…その、逃げ出してしまって。」
「ああ、仕方ないよ。まだ子供だもんね。」いつもの彼女に戻ってしまった。近付いたがスッと彼女は身をかわした。もう手遅れだと分かっていたが言わずにはいられなかった。
「続きを…。」言い終える前に彼女の言葉が飛んできた。予想していたとはいえ後悔が心を充たした。
「逃げたじゃない。そこまでだったのよ。」また冷たい口調に戻った。
「もう大丈夫です。」そう言って彼女を押し倒した。不敵な笑みを浮かべ、
「どうする気?あなたにできるかしら。」と言われた。少しカッとなり、力を少し抜いたその隙を彼女は見逃さなかった。反対に私が押し倒された。
「私、結構力強いのよ。終わりって言ったでしょ。男なら引き際を弁えなさい。」
「でも…」
「嫌いになりたくないの。わかって…。」彼女は別人のようだった。帰るしかなかった。リビングに戻り、荷物をまとめて帰り支度をする。彼女も和室から出てきた。乱れた髪が艶やかだった。
「すいません。帰ります。」俯きながらそれだけ言って玄関に向かう。
「忘れ物は無い?」お姉さんに戻っていた。
「はい。」ばつが悪く一刻も早くこの場から立ち去りたかった。靴を履き、玄関の扉を押すと、彼女が何か言ったようだが聞くことなく立ち去った。自宅に帰る歩みは往路と同じく速かったものの全く意味が違った。何も見えなかった。

 あの日から1カ月ほどが過ぎた。考えれば考えるほど自分が情けなく、恥ずかしい思いが募るだけであった。しかし、その瞬間だけとはいえ大人として扱ってくれたあの人に感謝を伝えたくなってきた。たとえこれ以上進展することが無かったとしても。
 その日は程なくして訪れた。無邪気に想いを伝えていたことが遥か昔のように感じられる。
「この前はありがとうございました。そしてごめんなさい。」
「どうしたの?そんな改まって。」
「一瞬でしたけど、ちゃんと僕のことを見てくれたじゃないですか。それだけでも嬉しかったです。それなのに逃げてしまって…。」その後の言葉に詰まっているとその人はいつもの優しさを見せてくれた。
「良いのよ。驚いたでしょ。こちらこそごめんなさいね。大人って卑怯よね。」最後の言葉はため息交じりだった。
「そんなことありません。あなたは素敵な人です。…だからもう一度チャンスを下さい。もう覚悟はできています。」無邪気そして真っ直ぐな言葉だった。もうこれぐらいしか出せるものが無かった。
少し考えるような素振りを見せた後、こちらを見つめ言い放った。その眼力の強さにたじろいだ。こういうところが大好きだった。
「この前も言ったでしょ。諦めなさい。あなたはその時を活かせなかった。」
「でも今は…。」
「今じゃない。あの時が全てだったのよ。それまでだったってことよ。そういえばバスケの最後の試合でもシュート外してたわね。そういう男なのかしら。」残酷に彼女は笑いかけてきたが、怒りは込み上げて来なかった。その言葉の裏に優しさがあることに気が付いてしまっていた。何も言えずに黙っていた。これ以上何を言えばいいのかわからなかった。見かねた彼女は一つ大きく息を吐いてから、
「あなたのそういう真面目なとこ大好きだわ。でもそれだけじゃ足りないのよ。子供と大人だと釣り合わないの。わかる?」泣きそうになりながら頷いた。声を出せばたちまち涙が溢れ出そうだった。
「あなたなら絶対に私なんかより素敵な女性に出会えるわ。まだまだ色々な出会いがあるんだから。そうしてお姉さんを見返して頂戴。」いつもの優しく明るいその人に戻っていた。両手を私の頬に伸ばし、見つめ合った。ほんの数秒だった。
「よし。じゃあね。バスケ頑張りなさいよ。」これで全てが終わったことを悟った。苦しかったが、あの日よりは清々しかった。
 それからはあの人を見かけることがあっても話しかけなかった。お互い気付いていたが、交わす言葉が見つからなかった。私たちを結ぶ糸、それはあったのかどうかも分からないが存在していたのなら完全に切れてしまった。それでも最後に見た彼女の表情が脳裏に焼き付いてしまっていた。

