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「いのちの祭り2024」で私が直接観て「影」だなと思った部分について書いてみる〜館内で過ごしていた子どもたち〜


はじめに

私は運営スタッフではなく当日ボラスタでもなく、かつ、シーンについても今年の頭に書籍やネットを通じて情報収集をしたくらいなのですが、その位置から「いのちの祭り2024」についていくつかの記事を書いてきました。

(なぜか、この記事だけ異様にPV数が高い。たくさんの方に読んでいただき感謝)

今回は、光と影でいうと影の部分について少し書いてみようと思います。

初めて参加した「いのちの祭り2024」の影の中で、私が直接目にし、一番印象的だったことは施設内での子どもたちについてです。(私が目にした影はそんなに多くはありません)

※「なぜ直接体験した部分の中で最も印象的だったことについてのみ書くのか?」

ネガティブなことについて自分が直接体験していないことを言う、ネガティブに対するポジティブについて主語を大きくする(私たちなど)ことが重なると、ややこしくなっていくことが多いように思うんですよね。

それらの行為が一定以上重なっていくと、中心に「正しさ(道徳的ともいう)」という神が鎮座する磁場がでてきて、そこではその神に人が仕えなければならない(気がする)ので、人の行動(少なくとも言論)が制限されていってしまう。人は本当は言葉の、正しさの主人であるはずなのに、主従が逆転してしまう。

そんな現象が起こるように思えるし、主にお金との関わりや人と人が協働するという文脈において、それとは真逆の動き(力を個々人が取り戻す方向)を促進するように動いている私としては、自覚できる限り(それでも限界はあるだろうけど)そっちのプロセスに加担したくないなと思ったんです。

こどもたちの振る舞いに介入した話

外が雨だった時間が長かったこともあってか、館内(特に施設の受付がある建物)には子どもが多くいて、電源をつかってゲームをしている子(その周辺に集まる子どもたち)や走り回る子たちは、たくさんいました。

私は宿泊場所や荷物を入れるロッカーに行くために通るため、けっこうな頻度で通りがかった限り親御さんは、ほとんどそばにいないことが多い印象だったので、外で祭りを楽しんでいたのでしょうか。

それ自体が悪いということではありませんが、エネルギーが有り余っている子どもたちは時には施設自体を汚すことにつながる行動や場合によっては一部を壊しかねない行動をとっていたことがありました。

私は例えば、コインロッカーに登っている、ペットボトルを転がしコインロッカーにぶつかることが繰り返されている、といった施設自体へ悪影響がある(ひいては運営の方にも迷惑がかかる)行動をとっていたり、看過できないように見えたこども同士の小競り合いが起こっている時には声をかけるようにしました。(回数としては片手を少し超えるくらいの頻度だけです)無闇に叱るのではなく、自分なりに子どもに対してなぜダメなのかが伝えられることだけをいうようにしていました。

その際「それはいけないことだよ。なぜならば、」と怒る感じではなく真剣なトーンで真っ直ぐに伝えることを意識しました。そして、行動をやめた後には必ず「聴いてくれてありがとう」と伝えるようにしました。

その結果、ほぼすべての子どもたちが受けとめてくれて、行動を変えてくれたのです。(ほぼ、としたのは少し会話したもののすーっと行ってしまった子たちがいたからですが、それが起こったのは、そもそも私の真剣さ・絶対伝えるんだというエネルギーが足りなかったと振り返っています。)

私は彼らの打てば響く純粋さに可能性を感じました。そして、彼らの行動は悪気があってやっているのではなく、どう活かしたらいいのか分からない高いエネルギーの発露なのだなとも思いました。

3歳〜5歳の子であっても、ちゃんと伝えれば伝わる。むしろ、「ダメだよ」といった後に懐いてその場にいた私にくっついてくる子どもたちもいました。

そういった関わりを通じて、あぁ「真っ直ぐに目をみて真剣に関わること」がとても大事なのだなと思いましたし、間に思考を挟むのではない、5感と5感でのエネルギーの交流を彼らは求めているのかもしれない、「僕・私のことをよく見て欲しい・よく聴いて欲しい・よく感じて欲しい」そんな非言語のアテンションプリーズを感じたような気がしました。(あくまで私にはそう感じたというだけ)

