見出し画像

【note再掲 3.11に寄せて】「Fukushima 50」を観てきました。多くの方に観ていただきたいです(2020年3月)

(注)この記事は、2020年3月17日にFacebookに投稿したものに加筆したものです。
映画「Fukushima 50」はAmazon PrimeやU-NEXTなどで配信されています。2021年3月10日(水)18時45分からWOWOWシネマで、3月29日(月)21時30分からWOWOW 4Kで放映されるそうです。

「Fukushima 50」とは何か

原発事故発生後も残った約50名の作業員に対し国外のメディアが与えた呼称。
"Fukushima 50 battle radiation risks as Japan nuclear crisis deepens"
(The Guardian 2011年3月15日)
 
10年前の2011年3月11日。
東北はもとより東日本に住んでいた全ての人が体験した大震災と津波、それに続く福島原発事故は、今もさまざまな形で私たちに爪痕を残しています。
この映画の感想をどの角度から捉えるのかは観る方それぞれであろうと思いますが、3.11から9年目のタイミングを狙っての封切りを新型コロナ禍が直撃したために、観客はおそらく非常に少なく、場合によっては上映期間の短縮すら懸念されます。
でも、よかったら、いや是非観ていただきたいです。
観ないともったいないです。
 
印象に残ったことはふたつ。
ひとつは、原子力(発電)が、「人為的に生み出した自然の力」であることを改めて痛感したこと。
もうひとつは、巨大電力企業の隠ぺい体質と、それゆえの拭い難い不信感について。
イシューは「人は核を制御できるのか」と「組織は自己防衛よりも正義を優先できるのか」のふたつです。
 
「人為的に生み出した自然の力」。
巨大台風の例を挙げるまでもなく、自然の力の前では人間は無力だと感じさせられることが多々ありますが、圧倒的な力は原子力も同じ。(だからこそ効率の良い発電方式と考えた人がいるのは当然でしょう。)
「偉大な力」だからこそ、軽く見てはいけない。
 
かつて渋谷に電力館という施設がありました(2011年5月に閉館)。
展示は、原子力がいかにクリーンで効率がよく、CO2排出が少なく、自然に対する負荷が小さいか、そして安全性に対して何重にも配慮をしているかを徹頭徹尾アピールしていました。
原子力(発電)が厄介なのは、自然の力でありながら、核分裂を集中して連鎖的に発生させる仕組み自体は人間が生み出したものという点ではないでしょうか。
原子力研究者とはつくづくすごいと思います。
 
一方、だからこそ、この自然の脅威を制御できるように思ってしまう。
人間が作り出したシステムは、制御もできるという過信。
これが原子力発電の落とし穴なのだと感じます。
例え何重に制御の仕組みを重ねたとしても、人間の作るものに完璧はありません。
それなのに、コントロールしきれると思うのは驕りでしかない。
映画の中で地震発生後に起こったさまざまな出来事を見ながら、「想定外」は単に津波の高さだけではなく、その後総理大臣や東電幹部が取ったひとつひとつの判断や行動でもあったでしょう。
いや、現場で必死に何とかしようともがいた人たちとて、最善手を打てたとは言い難かったと感じます。
もちろん、この事態を生んだ設計上の問題、製造品質も根本に存在します。
制御の仕組みは人が作りだすものであり、設計においても、操作においても完璧はない。
想定される条件はあっても、シナリオ通りにそれが起こるとは限らない。
 
他方、制御に失敗した時のリスクは途方もない。地球全体とまではいわなくとも、広い地域が長期にわたって居住不能になるインパクトを潜在的に持っている。
被ばくによる健康被害も甚大。
Fukushima 50(だけでなく、当時の数日間を現場で過ごした全ての人々)のすさまじい闘いについては、ぜひ映画をご覧いただきたいと思います。
 
暴走を始めた原子力発電に対し、明かりすら覚束ず、本来得られるはずの情報が次々と遮断される中で人知を集め、体力の限界まで作業をした人々のことを、リアルに描いていると感じました。
東電とて民間企業。そして働く人々は、われわれと何ら変わらない「サラリーマン(ウーマン)」。
その人々に、家族を、自分の命を投げうって、「国を守れ」と言うのはとても現実的ではありません。
彼らとて、たとえ頭の中ではその可能性を理解していたとしても、決死の覚悟をもって原子力プラントの中で日々を過ごしていたわけではないと思います。
突然起きた想定外の大事故に立ち向かう気力はどこにあったのでしょう。
国を守ろうと決意した人も、近くに住む家族や故郷を守らねばと思った人も、自分だけでも生き残りたいと思った人も、周囲の目に勝てなかった人も、それ以外の人もいろいろいたでしょう。
できることなら、持ち場を捨てて逃げ出したいと考えた人は少なくなかったのでは。
 
だから、「Fukushima 50」の闘いを美談にしてはいけない。
巨大地震からの大津波、想定外の電源喪失。
マニュアルにない出来事を、メルトダウンの文字がちらつく中、何とか制御しようとする現場の人々。
停電。
機器類の信頼性低下。
そのさなかの爆発。
けが人。
被ばく。灼熱。
時間とともに蓄積される疲労と寝不足。精神的負担。
外部からの応援を求めたくとも、発電所の周辺も、道路を含め大地震と津波で壊滅的被害を受けている。
 
