いい子じゃないと愛されない、という呪縛がほぐれた話
私の人生、好きなように生きてきたと思っていた。
その行き詰まりに気づいたのが、就活をはじめる大学生の頃。
自分がなにを求めているのか、なにをやりたいのか、なにを大切にしているのか、なにもかもがわからないことにふと気づいて、立ちすくした。
「私は、これからどうやって生きていきたいんだろう…?」
あれから数年が経った今。まわりにめぐまれ、縁にめぐまれ、ずいぶんと息のしやすい場所にたどりついた。
今の私は、結婚したいとも、子どもがほしいとも思っていない。その理由にはたくさんのものが紐づいている。
自分は、この先をともに過ごそうと誓い、覚悟しあえるパートナーと出会えるような人間ではないと思っていること、立派な親になれる自信もないこと、自分の面倒をみるだけで精一杯の私が、だれかとともに生きることなんて、雲の上のまた上の無理ゲーなお話だと思っていること…
でも、バディの家族と過ごすようになって、「こんなふうに、チームになって生きていけるのなら、それはすごく自由で、すてきなことなんじゃないか」と思いはじめている。
(バディについては、こちらに書いています。)
この変化に、自分でもびっくりする。
だって、保育士として3年半勤めてきたから、子どもとともにあることの楽しさも知っているけど、難しさも嫌というほど知っている。子どももひとりの人間なんだから、相性だってある。育てることの難しさを抱えている子が生まれてくる可能性だって、ある。
だけど、お互いがちがうからの良さもきっとあって、強さもきっとあって、それをまるっと認めて受け止めながら、ぶつかりあうときは対話をして、お互いを一歩ずつ知って、そうして関係を築いていく。
そこには、ひとりでいることの自由とは、また全然質の違う自由があるように思う。ひとりで自由であることは、孤独と背中合わせ。誰かとともにあることの自由は、なにと背中合わせなんだろう。
そのままでいい、そのままがいい。そんなふうにお互いを大切にして、お互いをあたためあえる居場所。その心強さは、傷つくことも多いこの世界を生きていくうえで、きっと最強の盾になる。
そして、それは多分、結婚して家族で…という関係性じゃなくたって、築けるものなのかもしれない。
と言ってくれる、バディのママの言葉。
と、私と過ごす時間をいつも楽しみにしてくれるバディ。
私は本当になにもしていなくて、ただ遊んで、ただ楽しんで、ただ一緒にいる。それだけなのに、こんなにもたくさんのものを私から受け取ってくれて、私にたくさんのあふれるほどのなにかをくれる。
それにどれだけ私が救われているのか、うまく言葉にできないくらい。
「いい子でいなくちゃ、愛されない」という呪縛にとらわれて、否定されて拒絶されて傷つきたくないから、自分の願いも想いも口にすることを不必要なくらいにためらう自分をほぐしてくれたのは、そんなバディの存在がとても大きい。
親に対して、勇気をもって話してみたことも、「そうじゃないでしょ」と否定される。「これが嫌だ」と言ったら、「そういうこと言わないの」と拒絶される。ちっちゃなちっちゃなかすり傷でも、積み重なればぼろぼろになる。
でも、そんなふうに自分が傷ついていることに、私は気づいていなかった。家族のことが好きで、大切だったから。だけど、言葉に敏感な自分は、ひっそりこっそり傷つき続けていた。
その成れの果てが、「いい子じゃないと」の私。挙げ句の果てが、「いい子」であるために、自分の選択を見失い、やりたいことも、求めていることもわからなくなった迷子。
だけどその自分に気づくことで、私が私であるだけで、たくさんの愛をくれるバディにも、その家族にも、私はたくさん救われた。
傷つくことがあっても、不安なことがあっても、それでもともにあることのあたたかさや尊さを教えてくれた。
バディといるときの私をそんなふうに表現してくれる人がいるくらい。
私にとってのバディは、ありがたい存在。
今の私はどんな顔をしているんだろう。
惑っていた大学生の私に見せてあげたい。
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