介入に至らなかったけれど子どもたちの様子に対して思ったこと

合わせて目に映ったのは建物の中や外に広がる祭りや自然の世界と、館内で子どもたちだけに閉ざされたゲーム機器「Switch」の中の世界の2つの世界のギャップでした。

振り返ってみると彼ら彼女らは何を見れば、何を聴けば、何を感じればいいか分からないから、分かりやすいものの方へ集中していたのかもしれない。

あの瞬間こそ、彼ら・彼女らに「いのち」を感じる方向を指し示すチャンスだったのかもしれない。

今あのシーンを思い浮かべながら振り返るとそんなことを思います。(その時は気になりながらも深く考えることはせず、通り過ぎるだけ)

そして、こんな問いが浮かびます。

「私はどの世界を生きているの?」
「子どもたちとどの世界で会いたいの?」

日常からが本番。
そのようにも思います。

そんな子どもたちを取り巻く環境について思ったこと

また、そんな子どもを取り巻いていた環境について思ったこと。

こちらの記事の中で「平和と自由の両立」という表現を使いましたが、人を頼るということはとても大切なことで、健全な相互依存状態の方こそが自立だと私は捉えています。

しかしながら、「自覚のあるなしに関わらず、循環を一切考えない、頼る行為という意味での依存」は、善意を行動に移す誰かに寄生しているも同然のように思えます。(言葉が強くてすみません)

自然があらゆるもの循環で成り立っているとするならば、一方通行なソレは、不自然な行為、極端な表現を使えば破壊的な行為ではないでしょうか。

補足)

私が自覚がない場合も一方通行な依存の中に含んだのは、人が本来的に生きている場合、その人にとって自覚せざるをえない出来事が起こることが自然であるが、それに目を背け続けることもできるのが人間だと捉えているからです。

その人が、気づくためのシグナル(言うなれば何かしらの違和感・嫌感)を感じながらも、無視し続けているとしたら、それは間接的に自覚しながらやらないことを選んでいる行為に等しいと思えたので、含んでみました。

私は、自分で責任をとれるような準備をした上で(これは言い換えれば、自らがこれから行うことが影響する相手の顔がイメージできている状態とも言えます)プロセスは流れにも任せることを「行き当たりばっちり」と捉え、誰かが何とかしてくれるでしょうという発想のもとでプロセスで流れに任せることを「行き当たりばったり」だと捉えています。

それでいうと、子どもと祭りをどう過ごすのかについて「行き当たりばったり」な親御さんも一定数いたのではないでしょうか。

例えば、スタッフの方は、事前に子どもの胸には名前などを書いてわかるようにしておいて欲しいというアナウンスをしていましたが、そのような子はほとんど見かけなかった印象。遊んでいる周辺も汚れが目立ちました。子どもが汚した汚れは、誰が片づけるものなのでしょうか。

まぁ、かくいう私も祭りを楽しみたいという個人ニーズがあったため、目の前で起こった & 余力がある時だけの介入しかしていませんし、今回紹介した子どもたちについて以外の大人に対して「ルールを守っていこう!」という意味での介入行為や人の助けになるような分かち合い行為についてはそこそこほどほどしか行っていません。それが私の選択でした。

ので、吐いている言葉はすべて自分にかえってくるという思いで書いています。先の偉そうに述べた循環の話も、私はまだまだ人間同士レベルの範囲でしか実践できておらず、自然も含んだものとしての実践は伸び代でいっぱいです。

ちなみに、私が目にしただけでも数人の男性がおそらく知らないであろう子どもたちに時には厳しく、時には優しく関わっているシーンを見かけました。きっと他にも無数にいたことでしょう。

そういう意味では、どこがどう問題だったのか、というと問題だと捉える範囲が個々人によって違うので、分からないと言えるかもしれません。しかし、「(気づきながらも)きっと誰かがやってくれるはず・・・」を誰もがやってしまうことで失われてしまうことは確かにある。

そうならないために、言い換えれば「気づいたのは私だから、私がやろう」という人を一人でも増やすためには何が必要なのか?という問いについては、別の機会に考えようと何かしらアウトプットしたいなと思います。

さいごに

「書いたことを自分自身どのくらいやれているか?」というギャップを感じる時に感じる、ある種の重たさというか、うっとくる感じも含めての、日常からが本番だなとも思います。

日常からが本番、いざ。

時間はかかっても、大量に受け取った体験のシャワーを言語化すること・哲学することを通じて、やめること・続けること・新しく始めること、を導き出していきたいですし、こういう内省をした上でアウトプットすることが必要だと感じさせられる体験ができた、という意味でも価値ある機会だったなぁ。

感謝。


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