ブラックソード・ストーリー

第五之章 写し身

アルフェスの山々に囲まれたエグラスの村に異変が起こったのは春になってヤスゴンの白い花が川沿いを埋め尽くす頃だった。

いつになく暖かい春で、ヤスゴンは二週間も早く花をほころばせた。

いつもの年ならまだ薄氷に覆われているはずのタイカルの湖も早くから氷が溶け、早くもセヤナを獲るための小舟がいくつも大きな帆に風を受けて湖面に浮かんでいた。

「おーい、アレル、今日はどうだい?」

猟師のシジエは従兄弟のアレルの船に向かって声をかけた。

「ああ、まあまあだな。網が重くて船の進みが遅くていかんがなぁ」

「何を贅沢言ってやがる。網が重いのは豊漁の証だ」

そう言うシジエの舟も何かに引っかかったように急に動きが鈍くなった。

「おっ、そっちの網にも群れが入ったか?」

シジエは網を掴んで重さを確かめた。

「いや、これは何か海底の岩か流木じゃねえか?魚じゃねえな」

チッ、と舌打ちをしてシジエは帆を下ろすと舟を岸へと寄せた。アレルも網を上げて魚を生簀に移すと舟を岸につけてシジエのもとに来て網を引くのを手伝った。

「何かでかい流木でも引っかかってるみたいだな」

「すまねえな。こりゃぁ今日は網の修理で漁にはならねえな」

二人で網を引いていると網の奥に黒い塊がかかっているのが見えた。

「おい、ちょっと見てきてもらえねえか?」

シジエが声をかけるとアレルは波打ち際から膝まで湖に浸かりながら、その黒い塊に近づいた。

「うわっ!」

アレルが大声で叫ぶと水の中に尻餅をついた。

「なんだ?アレル、どうしたい?」

シジエは急いでアレルのもとに駆け寄った。

アレルは口をパクパクさせながらその網の中を指さした。

それはこれまで見たことのないものだった。

人の形をした塊。一瞬水死体かと思ったが、どうも様子が変だった。

目を見開いたその人型のものは硬い殻のようなもので覆われ、その頭の部分にぽっかりと穴が空いており、その殻の中は空洞だった。

誰かがふざけて穴の空いた彫像を作ったのかと思えた。そしてその彫像の男の顔はあまりにもリアルだった。顎髭は人のものそのまま。誰かが人間の皮を残して中身を抜き取ったかのような塊だった。

もしも似ているものがあるとしたら昆虫の抜け殻かもしれない。人の中から何かが抜け出した殻があるとしたらこんなものかも知れない。

二人は肩を寄せて立ち上がると、その塊を置き去りにして悲鳴を上げながら浜から走り去っていった。

それがかつて山中で姿を消したヨギトの変わり果てた姿であることに気づく者はいなかった。

これが何度目の野営地だっただろう。

暗黒騎士団エル・ゾデスの隊が北に進軍を続けて3ヶ月が過ぎようとしていた。エグラスの平原を越えればアルフェスの山深い森に足を踏み入れることになる。

その痕跡はその森を抜けてシグロの平原に住む少数民族のマルジャ族が交易のためにヘルラテスの村へ降りてきた時にもたらされた。マルジャの若者はシグロの人が住むことが出来ない極寒の平原で、人によく似た獣を見たと言うのだった。

その日ゲビナがジグロの氷原に漁に出かけたのはまだ夜が明けぬシゴンの刻の頃だった。もう一時もすれば青い月は地平に沈み空は白み始める。

遠くで甲高い獣の声が響いていた。氷原に穴を掘って巣を作るケミランの声だった。それに混じって低い唸り声が聞こえてくる。覗き棒を使って地平の盛り上がった氷河の影に目をやった。

肉食のゾルドスが巣穴から出ていた気の毒なケミランを襲っているようだった。巨大なゾルドスだった。それにこれまであまり見たことがないような黄色っぽい毛並みをしている。

これまで狩った事のない大きな獲物を目の前にしてゲビナはいつもより慎重に獲物へと近づいていった。弓の射程距離に入った場所に寝そべり、白い毛皮を自分の体に巻いて毛皮と体の間で手を温めチャンスを伺った。

ゾルドスがケミランを貪るように食べ終わるとしばらく動きを止めた。

背中から矢を抜いて弓に当てがいゆっくりと弓を引いた。

「おい!」

わざと気を引くように声を出した。ゾルドスは首を上げてゲビナのほうに振り向いた。その刹那ゲビナは矢を放った。

矢は少し弧を描いて目標に向かって真っ直ぐに向かった。そして見事にゾルドスの眉間に突き刺さっていた。

グォーホゥ。断末魔を上げてゾルドスは巨体を横たえた。

「やった!やったぞ!今年1番の大物だ」

ゲビナは立ち上がると巨大な獲物に向かって走り寄った。

これまで見た事のない巨大なゾルドスだった。他のゾルドスとは違って黄色がかった毛色をしている。この巨体を雪ソリに乗せなくてはならない。ゲビナは雪ソリをゾルドスの隣に置くとその巨体を引き摺るように苦労しながらソリに乗せた。

