『しかのこのこのここしたんたん』とはいったい何なのか——中間考察
はじめに
『しかのこのこのここしたんたん』で、私たちは一体何を見せられているのだろうか。ここでは論点を絞って、簡単に考察していくことにしよう。なお、筆者は単行本は未読であるため、その点はご容赦願いたい。
日常系(きらら系)との緊張関係について
まず、おそらくは視聴者の多くが抱く疑問として、「しかのこは日常系(きらら系)か?」というのが論点として挙げられるだろう。確かに女の子がたくさん登場し、ある意味平和なやり取りが繰り広げられるという意味では日常系に近い。しかし他方で、違いがあることも簡単に見て取れると思われる。OPで「きららジャンプ」をするかに見えてこしたんのパラシュートが取れている演出といい、作者のおしおしお氏はきらら系出身でありながらこの『しかのこ』はマガジンエッジで連載している……というディスコグラフィーといい、「違い」にチャレンジしていることは明白だ。
では、日常系やきらら系とは具体的にはどこが違うのだろうか?単純には、不条理ギャグの全面化というのがその答えだろう。しかし私見では、それに止まらない仕掛けがなされているように思う。作品における「社会」や「世界」の書き方だ。注意しよう。日常系では、社会は社会として、世界は世界として「常識的」に存在するというものが多いと思う。その上で、主要キャラクターたちによって尊いようなおかしいような箱庭が作られる……というのが日常系のつくりであると、単純にはまとめられるだろう。
他方、『しかのこ』においては、社会や世界がヘンであるという特質がある。こしたんが処女だとわかると、あるいはシスコンの妹がいるとわかると盛り上がるクラスメイトたち。2話のクイズ大会で積極的に乗っかってみせる群衆——「箱庭」が外まで広がっているかのような印象を受ける。この「広がり」は学校内にとどまらない。こしたんを崇めるお婆さん(シカ公園のエピソード)や動画配信での盛り上がりなど、どこか社会も箱庭色に染まっているようなのだ。さらには日野になぜかシカ公園があったり、4年に1度「シカコレ」が開催される(意味不明)など、この意味不明さは世界にまで広がっている。
つまり、作者がどこまで自覚的かはともかく、この『しかのこ』は「箱庭をセカイ化する」という点で、日常系と独特の緊張関係にある作品であると言えるだろう。
ギャグのパターンについて
続いては、話の作りについてザックリ見ていこう。「ボーボボ的」とも評されるこの『しかのこ』であるが、実際に鑑賞して見るとかなり違う作りをしているように思われる。注目すべきは5話だ。のこたんがラブレターが絶対入っていると思ったら入っていないくだりといい、猫山田が「(自分に)ツノが生えてこい」と念じるとのこたんのツノがのびているくだりといい、かなり安定感がある。
しかしその前後では、こうした安定感を意図的に放棄しているように思われる——キャラ紹介的な箇所は除外するとしても、『すごいよ! マサルさん』を彷彿とさせるこしたんの自作歌、動画配信でのファンタジー展開、喫茶店回での(ギャグ漫画でありそうといえばありそうでもある)人情モノ風話といい、とにかく色々なことをやっている。
先述の話に繋げれば、おそらくこれは「世界」を描いていると言えるのだろう——なんでもアリな世界であるが故に、「なんでもアリ」として多彩な展開がなされているのだと。ただし、ごく普通な話ではあるが、これは「既存のノリのパッチワーク」に陥ってしまう危険を孕んでいる。『しかのこ』がどちらに転ぶのか——注視してこうと思う。
キャラクター性:第0次近似としての天使
次に、キャラクターの描かれ方を見ていこう。ぱしゃめや猫山田など魅力的なキャラは多いが、まだ十分な出番があるとはいえないため、ここではのこたんとこしたんに絞って考察する。一体、二人は何なのか?なんとも言い難いが、ここでは作業仮説として、「天使のカップリング」として2人を見ていくことにしよう。
天使とはどういうものか? まずは「徹底して認識する存在」であるというのが挙げられるだろう——『ベルリン・天使の詩』のように。この性質をのこたんが持っているというのを見るのは難しくない。こしたんが「ヤンキー」であり「元ヤン」であるのを「見破る」、さらに2話のクイズ大会ではこしたんのあれこれに回答できる、etc. また、天然そうでありながらどこか「お見通し」なところがある、というのもそう強い主張ではないように思われる。
では、こしたんの方はどうなのか、ここでは彼女の「忘れっぽさ」に着目したい。もちろん、パウル・クレーの『忘れっぽい天使』とのアナロジーである。公式もどこかで言ったように記憶しているが、こしたんはとにかくキャラ過剰だ。生徒会長でありながら元ヤンで処女、中二病なのに(?)もっぱらツッコミ役という……。ここで、各エピソードにおいて、こしたんの「キャラ」が不安定であるということに着目しよう。確かにマクロに見てみるならば、のこたんとの会話はヤンキー風だったり、対外的には生徒会長として振る舞っていたりする。しかし、ミクロに見てみると謎も多い。例えば、第二話のクイズ大会や、第七話の動画配信回では、こしたんは一体どのような存在であるかが謎だ——まるで自分が生徒会長であることを、あるいは元ヤンであることをうっかり忘れてしまったように。
