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暴力をわたしたちのイメージから払拭するということ

暴力をなくそう!

こう呼びかけたなら、きっとほとんどの人が賛同してくれるのではないかと思います。

そもそも暴力とはなんだろう。。。直接的な暴行、間接的な虐め、言葉による罵りや虐待など、身の回りの出来事はとてもイメージしやすい「暴力」がある。その一方で、世の中には「正当化された暴力」というものがあります。

理念や大義のための戦争

国防のための武力行使

警察の実力行使

犯人逮捕

法に基づく刑罰の施行

法の下に人が人を裁くこと

自国民を守るためであれば他国民を殺めることは正当防衛だというとき、正当な暴力とはいかなるものだろうとわたしは思う。

犯罪を抑制し善良な市民を守るために力を行使することは正義であるというとき、正義の暴力とはなんだろうかとわたしは疑問に思う。

罪を犯した人間を法という理知的なシステムで裁くとき、そしてその結果、人が人を監視し何十年も拘束・監禁することは倫理的であるというとき、倫理的な暴力というのはいかなるものだろうかと思う。


賛否は置いといて、こういった「正当化された暴力」の概念があたりまえの日常の中にわたしたちは生活しています。これは、言い換えると「暴力はあくまで手段であり、暴力が正しいのか悪いのかはその目的に応じて判定される」という考えが根底にあるということです。

ちょっと意地悪な言い方になってしまうかもしれませんが、冒頭で暴力をなくそう!という言葉に賛同してくれた人に、それを踏まえて、今度はこんな質問を投げかけてみたい。

暴力は正しいですか?

今度は少し迷ったかもしれません。

そして、もう一度、同じ質問に答えてみてほしい。

暴力をなくそう!

暴力は正しいですか?の答えに迷いがなくなるのにはもう少し時間がかかるかもしれない。そして暴力をなくそうという言葉にはより深いわたしたちの意識の問題がこびりついていることに気づいたかもしれません。

改めてもう一度、冒頭の呼びかけをしたい。あらゆる暴力を世界からなくそう!わたしはそれを心から願っています。数百年後の子孫の未来にあらゆる暴力がなくなっていてほしい。

りなる

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