 数年が過ぎたある日、人伝てに彼女が結婚したことを知った。最早心は動かされなかった。

 高校、大学と無難に過ごした私は小さな建設会社に事務員として採用され、これまた無難な毎日を送っていた。何度か恋人が出来たこともあったが、彼女を忘れられず別れてしまう結果となった。トラウマでは無いものの、女性の中にあの人を求めてしまう。すると途端に恋が冷めてしまうのであった。身体を重ねることの恐怖心などは無かった。それでもあの日そして別れた日を忘れられずにいた。
 就職して5年目の春、1年間の任期付きの職員として1人の女性がやってきた。その人を見た瞬間私の中に稲妻が走った。まさしくあの人が歳を重ねたその姿の人がやってきたのだ。あまりにも似ていた。しかし、名前を見て安心した。別人だった。初めの1カ月ほどは言葉にし難い緊張を覚えていたものの次第に収まってきて、出勤することが楽しみになってきていた。自然と言葉を交わせるようになってきた頃に知ったのだが、彼女は42歳で中学3年生と1年生の息子がいるとのことだった。あの人の親戚という訳でもなさそうだ。彼女の左手薬指の指輪を見た時には言い知れぬ落胆を感じたのだが子供の存在を知った時にはそこまででも無かった。何故なのか自分でも分からなかった。
「あの人も今はこんな感じなんだろうか。」彼女を見るとその先にあの人を思い浮かべてしまう。失礼だとは承知でそんなことを考えつつ、目で追ってしまう日々を過ごしていた。

 そんなある日彼女と私以外の人間が出張や休みで出払ってしまい、2人きりになった。何があるでもなしにそわそわしつつ、パソコンと向き合っていると彼女が話しかけてきた。彼女も急ぎの仕事は無いようだった。
「今日は静かね。仕事も落ち着いているし。」
「そうですね。もうここには慣れましたか。」キーボードから手を離し、画面から顔を上げて訊いた。
「ええ。皆さん優しいもの、特に○○君はいつも色々と教えてくれてありがとね。」その笑顔に少したじろいでしまった。顔が熱を持ち始めたのを感じた私は目線を再び画面に戻しながら、
「いえいえ。××さんは仕事速いので助かります。こちらこそ有難いです。」
と答えたが目を伏せたままでいるのも失礼に感じ、途中から再び目線を上げた。まだ顔が熱かった。
「以前はどこかで働いていたんですか。」と話題を転じた。
「最近は短期の仕事を転々としている感じかな。子供がいるとどうしてもね。もう2人とも大きくなってきたからそろそろ腰を据えて仕事したいんだけどこの歳このスキルだとなかなか難しくてね。」憂いを含んだ口調が艶っぽかった。
「××さんならどの会社でも引く手あまたな気もしますけどね。」マグカップを手にしながら、気の利かない型どおりのことを言った。
「ふふ、ありがと。嬉しいわね。正直私もここまで働き口が無いとは思わなかったわ。おばさんには厳しい世界ね。」笑っていたが少し悲しそうだった。
「こう見えてもね、昔は丸の内でOLしてたのよ。」話題を転じ、笑みを投げてきた。物憂い大人な表情も似合うが少女のような快活な顔もしっくりくる。
「そうなんですか。カッコいいですね。」内容に驚いたというよりはその表情が素敵で声が上ずった。
「大昔の話だけどね。大学を出てすぐ、まだ独身の頃ね。」懐かしみながら虚空を見つめつつ言った。
「あ、ごめんなさい。嫌ね、歳を取ると湿っぽい昔話ばかりしちゃって。」こちらを向きなおって笑った。
「そんなことないです。是非その話聞かせてください。」本心から言った。
「また今度ね。」彼女は画面に目を戻していた。もう会話は終わりかと思ったが、
「そういえば○○君って彼女とかいるの?」にやけながら訊いてきた。図々しいおばちゃんの表情に変わっていた。
「いないですね。結婚した友達も段々と増えてきたんですけど、私は全然で。」首を傾げながら答えた。
「ふーん、モテそうなのにな。見た目も清潔感あっていいし。」
「出会いが無いんですよ。大学は東京の方に行きましたけど、それ以外はこの田舎にずっと住んでいますから。」
「もっと遊べばいいのに。でも今の若い人は違うのかしら。うちの子も草食系?って感じなのよね。」
「××さんは若い頃は結構遊んでいたんですか。」
「私の時はそういう時代だったから。旦那には内緒よ。って私の話はいいのよ。」
「良いじゃないですか。興味あるんですから。」前のめりに言った。
「あら、私に興味あるの。」いたずらな表情が堪らない。その気持ちをおくびに出さないよう少し黙っていると、
「もう。何か言ってよ。恥ずかしいじゃない。」とおどけてきた。
「すみません。」言葉に詰まってしまう。
「…真面目なのね。」声のトーンが低くなる。再び明るく
「で、どういう子がタイプなの。芸能人とか。」と言われる。
「××さんみたいな人です。」少し考えて答えた。
「え。」一瞬きょとんとしたが、
「やーね。あなたまで私をからかって。」と元に戻った。
「本気ですよ…半分ですけど。」
「何それ?」私の次の言葉を楽しみにしているのが全身から滲み出ている。
「初恋の人に似ているんですよ。子供の頃の話ですけど。」
「うーん。喜んで良いのかしら。」首を傾げる。
「お任せします。」
「言うわね。急に強気じゃない。でもそういうとこ嫌いじゃないわ。」
「その初恋の話、聞きたいわね。」
「また今度です。」きっぱりと言って、笑った。ここで話は終わった。何と幸せな時間だったろうか。職場であることを忘れてしまうぐらいであった。冷静になると電話が一度も鳴らなかった奇跡に神に感謝したいぐらいだった。

