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ONODA 一万夜を越えて

「よっこいしょういち」が口癖の同僚が、転職を重ねてもどこの職場にもいるもので、いまも何故か私より若い女の子までその言葉を使うので、一体これはなんの呪いなんだろうと思う。

横井庄一さんは、太平洋戦争に従軍し1945年に戦争が終わっても日本に帰れなかった男性だ。横井さんはグアム。

横井さんと混同しちゃいがちなのが、小野田寛郎さん。小野田さんは、フィリピンのルバング島で30年近く潜伏した。

41歳の私の知識はこんなもんで、映画「ONODA一万夜を越えて」を観に行った。

(ネタバレご注意を)

あの当時、戦争に向かった日本人を愚かだと笑うのは簡単だけど、いまでも多くの日本人が小野田さんたちのような精神状態になり得るのだと思う。

どこまで事実なのか、どこから虚構なのかわからない。

「野生のパンダ、小野田さん、雪男」の順で見つけるんだと語る旅人に見つけられるなんて、冗談でしょと思ったら、本当だった。

1974年、戦時中の価値観で生き続けた小野田さんと、戦後生まれの旅人・鈴木紀夫さんが対峙するシーンはまるでSF。過去と現在が同時に存在している(映画中の現在でさえ過去の話なんだけど)。

仲野太賀という若い俳優さんが好きだ。演技の引き出しが多い人だと思う。ドラマ「ゆとりですが何か?」のゆとりモンスター山岸を思い出した。鈴木さんの方が立派な青年なんだけど世代間のギャップという点で、そういえばああいう役もやってたなあと思い出した。

鈴木紀夫さんは、その後雪男を探して遭難して亡くなっているという。嘘みたいな本当の話。

話は前後するけどルバング島に向かう前、小野田さんは陸軍中野学校で特殊な教育を受け、上官からは玉砕するなと命令される。小野田さんにそんな命令を授けた上官は、イッセー尾形が演じた。優しそうなのに、底知れない怪しい雰囲気を放つ。

中野学校での佐渡おけさの替え歌を即興で歌わせるシーンはホラーだった。私、新潟出身者。怖くて涙目。でも、民謡は即興で歌詞を付けるものだったらしい。今も残る文化というものには、忘れ去られている習慣やルールがあるものなのかもしれない。

節さえ合っていれば、歌詞はなんでもOKですって、何事も形骸化しがちな日本人っぽいなあと思った。そんな意味で存在していたわけでないのに、いつのまにか違う理由で存在を続ける。小野田さんは正に、そういう存在なのだ。

録音機器が生まれて、「佐渡おけさ」の歌詞は定着したのだろうけど、録音機器のない口伝のころは、もっと違う歌詞があったのかもしれない。忘れ去られていることが、もっとあるのだろう。私たちは、あの戦争を正しく記録出来ているのだろうか。

小野田さんを発見して、旅人は帰国を説得するために上官の元へ向かう。とぼけるイッセー尾形の憎いこと。いまに至るまで、戦争を忘れたふりして生きてきた人たちも多かったことだろう。これも簡単に責められることではない。

話は戻して。小野田さんの青年期を遠藤雄弥、成年期を津田寛治が演じた。遠藤雄弥を久しぶりに見た。干されていたらしい 笑(ネットニュース情報)。キレイな顔の若者。件の佐渡おけさのシーンは、妙に色っぽくて見てられなくなった。

津田寛治はずっと津田寛治。そんな津田寛治が実は大好き。

何故、遠藤雄弥が通してやらなかったのか。老けメイクでいいじゃないかと津田寛治が疑問を感じたというネットニュース読んだ。津田寛治は敢えて別の役者に変えることで、精神的なものも変わっていることを表現したいのではと解釈して、遠藤雄弥とは演技のすり合わせをしなかったという。

民謡の、節が合っていれば歌詞はなんでもいいというルールが、ここにも適用されているのかもしれない。任務を愚直に遂行しようと目が光る小野田さんと、島民からの略奪が日常に変わった小野田さんは、同じようで違うのだ。肉体さえあれば生きている意味が変わってもOKということは、魂が変わっているから、肉体が変わっていても当然か。ん?

「小野田さん」を知っているつもりだったけど、何も知らなかった。小野田さんをネット検索しては、この映画の咀嚼を続けている。なかなか、噛みごたえがある。

そのうち、「よっこいしょういち」の語源も忘れ去られる日が来るのかもしれない。

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