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第44話 徳川幕府誕生

関ヶ原で石田三成の率いる大軍を打ち破り、
そのまま、大阪城の秀頼に先勝報告をした場面。
茶々「家康殿は、そなたの新なる父と心得なさいませ。」
秀頼「はい。いただきます。父上。」
優しく語りかけて秀頼に話しかけていた茶々が、舌の根も乾かぬうちに、
恐ろしい顔をして、
茶々「わかっておるな!あの狸、決して信じる出ないぞっ。」
秀頼「はい。」
いや・・・本当に怖い顔だった。。。

茶々にしてみれば、母であるお市の方が亡くなった経緯を考え、
助けに来てくれなかった「家康」に対しての恨みは募っていたのでしょう。

方や、家康の母御大の方とのやりとりもあった。
於大の方と秀吉の正室であった寧々と何とも言えない穏やかで
楽しそうなやりとりの最中、今でいう生まれの詐称について、
於大の方「家康、そなたはいつ頃まで寅と信じておったんだったかの?」
家康  「こんにちまで・・・」
於大の方「へっ・・・?」
家康  「今の今まで信じておりました。」
於大の方「聞かなことになさい。」
笑いあえる穏やかな時間でした。

人は、幼い時から基本的に話しかけられると言う刺激をもらって生きています。その結果、自然と母国語を話すことが出来るようになるのですが、
その言葉の使い方や口調、やりとりの仕方も自然と身についてきます。
茶々の言った「わかっておるな!あの狸、決して信じる出ないぞっ。」も、
於大の方「聞かなことになさい。」は、同じ上から下への命令形の言葉です。しかし、文面で読んでみるだけでも、どうでしょうか?
茶々の言葉は自然ときつい言葉と読み取ることが出来ます。
きつい言葉で命令形、そして、建前と本音をあからさまに発する日常を
過ごしていなら、その人はそのようなやりとりの仕方しか、
知らないのではないでしょうか?
その状態で幼稚園や保育園の社会性が求められるところに入り、
「このやり方は通用しない。これは、家だけのやり方なんだ」と気づき、
早い段階で気がつき修正できると良いのですが、身についたやり方は、
なかなか抜け出せないものです。
変わろうと思った時は、心の抵抗を抗いながら「痛み」を感じながら、
変わっていくものなのだと思います。
「痛み」を感じながらも変わることを決めるのも自分であり、
辞めるのも自分の決断でもあります。
どこをどのように変えていくのか?
その見立てが1番難しいと思いますが、いろいろとうるさいことを
言ってくれる人たちがいてくれるうちに変われる方が楽かもしれませんね。

さて、私は最後の方に出てきた
秀忠・本田正信・榊原康政のやりとりが良かったです。
秀忠  「わしを選んだのは、兄が正当な妻の子ではないからか・・・」
榊原康政「殿が左様な理由でお決めになるとお思いで?」
本多正信「才があるからこそ、秀康様を跡取りとせんのでござる。」
秀忠  「えっ?」
本多正信「才ある将が一代で国を栄いさせ、その一代で滅ぶ。
     我らはそれらを嫌と言うほど見てまいりました。」
榊原康政「才ある将一人に頼るような家中は、
     長続きせんと言うことでござる。」
本多正信「その点、あなた様は全てが人並!人並の者が受け継いで
     いけるお家こそ長続きいたしまする。
     言うなれば、偉大なる凡庸。といったところですかな?」
榊原康政「何より、於愛様のお子様だけあっておおらか。
     誰とでもうまくお付き合いなさる。豊臣家ともうまく
     おやりになりましょう。」
本多正信「関が原でも恨みを買っておりませんしな。間に合わなかった
     おかげで・・・」
秀忠  「確かにそうじゃ。かえって良かったかもしれんな。」
榊原康政と本多正信の年の功といいますか、阿吽の呼吸もあるかもしれませんが、私も言いずらいことを合点がいくような伝え方ができる大人?
嫌・・・年寄になりたいと思いましたw


行った時は秋だったお散歩日記
前回は海蔵寺と十六井戸のお話でした。
十六井戸の水のきれいを堪能し、崖肌を見上げて圧倒されて、
さて・・・どこに行こうかと悩むわけですよ。
何も考えてないからねw
適当に戻ろうと思ったその時に「化粧坂→」の看板を見つけて
しまいました!
化粧坂からなら、帰る方法はなんとかなる!
(1度通った道は忘れないのよね)
化粧坂は、扇ヶ谷から葛原岡へ続く坂で、鎌倉の防御上重要な位置であるため、新田義貞の鎌倉攻めの時、激戦地となったと言われています。

化粧坂切通しの碑

源頼朝が藤沢市の柄沢神社行ったと記録があるのですが、
恐らく、この化粧坂の切通を通ったと思われます。

滑りやすいので、絶対に運動靴で行ってください。

岩の角が取れているのをみると、多くの人が登ったり下りたりして、
少しずつなだらかな岩となっています。
どれだけの人が歩いたのかしら・・・。

この化粧坂の名前の由来はいくつかあり、
平家の大将の首を化粧し首実検したから
この辺に遊女がいたから
険しい坂が変じたという説
坂の上で商取引が盛んで「気和飛坂」
木が多いので「木生え坂」  
とあるが、個人的にはこの辺りには遊女がいて坂の上では、
商品取引が盛んであったというのが、
私は、しっくりします。 

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