雪ソリに掛けてあったロープを解くと足を結わえた。

ゾルドスの背中側に回って首側からロープをかけようとした時だった。

パチンと小さな音がしてゾルドスの背中に真っ直ぐに裂け目が走った。

「なんだ?」

見ていると背中の裂け目が大きく開き始めた。白っぽい塊が見えていた。さらに裂け目が開くと何か別の生き物の背中のようなものが、まるでセミの脱皮のように現れ始めた。

「ひ、人?」

それは確かに人に見えた。ものの5分もしないうちにゾルドスの背中から人の形をした塊が這い出してきた。その人型をしたものは雪原の中に裸で立ち上がるとゲビナの前に立ち上がった。

「お、お前?」

その人型のものの顔を見てゲビナは凍りついたように動けなくなった。

その人型の顔が自分自身だったのだ。

「オマエガイチバンツヨイ。ダカラワタシガ、オマエニナル。オマエ、モウヒツヨウナイ」

ゲビナにそっくりの人型は、ゲビナの額に指を押し当てた。

するとその指はゲビナの頭にズブズブとめり込んでゆき、ゲビナの体はガクガクと震え、絶命してしまった。

ゲビナにそっくりの人型はゲビナが着ていた服を剥ぎ取り、自分が羽織った。

「村に戻って、これよりも強いモノ探す」

さっきより流暢に言葉を操り、ゲビナそっくりの人型は歩き出していた。

エル・ゾデスの一行がアルフェスの山中からマルジャの村に入ったのはその三日後だった。村長のカークン・ケアルは彼らをうやうやしく出迎えると、村へと招き入れた。

「あなたが、キュエル様でございますか?ヒ・デアレスでの戦いでの武勇伝はこのような辺境の地にまで聞き及んでおります。ブリュラスの国力は今やかつての大国ゴルゼンにも迫る勢い。どうぞ、今宵はこのマルジャにてごゆっくりお寛ぎください」

長い顎髭を撫でながらカークンは邸宅の方に姿を消した。

その夜、エル・ゾデスの面々は手厚い歓待の宴に招待された。キュエルの姿を見つけると村長のカークンはしつこく酒を勧めた。こんなに貧乏な辺境の地にどうすればこれほどの馳走が集まるのかと言うほどの食事が並んでいた。

キュエルは足元もおぼつかぬほど酒を煽り、フラつきながら寝所へと引き上げるとベッドへと潜り込み寝息を立て始めた。

夜半過ぎ、廊下をひたひたと歩く者がいた。その足音はキュエルが眠る部屋のドアを音も立てずにそうっと開くと足を踏み入れてキュエルの眠るその横に立った。

「誰だ?」

寝ていると思ったキュエルは薄目を開けるとベッドから身を起こした。

枕元の蝋燭に火を灯すとその人影は姿を現した。

村長のカークンだった。

「これはキュエル様起こしてしまいましたか、申し訳ございませぬ」

「村長どのこんな時間に何をされている?」

「村ではエル・ゾデスの方々の噂で持ちきりでございます。何か粗相がってはならぬとこうやって私自ら見廻ってございます。お疲れのところ失礼いたしました。それでは私はこれで」

村長が部屋から出て行こうとするのを、キュエルが声をかけた。

「カークン殿、申し訳ないがそのテーブルに置かれている燭台をこちらに持ってきてもらえぬか?」

村長は部屋の中央に置かれたテーブルの上の燭台をキュエルに渡した。

「すまぬな」

キュエルがその燭台に右手の人差し指と中指で挟むようにすると、ポウッと小さな炎が灯った。炎からは小さな煙が上がり始めた。

「良い匂いであろう?この香りは人をくつろがせる作用があってな…。寝る前にこの香りが部屋にないとどうも寝付きが悪くてな。おや?どうかされましたかな?村長どの?」

カークンの様子がおかしかった。

「オマエナニヲシタ」

口調が変わっていた。

苦しげに村長だったものは床に倒れ込んだ。

「ようやく会えましたな。村長どの、いや神話に登場する「ゾルゲの瞳」メタムフィリオよ。待っていたのだ。おまえが私に近づくのをな。この香りはオマエの動きを封じ込める作用がある。動けまい?」

キュエルがゾッとするような笑みを浮かべて倒れているそれに近づいた。

「オマエは私の姿が欲しいのであろう」

キュエルは村長だったものの側にしゃがむと腕を掴み、その指先を自分の胸元に置いた。すると指先が彼の胸元にめり込んでいく。

キュエルは少し苦しそうな表情しながら小さな声で呪を唱えた。キュエルの胸がポゥっと光り、その光は村長だったものの腕から本体へと入っていった。やがてそれの指を胸元から引き抜くと村長だったものは痙攣しながら床の上で固まったように動かなくなった。

やがてその背中がぱっくりと割れ、中から別の人型のものが這い出してきた。そしてゆっくりと立ち上がりキュエルの前に立った。それはキュエルにそっくりのもう一人のキュエルであった。

本物のキュエルが彼に命じた。

「オマエは私の写し身、私の考えが見えるであろう。私にあがらうことは出来まい。しばらくは私として振る舞うが良い。エル・ゾデスを率いよ。まずはこの村を焼き払うが良い」

そういうとキュエルは繋いであったオヴナの手綱を外し、その上に跨ると夜の闇へと消えていった。

アルフェスの麓の小さな村で火の手が上がり全滅したという噂は数ヶ月もすると小さな出来事として人々の頭からは消え去っていた。



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