 次の日から彼女の服装や化粧が少し変わっていった。夏に向かい、徐々に暑くなっている季節の移ろいのせいなのか、昨日の私の言葉のせいなのか分からなかった。唯一わかるのは流行りの夏服、今風の化粧という訳ではなくこの人の若かりし頃に流行ったそれであった。
私自身もこの日から今まで以上に彼女のことを目で追っていたのだが、それは変化に対する驚きなのかそれとも昨日のことから彼女を意識してしまってのことなのかわからなかった。

 あれからは2人きりになる機会がなかったが、一方通行であった私の視線が相互通行に変化した。それでも仕事上のこと以外を話す機会は無く、真意を掴めずにいた。煮え切らない悶々とした日々を過ごしていたがその日はまたしても突然訪れた。
 私は事務所の外にある倉庫に用があってそこで作業をしていた。夏のこと故冷房のない倉庫は非常に暑く、少し休もうと事務所に戻ろうとすると彼女がこちらに向かい歩いてきた。来客でもあって私を呼びに来たのかと思ったがどうも違うようだった。
「どうかしましたか。」
「長いこと戻らないから熱中症で倒れちゃったんじゃないかと心配で様子を見に来たのよ。」その言い方に母親っぽさを感じた。実際そうである。
「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。見かけより体力あるので。」
「そうなの。でも心配だわ。」
「お母さんみたいですね。」
「だって2児の母ですもの。」彼女は胸を張った。しばし間があって、
「それより最近私のこと見すぎじゃない。」女の顔に変わっていた。目尻の皺やほうれい線が年相応に感じさせるのににやけてできたえくぼだけが少女のように若々しかった。
「そんなことないですよ。」すぐに否定したが、
「えーそうかなー。あの日から意識しちゃってない?」更に挑発してきた。冗談で遊ばれているのはわかっているが暑さのせいか短気になっていて、押し倒して一喝したくなったが何とか堪えられた。それでも持って来てくれたペットボトルを強引に奪い取るぐらいのことはした。呆気にとられる彼女を置き去りにして事務所に戻った。小声で何か呟いたようだったが、聞こえなかった。冷房の効いた事務所に入ると途端に幼稚な自分の行動に嫌気が差したが、今から謝りに行くのはいかにも間抜けな感じがしてドカッと椅子に腰を下ろした。しばらくして彼女も戻ってきた。別段変わった様子は無かった。その日はこちらを見てくれなかった。翌日になれば元に戻るだろうと思っていたが、彼女に向ける私の視線は一方通行に戻ってしまった。

