東京

髪を攫う、まだ冷たい風が吹く
見慣れたアスファルトに眩い光が注いでいた
僕の好きじゃない夏の気配だ
あの懐かしい夏の




高校を卒業してすぐ、僕は何になりたいわけでもなかったのに田舎を飛び出した。
せいぜい3泊分くらいの荷物を背負って。

どんな場所かもわからなかった。けれど、いつか誰かが世界一の乗降客数だと言っていたから、新宿行きの夜行バスに飛び乗った。


見慣れた海にあっという間に夕暮れが沈んで、窓から見る景色はいつのまにか暗闇に溶け込んだ。空の境目すら曖昧で、知らない場所に行くにはちょうどよかったはずなのに窓に反射した自分の顔がどこか不安そうに見えて少し笑えた。

朝、自然と目が覚めて、なんだか空が狭くなったな、というのが東京の第一印象。

地元では、遮るものがない、近いような遠いような不思議な感覚のする空を見上げて世界の広さに夢を見ていた。

僕は東京に降り立った。
空が狭かったから、自分の小ささに気がついた。なんだか、どこへもいけない気がした。これがいっぱいいっぱいな気がした。狭い鳥籠に入れられたような、そんな気が。


軒並み並んだ漫画喫茶から、好きな色だった看板を掲げた店に転がり込んで、その日は仕事を探した。次の日、好きだった映画がたまたま公開していた小さな映画館で働き、近くに築60年のアパートを借りた。

それから夏が来た日までのことはあんまり覚えていない。

オープン作業を任されるようになってしばらくした、あるオフの日に家で惰眠を貪っていると壊れかけたインターホンが鳴った。
これまで覗くほどのことはなかったから、そのままドア開けると白いワンピースに麦わら帽子をかぶった、夏を形にしたようなひとがたっていた。

隣に越してきたから、と蕎麦をもらう、ありきたりであたりまえのそれだけだった。


でも不思議なことに僕は多分、その日、その瞬間、恋をしていた。
いつもよりまっさらに見えた白も、首筋を伝う汗も、よく見えたから。

6畳一間のボロアパートには大家さんを含めて3人しか住んでいなかったから、秋には大家さんが七輪で焼いてくれた秋刀魚を3人で食べたし、僕も冬には田舎から送られてくるみかんをお裾分けもした。春にはアパートの前の桜を眺めた。

たまに夜中にドアの前で話をしたし、最寄りのコンビニでアイスを分け合った。


だから夏が来たら。
次の夏が来たら、好きだと言おう。


そう決めたはずだったのに、
彼女はあの夏に還ってしまった。

訃報が届いたのは彼女の母親が大家さんに挨拶に来たからだった。すっかり毛虫に覆われた桜を大家さんとふたり、ぼうっと眺めていた日曜の午後のことだった。

1年前のあの夏にはすでに余命半年だったらしかった。少し長く生きたかなといった母親の笑った顔は彼女にそっくりだったから、彼女の死は現実になった。


お葬式は家族だけで済ませたらしく、あまりのものがなかったらしい部屋をすぐに片付けて部屋の確認へ向かった大家さんと入れ替わりに母親は帰っていった。


僕はそのまま彼女の母親の揺れる背中を眺めながら目を閉じた。

夕暮れが近づいて、少しだけ冷たさをのこす風が吹いていた。西陽が熱く僕の瞼を焼いている。


もうじき夏がくるだろう。
もう戻れないあの夏の先へ、僕はひとりで行くのだろう。
東京に来たあの夏みたいに、白いワンピースが映えたあの夏も置いていくだろう。

空を見上げると、遠くの方に東京タワーが見える。
東京の空が、遠くまで見えていた。


#短編小説
30分で書き殴り


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