子どもへの意思尊重と教育方針とのジレンマを解消するための理論

子どもをどのように育てるか
それは非常に深いテーマだと思う。
しかも、自分自身の幼少期の親との関係性にも非常に影響されたりして、
意外とやっかいなもの。

我が家の方針としてはあれもダメ、これもダメと規制していくのではなく、
できるだけ彼女のしたいことを尊重していきたいというもの。
しかし、最近よくあるジレンマが生じるのだ。

「youtube見たい!」
「DVD見たい!」
「テレビ見たい!」

超お手軽な暇つぶし手法である、映像の力に依存しているのではないかと思うほどの執着ぶり。
親の気持ちとしてはそんなに長時間見ていて欲しいものではない。
もっと遊びをクリエイトして欲しいと願う。
しかし、願いが叶えられないと強烈に泣きわめいたりするものだから手に負えない。
その勢いに負けて「あなたの好きにしなさい」と見せてしまうこともあるのだが、
「あなたが決めたことだ」
と子どもに責任を転嫁するのも違う。
実際にテレビをつけるのは我々だし、DVDを用意するのも我々だ。
これでは子どものわがままを聞いているだけで、今後のわがままを助長することにもつながる。

そこで、これではいけないと一念発起。
自分たちが理想とする育児方法に対してどうしたら子どもが納得してくれるのか、一生懸命に頭を捻った。
子どものやりたいという意思も尊重しつつ、我々両親の教育方針も尊重することが必要。
子どもにとって本当の自由とは何かを掘り下げて考えていくと、
子どもの希望を全て叶えてあげることが自由ではないんだと気付いた。
自由には責任が伴う。
子どもも一人の人間として相対するのだけれども、
それは全て大人と同じスペックを持っているものとみなすこととイコールではない。

本能・欲望の赴くままに今を生きている2歳児の彼女にとって、
今したいことが選択の全てであり、それをしたら今後どうなるかリスクを考える余地はない。
つまり、大人と同じ意味で「判断」ができて「責任」を負える状態にはない。
けれども、成長とともにできることも考えられることも増えていって、判断にたいして信用が生まれる。
そうなることで、尊重できる範囲も広がっていくのではないか。


そこで、
「今彼女自身でできる範囲のことは彼女の意思(判断)を尊重する。
しかし、自分ではできないことに関しては思い通りにいかないこともある」

と娘の意思尊重について定義付けた。

さて、実践。

「テレビ見たい!」
「どうぞ、見てください」
「ピッてして!」
「パパは別にテレビ見たくないし、見せたくないからピッってしない。自分でやれるならどうぞ」
「ピッてできない〜!パパがやって!」
「パパは見たくないし、見せたくないの。あなただけテレビ見ててもつまんない。それよりも二人で一緒にできる楽しいことをしよう」

この後も若干粘るものの、自分ではどうにもできないこともあってあきらめた様子。そして一緒に他の遊びをした。
このときはもうごねたり泣いたりはせず、子どもなりに納得したのだと感じた。
理由もわからずに「ダメ!ダメ!」だけだと、
自分にはできない、叶えられないことがあるんだと刷り込まれてしまう気がする。
それが自信を失わせたり、何か新しいことを始める時に二の足を踏むことにもつながると思う。
子どもの未来に対して見えないリミッターをかけてしまうのだ。

彼女には自分ができることとできないことの範囲を知ってもらいたい。
もし、今の自分にできないことでもやりたいと思ったのであれば、どうしたらそれが叶うのかを考えてもらいたい。
自分のスキルを磨くでもいいし、それができる誰かの心を動かしてやってもらうでもいい。どうすれば良いのか考える癖をつけてもらいたいのだ。

考えること、努力することで
「やりたいことは叶う」もしくは「叶う可能性がある」
ことを幼少期から肌感で知っておいてもらいたい。
成長した時に、自分がやりたいことに見えないリミッターがかからないように。
できないことは悪いことなんかじゃないと自分にも人に言えるように。


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