 夏の日の一件があって以降も表面上は何事もなく日々は流れていった。謝りたいとは思いつつも機を逸してしまった感が強くて言えずにいた。そうしているうちに暑気払いの日がやってきた。彼女に来てほしいような来てほしくないような相反する気持ちを抱えてその日を過ごした。
彼女は来た。しかし、席が離れていたので話す機会は無かった。チラチラと隙をみては彼女を見遣ったが、別の部署の人たちと楽しくやっているようだった。見たことないそのはっちゃけた様子に驚くと共に豊かすぎる表情を持つその女性にただただ惹かれていた。と同時に底知れぬ感情の淵の深さに薄ら寒いものを背筋に感じた。
 偉い人の挨拶が終わると三々五々解散していった。店の出入口で別部署の歳の近い人たちと話していると群れに交じってあの人も出てきた。私に気付いて目配せをしてきた。
「こっちに来なさい。」そう言われた気がしたので付いていった。駐車場の奥の方へ行く。二次会へ行く人、タクシーや代行を呼ぶ人、駅まで歩く人でごった返す出入口とは打って変わって静まり返っている。駐車場の奥へ行くほど停めてある車もまばらになり、街灯も少なかった。かなり奥、暗いと表からは人がいるかどうかもわからない辺りに着くと彼女は止まった。
「どうしたんですか。こんな所に呼び出して。」面倒くさそうに私は言った。
「勝手に付いてきたんじゃない。」そう言われると返す言葉もない。
「酔ってます?」
「大丈夫よ、意識はあるし歩けるから。あなたお酒強いのね。」
「いいや、飲んでないんですよ。車で来たんで。」
「素面なのね、つまらない。代行でも呼べばいいじゃない。」
「結構高いじゃないですか。別に飲まなくても楽しめますし。」
「今時ね。」
「さあ帰りますよ。送りますからこっち来てください。」
「あら送ってくれるの。助かるわ。」本当に嬉しそうに言う。
「この前の罪滅ぼしです。すいませんでした、暑いのもあってカッカしていて。」付け加えなくても良い言い訳を加える。
「あら何のこと。」ケロッとしている。
「倉庫に来てくれた時のことですよ。乱暴に飲み物奪ったことです。」
「あー、そんなことまだ覚えていたの。意外と執念深いのね。そして堅物ね。」
「そんなこと言うなら送りませんよ。」こちらも応じる。
「さあ行きますよ、車こっちですから。歩けますよね。」
手首を掴み、歩き出そうとしたところで抱きつかれた。引っ張ったことでバランスを崩したのか故意なのかわからない。酒の匂い、香水の匂い、汗の匂いが混じったものが鼻孔に流れ込んだ。不思議と嫌な気持ちにはならなかった。両肩を掴んで離れさせた。
「大丈夫ですか。」焦って訊いた。
「ええ。」彼女も驚いているからわざとでは無いのだろう。気を取り直し、車に向かって歩き出す。彼女は少し後ろをついてくる。
「さ、乗ってください。」助手席に乗せてから運転席へ回る。シートベルトを締めながら、
「家の位置教えてください。ナビに入れますから。」ナビをいじりつつ尋ねた。
「ねえ、2人で飲み直さない?転びそうになって酔いが醒めちゃった。」ナビに触れる私の手を握り、入力を止めさせながら訊かれた。鈍感な私でもその意味を悟った。やや潤んだ彼女の目が顔の中でそこだけ幼く見えた。
「良いんですか。」静かに言う。
「まだ時間早いから大丈夫よ。ふふ小心者ね。」普段の彼女が戻ってくる。
「じゃあ行きますよ。」狭い車内で私の心臓は高鳴り始めていた。瞬間、あの日の和室を思い出していた。鼓動が聞こえてしまうのではと心配になったが、折からの驟雨によって隠されているようだった。

 車を10分程転がして目的地に着いた。この田舎町は市街地を離れて国道沿いか高速のインターチェンジの近くに行けばそういう場所には困らない。駐車場に停めると、
「あーあ、イケナイんだー。こんなところに連れてきて。」と大きく伸びをしながら彼女が言う。何を話していいのかわからずにいた私はおどけたこの一言に救われた。私の気持ちを汲んで自らピエロになることを厭わない彼女の大人な態度、こうした余裕が羨ましくそして憧れる。
シートベルトを外しながら、
「あなたも共犯者ですよ。」と言うと、
小さく笑って、
「共犯者か…悪くない響きね。私のせいって言うかと思った。」と返してきた。
「そこまで子供じゃありませんよ。」
「まだまだ青いよ。もっと甘えてくれても良いのだけれどね。」その言葉に甘えたくなったがグッと堪えて、
「お気持ちだけ受け取ります。もう27ですから。」と言った。
「そっか。そうよね。」降りしきる雨に視線を落としながら小さく呟いた。
車から降りる。足取りは重くも軽くもなく通勤するようにそこへ向かうのが当然のように歩いていた。