映画は、激しい臨場感で、私たちをこの瞬間の原発内部に誘います。
あの日、民主党が政権を握っておらず、自民党だったとしたら。
それは単なる「たられば」の話。自民党政権下であったとしても、大混乱に陥ったことは想像に難くありません。
あの日、総理が別の人物であったら。官邸や内閣を構成するメンバーが異なっていたとしたら。
それも同じです。
 
映画を観ていて、ある種の誘導感をなしとはしませんでしたが、自分の記憶とさして大きな乖離はなく、捏造やフィクションという類ではないと感じます。
これは、YouTubeなどで映像が残っていることの良い点だと思います。
でも、問題はそこではないと思うのです。
事故は、現場にいて必死にもがきながらできる限りの行動に命を賭けた人たちの努力と、運のおかげで辛うじて致命的な結末を回避できただけ。
そして、フクシマは、まだ終わってはいない。
 
いつ終わるともしれない廃炉に向け、現場では注意深い作業が今も続いています。
この、「失敗を終息させる」ことに、一体どれほどの時間とお金がかかるのか。
「羮に懲りて膾を吹く」という言葉がありますが、私が言いたいのは、そういうことではないのです。
事故から9年。得られた新たな知見は少なくないでしょう。
そのことで、「今度こそは大丈夫」と思う人もいるのだと思います。
でも、そうではない。
巨大台風への備えがどこまでも100%にはならないことと同じです。

「電力ムラ」の論理と国民の正義

Fukushimaから見えてくるもうひとつのイシューは、「組織は自己防衛よりも正義を優先できるのか。」です。

これは国家システムの一部としての規制業種=電力ムラの組織構造と、東電のような個別企業の経営トップの問題で、東電職員ひとりひとりの問題ではありません。
組織は頭から腐っていく。

 
東電の一件があっても、関電のスキャンダルを見ると、彼らに居住まいを正す気はないとしか感じられません。
それが規制業種が陥る宿命だとすれば、なおのこと国民に対する透明性が担保されなければ、信頼は取り戻せない。
信頼を取り戻す前に、「必要だから」と突破することは許さない。
 
電気事業連合会の意見広告CMがオンエアされています。

石坂浩二:環境に優しいエネルギーと言えば、何を思い浮かべますか。
女性:うーん、太陽光とか、風力とか。
※女性の出演者の名前は不明
石坂浩二:そう。地球温暖化を抑制するには、再生可能エネルギーの拡大に加え、火力の効率化や、発電時にCO2を出さない原子力を、安全の確保を大前提に、バランスよく組み合わせることが必要だと考えます。
(2030年度の電源構成(政府案)として、火力56%、再生可能エネルギー22~24%、原子力22~20%の円グラフ)
石坂浩二:エネルギーを考えることは、地球環境を考えること。電気事業連合会。
分かっていないなぁ。つくづく、分かっていない。
少なくとも、私はこの人たちの感性に全く共感できません。
数々の問題を引き起こしてきた電力業界は、「クリーン」でなければ信用されるはずがない。「クリーン」は原子力発電のことではなく、原子力ムラ、電力ムラのあなたたちのことです。
相変わらず信用できないことを示す事実が次々と出てくる中でこのCM。
馬鹿にされた気分です。
 
人の噂も七十五日ほどに軽く考えているとしか思えません。
東電は、2002年に露見した原発トラブル隠し事件(管内の原子力発電所のトラブル記録を意図的に改竄、隠蔽し南直哉社長らが引責辞任)もそうであるが、福島原発事故でも隠ぺい体質や、自社の経営効率から原発に対しても十分な対応をしてこなかった組織的文化が顕著な企業といえます。
 
関西電力のトップ・幹部が福井県高浜町の元助役(すでに死去)から多額の金品を受け取っていた事件は、2020年3月14日、ようやく関西電力の第三者委員会の最終報告書が公表されました。

問題の「発覚」は2019年9月。実に5か月半もの日数を要して、ひとつの区切りを迎えたわけです。
金品を受け取っていた社員の数は実に75人。会社が公表した23人は氷山の一角にすぎませんでした。金品の総額は3億6000万円相当とのこと。
でも、それ以上に気になることは、報告書が指摘した同社の隠ぺい体質です。
社内調査の内容を取締役会に報告しなかったうえに監査役も取締役会に報告せず、また会長、社長が相談役と協議して対外公表しない方針を、はやばやと決めたとされています。
事の発端が1970年代に遡るとはいえ、内部文書の告発が昨年3月にもかかわらず、組織ぐるみで行われてきたこの犯罪を隠蔽し続けていたことは、コンプライアンス重視の現代にあって、悪質極まりないと感じます。

繰り返しになりますが、問題は電力会社の組織文化や体質です。
信用できない会社に原子力を扱う資格はない。
問題が何ら解決していないことを印象付けるできごとは続きます。

関電と東電。このふたつの、日本を代表する電力企業に共通して生まれる組織体質を偶然というのは難しい。
福島以外にも、震災直後に東北各地、東京本部にも、停電復旧や破壊された家屋の電力設備の復旧に自らの家庭を投げうって必死に取り組んでくれた人たちがたくさんいたことを忘れません。
私も、新卒以来真面目に東電に勤め、この事故で人生が変わった友人を数名知っています。
 
電力産業は変わっていく必要があると思います。
あたかも、新型コロナのパンデミック(全世界的大流行)が、今度は日本だけでなく世界を襲いました。
私たちは試されているのだと思います。

#311 #Fukushima #原子力発電   #規制業種 #多様性のないコミュニティ #ムラ社会  


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?