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だから私たちは『ひらやすみ』に感動する。置き去りにされた「贈与」の物語

『ひらやすみ』のヒロトの生き方・あり方が、私をとらえ続けているのに、ちゃんと説明できないでいた。無性に言葉で納得したかった。
哲学者 近内悠太氏の著書『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』で「贈与」という言葉に出会ったのは、そんな時だった。

この贈与の原理で、『ひらやすみ』の魅力をようやく理解できたように思う。そして何よりも自分自身の生活が、すみずみにまで目に入るようになった。彩度が上がった。

ヒロトたちの物語が「贈与」によって照らされる瞬間、私は世界と再会したような気持ちになる。その景色を、ここでもおすそ分けさせてほしい。

贈与だけが生み出す「余剰」

結論から述べると、『ひらやすみ』は贈与の物語である。そしてこの「贈与」が何なのか、私たちはプレゼントを通して既に知っている。

親しい人から誕生日にプレゼントされたとしましょう。その腕時計がどこかのお店で購入されたものならば、それ自体はただの『モノ』にすぎません。この世界にただ一つしかない特別な時計などなく、他の誰でも対価さえ支払えば購入できる、交換可能な『商品』でしかありません。ところが、その腕時計が『贈り物』として手渡された瞬間、自体は一変します。

『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』 / NewsPicksパブリッシング / 近内悠太

確かに、大切な人からもらった腕時計は、まったく同じ商品がお店に陳列されていても、もはや同じものではない。特別な感情が、ごく自然に湧いてくる。モノが、”思い入れ”を纏い始める。これを「余剰」と言う。

重要なのは、『その余剰分を自分自身では買うことができない』という点です。なぜなら、その余剰分は誰かから贈られた瞬間に初めてこの世界に立ち現れるものだからです。

『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』 / NewsPicksパブリッシング / 近内悠太

改めて考えたわけではないけれど、私たちは余剰だけが持つ効果をわかっていた。それをお金で買うことができないこともわかっていた。

贈り物が引き連れてくる余剰だけにしか、できないことがある。

生活と再会する贈与的交流

だからこそ、「市場」では、贈与が消滅してしまうのもよくわかる。

欲しい服があったら、ECショップやアパレルショップで価格通りの貨幣と交換する。貨幣を用いた「等価交換」が行われるのが私たちの生活だ。そしてこの交換は、基本的に1ターンで終了する。

生活の大部分が、そうやって成り立っている。

ところが、そんな私たちの目の前に突然、『ひらやすみ』がそっと差し出されてしまったのだ。

ばあちゃんが作ってくれた夕飯やカリン酒、ヒロトの友人が差し入れてくれたお肉。そしてもちろん、ばあちゃんが譲ってくれた平屋もだ。

人と人の間を結ぶ「贈りもの」がいたるところに満ちている『ひらやすみ』。いくつもの贈与の巡りで生まれた、彼らの余剰の物語に、私たちは何度も心震わせていたはずだ。

資本主義の原理が支配する「市場」だけが、私たちの生活ではない。ヒロトたちの贈与的交流が、そう気づかせてくれるのだと思う。

ヒロトとよもぎの対比

贈与にまつわる面白いエピソードがある。

雨漏りしてしまった平屋を、よもぎが猛暑の中修理する場面。そこにヒロトの高校の友人・ヒデキが築地で買ったシマアジをさばいてほしいと、ヒロトを訪ねてくる。結局ヒロトとなっちゃんも、シマアジをおすそ分けしてもらうのだが、何を思ったか、ヒロトはよもぎにもシマアジを一緒に食べないかと誘ったのだ。
屋根の修理という肉体作業をしていたお昼時、よもぎはもちろんお腹ペコペコ。しかしよもぎは、ヒロトの突然の申し出に戸惑い、断ってしまうのだった。

不動産でバリバリ働くよもぎは、独身でありながら自分で購入した高層マンションに住んでいる。ばあちゃんから平屋をタダで譲り受けたヒロトとは正反対のキャラクターだ。

贈与の仕組みと無意識に付き合いながら「お気楽」に生活するのがヒロトであるならば、資本主義のシステムそのものを生きるのがよもぎと言える。実際、資本を象徴する「不動産」に勤めている設定もドンピシャだ。

冒頭でも述べたように、私たちの生活は、貨幣を用いた「等価交換」が基本。モノやサービスを受け取るなら、それと同等のお金を支払わなければならない。だからこそよもぎは、自分の会社の顧客という立場のヒロトから、シマアジを、つまり善意による一方的な「贈与」を受け取ることができなかった、と考えることもできるだろう。

よもぎの生活に、ヒロトは贈与を食い込ませた。彼にとってそれが当たり前であるかのように。

大きく分厚い資本主義の基盤に、誰かの善意で生まれた小さなスキマ。
そこから、微かに風が吹く。

贈与が、すきま風をいざなう。

贈与を組み込んだカフェ「クルミドコーヒー」

東京のJR中央線・西国分寺駅を少し歩いたところに「クルミドコーヒー」というカフェがある。ちょうど先日、私も訪れたばかりだ。

その目的は、この店独自の取り組みである「お手紙コーヒー」を体験することだった。「お手紙コーヒー」を注文すると、このカフェに訪れる見知らぬ誰かに、コーヒーとメッセージを贈ることができる。
「贈り物をする体験」そのものが商品となっているのだ。

流れはこうだ。

  1. お手紙コーヒーの代金を支払った贈り手は、受け取ってくれる人に向けて、専用のハガキにメッセージをしたためる。そのハガキは、店内のウォールラックに掲示される。

  2. この店に訪れる誰かが、掲示されたハガキの中からひとつを選び、その送り主からのプレゼント、コーヒーを含む700円以下のドリンクを受け取る。

  3. 受け取る側の人は、そのハガキにコーヒーを贈ってくれた人へのお礼などのメッセージを綴る。

  4. クルミドコーヒーのスタッフにハガキを預ける。

そうしてそのハガキは、お手紙コーヒーを贈った人のもとへと、実際に郵送される。

お手紙コーヒーの返事が届いた

短歌にハマっている私は、返歌のお願いを添えて歌を詠んだ。「アキ」という名で創作活動をしている。ややこしくてごめんなさい。

いつ届くかもわからない、誰が受け取ってくれるかもわからない。そんな条件でも、お手紙コーヒーを通して「贈る喜び」を身をもって感じた。700円と引き換えに、素敵な返歌も届いた。しかし、この体験を700円に換金することはできない。

まったく同じ経験は、もう二度と、できない。



ヒロトたちが織りなす贈与的交流や、クルミドコーヒーのお手紙コーヒーによって見えてくる世界には、カラフルな物語がある。手触りのあるコミュニケーションが芽生えている。

もうこの景色からは逃れられない。「市場」に目を凝らし、朧げなすきま風に、耳を澄まし続けて生きていくのだと思う。そんなふうに、ヒロトに、贈与に、私は救われていく。すがって生きていく。

yukiko

原画展開催も嬉しい~!


【あとがき】
ここまでお読みいただきありがとうございました。最近は、フリーマーケットやアンティークショップを巡ることを日課にしています。思わぬ出合いや、贈与に近いやりとりがたくさん楽しめるんです。うっとりしてしまう素敵なアイテムとかも、noteで紹介していこうかな?と思っています。


エッセイストとして活動することが夢です。自分の作品を自費出版する際の費用に使わせていただきます。