 自動ドアを抜けると彼女は誰もいないフロントでややはしゃいでいた。
「へー。今はこんな感じなんだね。」興味津々という風にやたらキョロキョロする。可愛らしくて小さく笑ってしまった。
「あ、今馬鹿にしたでしょ。」指さして近寄ってくる。
「してませんよ。あまり無邪気にはしゃぐもんだから可笑しくて、つい。」
「どうせもうおばさんですよ。」ふくれっ面をするがこれまた可愛い。
部屋を選び、エレベーターに乗る。
「××さん可愛かったですよ。」
「…ばか。ずるいわ…。それと下の名前で呼んで。お願い。」ずるいのはどっちだか、こんなことを言われたら理性など吹っ飛んでしまう。
「はい…。」

 部屋に入ると、また物珍しそうに室内を隅から隅まで物色し始めた。
「楽しいですか。」小さい子供のように動き回る彼女に呼びかける。
「あー、また馬鹿にした。楽しくて満足したからもう帰ろうかしら。」
冗談とはわかっていても私の顔の一瞬の変化を彼女は見逃さなかった。
「嘘よ。欲望に忠実でよろしい。男の子ね。」
「…馬鹿にしないでください。男です。」そう言って彼女を強く抱き締めた。
「ごめんね。」謝る彼女の口を塞ぐように接吻をした。様々な匂いの混じった口づけだった。お互いの積み重ねた人生を言葉無く伝えあっているようだった。さすがにこのままではいけないのでシャワーを浴びてベッドに潜り込んだ。
 行為は淡々と進んだ。不思議と激情に駆られたりはしなかった。しかし、私は抱いているこの女性の先にあの人を思わずにはいられなかった。あまりにも浅ましく、あまりにも失礼であったが一度その思いに取り憑かれると逃れることは出来なかった。口にはしなかったが、おそらく彼女は気付いていたことだろう。必死に目の前のこの女性の名前を叫び続けたが徒労に終わった。果てた後の抱擁には自己嫌悪に陥る私をその部分も含めて包み込むような温かいものだった。
「またしても甘えてしまった。」
あまりにも自分勝手で涙が出てきた。気付いた彼女は指で拭ってくれた。顔を近付け合うと皺や傷んだ髪の毛が目に付いた。欠点であるはずのその一つ一つが今は愛おしく美しく感じられて堪らなかった。年上好きの男性の気持ちが今ならわかる気がした。歳を重ねた人にしか持つことのできない重みがあった。母性とはまた違った何かに私は甘えきっていた。
 2人でお風呂に入り、残り僅かな時間を静かに過ごした。
「ごめんなさい。」蚊の鳴くような声で謝る。何がなどという野暮なことは訊かず、
「いいのよ。私もズルいのだから。」と頭を撫でてくれた。もう大人か子供か、男か女かなどということはどうでもよくなっていた。ぬるい湯に身体を浸し、触れ合う肌の温もりを感じていると久遠の安楽を得た気になっていた。目を瞑っていたが、彼女が動くのに気付いて目蓋を動かす。
「そろそろ出ましょ。」彼女の表情は先程までのそれとは明らかに変わっていた。
「共犯者でしょ。あなたも私も自分の都合に合わせて相手を利用しただけ、いい。」強い意志を感じられる瞳に見つめられ、ハッとした。それ以上言葉は要らなかった。部屋を出る前最後にもう一度接吻をした。来た時のそれとは全く違ったものだった。雨はまだ降り続いていたが小降りになっていた。
 彼女は呼んでおいたタクシーに乗り込み、夜の闇に消えていった。私も車に一人で乗り込んだ。彼女の残り香に独りでに涙が落ちた。大きく息を吸い、エンジンをかけて私も帰路に就いた。家に着くころには匂いも消え、雨も止んでいた。夏の夜の熱に浮かされた愚かな行為だとしても後悔は無かった。
 私に巣食う亡霊は完全に消えていた。

 その後も彼女は同じ職場で働き続けていたが、2人で何かするということは無かった。1年間の任期を終えて退職し、私の日常も元通りとなった。

 それから更に2年の月日が流れ去り、私は結婚をした。初恋の人にも職場の人にも似ていない同世代の女性だった。妥協でも諦観でも無く、文字通り純粋に彼女を愛していた。職場のあの人に写真と共にそのことを報告すると、
「おめでとうございます。」とだけ返ってきた。味気ない返事に肩透かしを食らったような気持ちでいると、
「お似合いな2人ですね。嬉しいです。」とメッセージが追加で届いた。満足してスマホを置いた。邪な考えは全く浮かばなかった。



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