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成人発達理論でいう発達段階5以上の人は、「地上の星」になるのではないか?

はじめに

今私は、成人発達理論について主に独学で学んでいます。

学んだり、イベントなどで対話をすることを通じて
色んな気づきを得ているのですが今日はその気づきの1つを書きます。
 
最初に断っておくと
かなり意味不明な内容であること請け合いです。笑
 
それでもいいという方だけ読み進めてくださいね。笑

本題

突然ですが
重力とは、引力と遠心力を合わせた力だそうです。
 
私は、この重力は例えばコミュニティ・会社といった「空間」
そこに属する「人間」、そして、過去と未来という「時間」にも働いていると感じました。
 
私は、「地上の星な人」は
これらの重力から自由になっている存在なのではないか
という仮説を持ちました。
 
(より発達すれば、重力から自由になると共に、
どの重力に影響を受けたいかも選べる。
これが本当の自由自在ではないか。)
 
「では、
彼らが動かされているものは何なのでしょうか?」
 
それは、
「今ここ」という「時空間」に出現している未来の重力
によって、ではないかと思いました。
 
物理的には目の前にいるけど、
目に見えない「時空間」の重力からは自由になっている。
 
そういう意味で
「地上の星」と呼んでもいいのかなと思ったのです。
 
(このフレーズは完全に歌手の中島みゆきさんから来ています 汗)
 
そして、この(全然何も具体的に説明できてない)「地上の星な人」を
成人発達理論のフレームに当てはめてみるならば、
ロバート・キーガンの成人発達理論でいう、発達段階5以上の人 
なのかなぁと思ったわけです。
  
ちなみに発達段階5の特徴の中で、
それっぽい表記を見つけることができました。

自分の認識の枠組みが作り上げた、いかなる対象物(個性、地位、資産など)にも強く同一化することはありません。
 
彼らは自分が考えること全ては、世界の限られた側面しか映し出さないことを知っています。
 
発達段階 5 の人々は、自分のアイデンティティ、歴史、個性、発達段
階、認識の枠組みの限界を認識している。
  
オットー・ラスキー 心の隠された領域の測定 成人以降の心の発達理論と測定手法(2013.加藤 洋平訳) P73から引用

しかしながら、上記の書籍でも書かれているように
理論を自説を正当化する道具として使うことは危険だと思えます。

発達段階 5 の行動論理は、他者の言葉を借りて誰にでも語ることができるため、注意を要します。特にスピリチュアルな要素を取り入れているプロフェッショナルは、そのような言葉を書物や他者から学んでいるため、そうした考え方を単に信じているだけなのか、実際に行動に移すことができているのかを見分けることが大切になってくるのです。
 
オットー・ラスキー 心の隠された領域の測定 成人以降の心の発達理論と測定手法(2013.加藤 洋平訳) P72から引用

そのため、私もこの仮説はあくまで1つの思いつきだとして、
引き続き学んでいきたいと思います。

この気づきを得て思ったこと

・率直な感想
まだまだ解像度の荒い仮説だけども、
とりあえずまとまった枠組み感はあるなぁ。
 
とはいえ、今はより細かく考えていく気はなく、
インスピレーションが湧いたので忘備録的なメモということ。

 
・セルフつっこみ 
「地上の星の人は自由といいつつも、
未来の重力に囚われてるって言えない?」

という視点がありますね。
 
そちらに対しては、

「そうはいっても、
地球は太陽系に囚われている。
太陽系は天の川銀河に囚われている。
さらに



 
みたいなものかもしれなくて、
行くつく先は人間として生まれている
という制約に囚われざるを得ない
というところになるんじゃないかなぁ。
 
そういう意味で
人間は決して所有意識があるという状態からは
逃れられないと思うんだよね。
 
勝手な解釈でブッダはこのことを
「一切皆苦」と言ったんじゃないかと思う。
(とはいえ、私は仏教徒ではないのだけど)
 
そうなると、
「どうせ囚われてるんだからどう生きたい?そこは選べるぜ!」
っていうゲームとして捉えるのがいいのかもなぁ。」
 
という独り言が浮かびましたとさ。笑

さいごに

「地上の星な人」だと捉えると
「地球と宇宙」ではなく「地球は宇宙」と思える。
 
そして、宇宙がどこか遠くのこととしてではなく、
今目の前の景色にも見いだせる気がして、面白いなぁ。
 
<終わり>
 

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