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ただひたすらに待つ

何かをすることでしか自分を表現できない現代人にとって「何もしない」という選択をすることはとても困難です。

何かをするにしても、しないにしても思考が「理由」を求めるからです。

わたしたちが、能動的に「しない」ことをするのは実はとても難しいことなのではないかと、このところよく思います。

学校でも、会社でも、あなたを評価する軸は常に「何をしたか」だったからではないかと思います。なにもできない(すべきでない)自粛生活の中でさえ、わたしたちは常に「いまできること」を突きつけられています。

「しない」時間

ところが、実際にはあべこべなのです。

生きとし生けるものは生きていることそのものが存在意義であってよい。現代社会では人間が生物である、という当たり前の事実を受け入れられず、知性を優遇し、内的衝動を抑制し、行動に目的をもたせようともがいています。

その結果として、わたしたちは「生きる」という基本的な行為そのものから目をそむける生き方をしていませんか。

ただ生きる、そんな時間こそがあなたの存在を輝かせる。

何かをしないではいられない

ところが、現代社会において、なにもしない、という行為はなかなか許されません。あなたのお母さんに、奥さんに、そして会社の上司に、「わたしは何もしていません」と嬉々として主張できる人がいったいどれだけいるでしょう?ともすると頭がおかしいと思われてしまいますよね。

何もしないという行為が許されないのです。社会のしくみだけでなく、あなた自身の思考も。公園で子どもたちを眺めているひととき、川べりでずっと水の流れを目で追っているひととき、木陰でうぐいすの声を愉しんでいるひととき。

そんなときでさえ、あなたの思考は全身全霊で叫びます。

「おまえは、今日一日いったいなにをしてたんだ!」

待つということ

そんななか、自発的に「しない」でいる時間(それに似た時間)を作る方法があります。

待つことです。

こんな体験をしたことがあります。以前インドのプッタパルティという街でサイババに会いに行ったときのことでした。当時すでにサイババは高齢で一日に二回あるダルシャンと呼ばれる礼拝に姿を表すのみでした。

その姿をみるために多くの人が集まり、一日の膨大な時間を待つことだけに費やしていました。「待つ」。。。ひたすら「待つ」。。。そして「待つ」。。。

すると、この「待つ」という行為はどこか特別なのです。ただそこに現れるサイババを「待つ」という自発的な選択が、膨大な「何もしない」という瞑想の空間を呼び起こします。

日が暮れ始めようとしかかるちょうどその頃、会場の明かりがともり、歌が始まり、、、ゆっくりとサイババが登場します。

ダルシャンは一時間ほど続きました。次第にあたりは暗くなり、会場の明かりだけが暖かい色を帯びだすのです。

わたしはサイババと礼拝の歌に、ただただ酔いしれたのでした。

そこには、過去に煩わされる「わたし」もおらず。

未来を不安に思う「わたし」もおらず。

ただ、今に「わたし」がありました。

いまに在る

いまちょうど読んでいるエックハルト・トールの本に、似たような記述が偶然でてきたので、それも紹介しようと思います。

「いまに在る」状態は、「待つこと」にたとえられます。イエスはたとえの中で、「待つ」という行為を「いまに在る」ことのシンボルに使っています。

この場合の「待つこと」は、一般的な意味合いの、退屈な状態や、そわそわして落ち着かない状態とは違います。(略)この状態と対極に位置する「待つこと」があります。

これは、完全な意識の集中を要します。いつ、なにが起こるとも知れないのですから、完全に目覚め、思考が静止していなければ、それを見すごしてしまうのです。

これがまさに、イエスの表現するところの「待つこと」です。この状態では、意識は「いま」に注がれています。

エックハルト・トール

りなる



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