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第5話 兄との約束

石橋山に源頼朝と大庭景親が陣を構える
頼朝の背後からは伊東祐親が挟み撃ちの準備を始める
酒匂川では、三浦家が川を渡れず「小四郎、すまん」と日本で1番
謝罪の意を感じられない一言ですます北条義時の無二の友のはずの
三浦義村・・・台風だもんね、しょうがない

ということで、写真は大庭城址公園のものにしてみました

さて、さすが三谷幸喜の脚本です
みんなが人間臭い
きれいごとばかりでなくて好印象です

石橋山の戦いで名乗りをあげて言葉戦を交わした部分で
時政から源氏累代の家人がなぜ平家につくのかと問われた
景親の「昔は昔今は今、恩こそ主よ」と返答している場面は、
「源平盛衰記」にも載っているそうです
カマキリも出てきちゃったしねぇ~
現代語だけではなく、しっかり古典を入れる辺りのセンスは、
さすが、三谷幸喜の脚本

大庭景親をかばうわけではないのですが、景親の所領であった
大庭御厨に頼朝の父の義朝が攻めてきたってことも歴史の中にはあるし、
それでも源家の味方して戦ってみたら負けたしぃ~
その時に平清盛に助けられたしぃ~ってこともあったから、
「昔は昔今は今」となるのも意味が分かります

そこで、今回は人の行動には理由があり
良いか悪いかだけで判断することが出来ないということが分かります

交流分析の哲学は3つありまして、
(1)人は誰でもOKである
(2)人は誰もが考える能力を持っている
(3)自分の人生は自分自身が決め、
   そしてその決定を変えることが出来る
とあります

(1)人は誰でもOKである
「昔は昔今は今」と言い放った景親にも言い分があり
一方的に責められることではないのです

(2)人は誰もが考える能力を持っている
自分の命と部下、所領を保元の乱でどう守るのか?
景親は、考えたと思うのですよ
だから、源家の味方をした

(3)自分の人生は自分自身が決め、
   そしてその決定を変えることが出来る
源家の味方を決断して負けてしまった
しかし、背負うことが多い立場で兄までケガをした景親にとって、
命を助けられた平家の平清盛に「恩こそ主よ」と感じ従う相手を変えた
決断も様々なことを考えた決断の結果だったと考えることが出来ます

何が言いたいかと申しますと、生きとし生けるものの全てに
存在しても良いものであるということを基本として考えることは
人との関係の中では、必要なことだと思うのです
と言っても、どうしても許せないこともあります
許せないことがあるのも当たり前なのです
許せないことがあるあなたも存在していて欲しいです

とろで「しとどの窟」は、これで終ってしまうのかしら?
我慢の子頼朝がだだっ子のように騒いで、法皇様のパワハラ夢まくらだけ?
来週も楽しみだぁ~


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