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美しさと醜さとわたしが在るということ

人が認識できるものには、全て相対する「対」(つい)がある。

右手がなかったら、左手は存在できるだろうか?右手がなければ左手は、ただの手になってしまうのではないか。左右とは左に対して右があるからこそ成り立つ概念なのだから。

男がいなかったら、女は女であることができるだろうか。性別という概念すらなくなってしまわないだろうか。

あらゆる色が全て白であったら、白は白ではいられない。想像してみてほしい。白だけの世界で白をどう認識できるのかを。そこに確かに白はあるけれど色という概念自体がなくなってしまう。

認識できるものには全て相対する対がある。存在は、それそのものとして認識できないのだ。

光は影によって認識される。影は光によって認識される。善人は悪人がいてこそ善人であることができ、悪人は善人がいるからこそ悪人でありえる。わたしが「私」でありえるのは、「あなた」がいるからに他ならない。それそのもので「それ」を表現することはできないのだ。「存在そのもの」というとき、それは認知できない、ただそこに「在る」ことでしかありえない。

わたしたちの認識する世界はこのような二元性によって成り立っている。

ここに多くの葛藤が起こる。偉人や聖人たちは善によって善を表現しようとする。美によって美を表現しようとする。こんなことは不可能だ。表のないコインを作ろうとしているようなもの。

美とは、「醜くない」ことでなく「美しくある」ことでもない。美とは、美そのもの。ところが、美醜ありのままを捉えたとたんそれは美でも醜でもないただの存在になる。言葉の二元性からはなれない限り真の美を知ることはできない。しかし、それを棄てたとたん認識の限界を超えてしまう。

マインドではなく、ハートで存在を捉えるとき世界はありのまま美しい。

りなる



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