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「658km、陽子の旅」は、日本版ノマドランドか?

クロエ・ジャオ監督の「ノマドランド」は、格差が広がる中で取り残される底辺の側から現代社会を映し出した作品であった。同じくロードムービーの様式をとった熊切和嘉監督の「658km、陽子の旅」は、日本版ノマドランド的な味わいであった。ともに現代社会をテーマにしているだけに、どこか似ているようでもあるが、まったく異なる方向性を感じた。

ノマドランドでは、世界中を飛び回るエリートノマドだけではなく、下流に生きるものたちもやはりノマドとしてしか生きていくことができない現代社会の現実を描いた。わずかながら描き出された救済は、下流ノマド同志による人としてのつながりだった。

これに対し「658km」では、ノマドであること=漂流者であること自体に疑問が呈されているように思われる。「ノマドランド」ではもはやみんな逃げ場などなくノマドとして生きていくしかない現代社会を描いて見せた。しかし「658km」では、リキッド(漂流)とソリッド(土着)の対立を基本構図にしているのではないかと思えた。

主人公の陽子は、夢を求めて漂流者(ノマド)になった=青森から東京に出た。しかし夢破れて、糸の切れたタコとして20年を過ごしひどいことになっている。リモートでルーティンな仕事をこなし、買い物はネットですませている。おかげで酷いコミ症に陥っている。うまく現代を描き出していて、この点では描写は異なるもののノマドランドと共通している。

そんな陽子が父親の葬儀に向かうヒッチハイクの旅の中でいろんな人と出会いながら、ソリッドな=しっかりとした生活の肌触りを思い出し、自分を取り戻していく。さて僕らに帰るべき故郷があるのだろうか。あったとしてそれはかつてのような形で生きているのだろうか。ソリッド=土着に救済を求めることができるのか考えさせられた。

「ノマドランド」と似ていると感じたのは、現代社会を描いているロードムービーであるというだけではなく、両作ともにノーメイクのままほぼ一人でストーリーの中心に立ち続ける女優の力量が称賛されていることや、音楽や映像がクールに仕上げられている点も影響したのかもしれない。

ちょっと涼しい映画館で、現代について考えてみたい人にお勧めです。映画館で楽しみたいあるいは癒されたいという人は、やめておきましょう。

#658km陽子の旅 #ユーロスペース #ノマドランド #映画

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