もちろん、これは第0次近似に過ぎない。まず、のこたんに関しては、天使は認識するだけで「アクションは起こせない」という性質も持っている。この意味では、作品世界を引っ掻き回すのこたんは同時に、「粗野な混血児(ドゥルーズ)」という側面も持つと言えるだろう。またのこたんに関しては、ニュアンスを「忘れっぽさ」に置くのではなく、「複数のキャラ設定がある結果実在が怪しくなる」という意味では、「幽霊」のようでもあると捉えられる。
以上の議論は、もちろん正解は何かという話ではない。「かわいいだけ」と評されがちな日常系(風)アニメにおいて、実はそのキャラは天使や幽霊のような性質も持っている——といった形で、キャラクターのポテンシャルを引き出すことが狙いである。今後、これらの論点がどう展開していくのか期待したい。
「愚かな百合」へ向けて:その性質と政治性
続いては、これも多くの視聴者が疑問を抱いたと思われる、「しか×のこは百合なのか?」「百合だとして、それはどのような性質のものなのか?」という論点について考えたい。
まずは、百合とはどのようなものかごく簡単に捉えてみよう。もちろん百合と言っても様々だが、その特徴として「賢い主体」を設定していることがあるように思う。自分が相手に抱いている想いが果たして「友情」なのか「恋」なのか、真剣に見極めていこうとする——賢い主体というわけだ。この観点からすると、『しかのこ』の二人がそんな「賢い主体」でないことは明らかだ。
では、彼女たちは百合ではないのだろうか? ここでは、賢さではなく、「愚かしさ」の百合として彼女たちを捉えてみたい。第七話で、「動画配信のコメント」という体裁で第三者からの論評が入ったように、彼女たちはかなり距離感が近い。そしてさりげなく目を合わせる動作にしても、ボケツッコミのやり取りにしても、大いに情動の交差がなされていることが見て取れる。しかしそんな彼女たちは、自分らの関係性について省察することは皆無だ。
こう捉えられないだろうか? 彼女たちは愚かしいあまり、友情と恋の関係性が揺らいでいるのである、と(愚かしさと言ってビックリした人向けに書くと、ここでの愚かしさには肯定的な意味が込められています。大好きな人に「お前はバカだなぁ〜」という時の「バカ」みたいなニュアンスです)。また、ざっくりした話としては、『キルミーベイベー』に近いということも付言しておこう。あの普通の百合とは違う、しかし何かが確実に起きているという距離感……自分はこうしたものが大好きだ。
賢さの百合とは違う、愚かしさの百合。最後に、この「愚かしさ」が共同体のヒントになることを示して論を終えることにしよう。共同体にはどんなものがあるか?悪しき例としては、調子に乗ったリーダーが猛威を振るうものが挙げられるだろう(会社のように)。他方、そうしたものを回避する「リベラルな」共同体というのもある。決して中央集権的になるのではなく、一人一人が熟議しながら議論に慎重に参加し、全体を形作っていくような。ただし、この共同体は全成員が「賢い」ことを暗に要請している(上述の「賢い百合」とのアナロジーが見て取れるだろう)。私たちが作っている共同体は必ずや全員が賢いわけでなく、また「賢さ」からドロップアウトしてしまう人だっている。そこで出てくるのが「弱度の共同体」だ。自分の、あるいは他人の「弱さ」を「ケア」し、誤解や誤配を孕みながらなんとかコミュニケーションをとっていく……という共同体。
しかし私見では、のこたんとこしたんが示唆しているのは「もっと弱い」共同体だ。本編で散発されるギャグを見ればわかるように、彼女たちは圧倒的なコミュニケーションの不能性に直面している。さらに、自らが相手に抱く感情が何なのかすら分からなくなってしまっているようだ。つまり、不能と不知のオーバーダブ。それでも、だからこそ共に並んでいるような共同体……。
冒頭に戻ろう。この『しかのこ』は箱庭がセカイ化されるという特徴を持っていた。そう、そんなとても弱い共同体が世界を貫いている——これが『しかのこのこのここしたんたん』の世界観であるように思う。
おわりに
ここまで、『しかのこのこのここしたんたん』で私たちは一体何を見せられているかについて、駆け足で論じてきた。日常系的な「箱庭」が世界に広がっていること、またギャグも一種「世界」を総取りするものであること、第0次近似としてキャラクターが天使性を帯びていると捉えられること、「賢さ」ではなく「愚かしさ」の百合として解釈できること、というのがその論点である。
もちろん、これは中間考察に過ぎない。特に、ギャグをどう持っていくかはまったく想像がつかないという状況にある。いずれにせよ、これから『しかのこのこのここしたんたん』がどう展開していくのか、あの作品がなぜだか与えてくれる「癒し」と共に楽しみにしている。
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