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詩に縋る

僕らが詩の言葉に縋るのは、こねくり回された理屈の言葉によって冷やされた零度の魂をゆっくりと燃やし、暖かな人間性を再び獲得するためだ。

商業の匂いが染みついた手触りのわるい言葉たちは、僕らが持っていたはずの叙情をゆるやかに殺していく。ぼくも含め、誰もそのことには気づかない。詩は、ポエムは、言葉の熱で人の尊厳を取り戻す試みだと思う。だから、社会との接地面で疲弊した僕たちは、詩の言葉に縋るしかないのである。

詩の言葉には余白が多い。いわゆる行間を読むことが求められる。だから詩は、それまで「読みやすさ」のためだけに製造された言葉しか読んでこなかった人間たちを遠ざける。けれど詩の本質は、その余白にこそあると思う。

詩は「正解」のない文学だ。
書き手の意図がそのまま伝わらなくたっていい。
思いを乗せた詩の言葉は、メッセージボトルのように言葉の海を漂流し、やがて読み手のもとにたどり着く。
ここで読み手は、「正解」の読み方を目指してはならない。読み手に求められるのは、ただ読むことだけだ。言葉の手触りを感じ、好きなように読むことだけだ。だからしばしば、書き手が描いたものとは全く異なるイメージが読み手に伝わることだってある。それは全く悪いことじゃない。というかむしろ、そこにこそ詩の本質があるのだ。

詩はコミュニケーションだ。
読み手と書き手との黙せる対話の中で、ひとつの風景が完成する。それは必然的なんかじゃない。偶発性の中でこそ、詩は完成するのだ。そしてだからこそ詩は、儚くて、うっとりするほど美しいのだと思う。

心が疲れた時、魂が傷んだ時、叙情が乾いた時、僕らは詩の言葉に縋ろう。冷たくなった人間性は、その中でだんだんと回復するはずだ。

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