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華氏451度の世界観と現代社会について思う

 見出しからぶち上げたが、本を読むことが好きで、年に何度かは貪るように読書にふける。しかも芋づる式に同じ作者を、そして派生して書評をもとに片っ端から“読書サーフィン”をすることも。私にとっての当たり外れは当然あるが、それでも読むことで、思考の血肉になっていくのを実感する。で、いまは華氏451度だ。

 SNSにずっと感じてきた違和感。また、SNSではないがヤフーニュースのコメント欄にも違和感を感じて、ヤフーニュースを見なくなった。
ネットの世界は至極便利だと思う反面、しっかりリテラシーを身に着けていなければネットの世界に操られてしまうという思いにかられっぱなしだ。なので適切にインターネットを活用できているのかといえばかなり怪しいものだ。

 少なくない人が、何がしかの違和感を抱いていらっしゃるかもしれない。IT技術を避けて生活するのが極めて困難なのが今の時代だろう。

 ネット上のバーチャルな存在がリアルな存在を凌駕しバーチャルそのものがリアルな存在に。そのバーチャルな存在とのコミュニケーションがリアルなコミュニケーションとして成り立ってしまっている…そんな感覚に襲われてしまう。
時事ネタを取り上げた情報番組では、紹介されるのはネットの声ばかり。ことの是非はさておき、そもそもバーチャルな存在ともいえるテレビの世界。そこからさらにネット上のバーチャルな世界が示されると、いったい本物の世界って、リアルな世界って、真実ってどこにあるのだろう?と感じざるを得ない。

 話をもとに戻すが、そういう時代だからこそ、ヴァーチャルな世界を通じて伝えられる加工された情報ではなく、一次情報にアクセスしたり、客観的に信頼性の高い情報源にアクセスしてできるだけ正確な情報を得る事の大事さを実感するのである。特に冒頭に書いた媒体に対して感じることが多いのだ。
さらにすぐに答えを求める、というか答えを出すことを迫られる世界でもある。
情報を検証することなく反射的にコメント。正しいかどうかなどは別問題にすら感じる。いったい何をしているのだろう???と疑問でしかない。

 じっくり思考をはりめぐらせ考えをまとめる。間違っていたら、何が間違っていたのかどう間違っていたのか、更に検証を加えながら思考を繰り返す。誤解を恐れずに言えば、そんな作業とはおよそ無縁の世界に思われてならない。
その瞬間だけが切り取られる世界。まさに反射的思考であり真逆の世界だ。
こういうところも違和感を感じる部分でもある。

 レイ・ブラッドベリの「華氏451度」。
読んでいると長々と冒頭から触れてきたようなことを、つい考えてしまうのだ。
この小説は1950年代に書かれたものでご存じの方も多いだろうが、現代の社会に極めて鋭く切り込んで風刺している。とはいってもずいぶん昔の作品。ブラッドベリ自身がどこまで未来社会を思考していたかは定かではないが、現代においても十分あてはまる風刺である。
彼からのメッセージ。どこまでしっかり読み取ることができるだろうか。

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