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スローダウン

最近、宮本常一さんの『忘れられた日本人』という本を読んでいるのだけれども、これが結構おもしろい。1930年代くらいから、全国各地を歩き回ってさまざまな老齢の村人の話を聞き込み、各地の歴史や習慣についての膨大な資料を残した人です。

先日書いた、昔の習慣としての性だったり、祭りの役割についての示唆も面白いのだけれど、それ以外にも、日本土着の民主主義的な折り合いのつけ方だったり、当時の各地の村々がどのようなコミュニティーを形成していて、それが地域においてどのような影響をもららしたのかを考察するとてもよいきっかけになってくれるのじゃないか。

例えば、各地にあった「寄りあい」で村のさまざまな決まり事を話し合っていたことや、その様子が語られたりする。

…夜になって話がきれないとその場へ寝る者もあり、おきて話して夜を明かすものもあり、結論がでるまでそれが続いたそうである。といっても三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかくムリはしなかった。みんなが納得の行くまで話し合った。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。

宮本常一

全国に記録が残っているものだけでも当時から数えて200年ほど前から、記録にないものを含めるとおそらくもっと以前からこのような話し合いの場というのは各地にあったらしい。。。

これが日本式の民主主義(これを民主主義などという単純な言葉に置き換えてしまってよいものかわからないけれど)の原型かもしれない。当然、いまのような国という認識もなかっただろうから、この列島にあった各々の村に根付いたフィットする傾向だったと考えると何かとても示唆深いものを感じてしまう。

そういうところではたとえ話、すなわち自分たちのあるいて来、体験したことに事よせて話すのが、他人にも理解してもらいやすかったし、話す方もはなしやすかったに違いない。そして話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見がでると、また出たままにしておき、それについてみんなが考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである。これならせまい村の中で毎日顔をつきあわせていても気まずい思いをすることはすくないであろう。と同時に寄りあいというものに権威のあったことがよくわかる。

それにしても、どんな複雑な話も大抵は三日でかたがついたという、実体験からくる言葉は重い。議題に対する話題として各々の体験や経験が語られ、そこからさまざまな意見を紡ぎ出す。だからこそ長い年月を重ねることで活きる年長者の経験こそ重宝されもする。長い時間を同じ場所で生活することで、お互いの持ちつ持たれつの関係も生まれる。悪いことも良いことも。そんな関係であってなお、三日三晩もあれば語るべきことは語り尽くされるのだ。

「人間一人一人をとって見れば、正しい事ばかりはしておらん。人間三代の間には必ずわるい事をしているものです。お互いにゆずりあうところがなくてはいけぬ」と話してくれた。…その村では六十歳になると、年寄仲間に入る。年寄り仲間は時々あつまり、その席で、村の中にあるいろいろのかくされている問題が話し合われる。

もちろんかくされた問題というのは、よからぬことなのだけれども、そういったことは代々三代も遡ればどの家族にもたいていひそんでいるもの。そのような問題が年寄りによってひっそりと解決されたりもする。他言無用だからほとんどの若人たちにはそのような年寄りが集まっていたことすら知らないのだそうだ。

「皆さん、とにかく誰もいないところで、たった一人暗夜に胸に手をおいて、私は少しも悪いことはしておらん。私の親も正しかった。祖父も正しかった。私の家の土地はすこしの不正もなしに手に入れたものだ、とはっきりいいきれる人がありましたら申し出てください」といった。するといままで強く自己主張をしていた人がみんな口をつぐんでしまった。

こういうところに、人間の年齢や経験、世代を超えたつながりを「時間の流れ」をうまく味方につけることで生活していたのだと伺えもする。それと比べれば、現代社会ではモノだけじゃなく世代も経験もみんなその場限りの使い捨てだ。

引退とか隠居に対する意味も現代のそれとは全く違う。年長者の経験は村で重宝されながらも、隠居することで村の祭事から一歩身を引き、より自分の仕事に打ち込めるようにもなる。仕事はここでも生きがいなのだ。仕事と収入が同義となってしまっている現代人のわれわれに問われている、さて、仕事とはなんだろう?

わたしたちは、三日三晩自分事として誰かと議論したり、自分の経験談や誰かの経験談を語ったり耳を傾けたりすることがあるだろうか?現代社会はそれほどに目先の問題に対して軽率だ。「時間をかけない」ことが効率化だという人すらいる。

社会のめぐりが速すぎるのかもしれない。テクノロジーの進歩、情報の流通量の多さ、これによって、わたしたちは過去の人が数年かけて体験するようなできごとをいっぺんに体験することができる時代になった。

それは果たして幸せ・豊かなことなのだろうか?

江戸時代には富士登山にも行くまでに何日もをかけ準備をして山に登り、下山してからまた何日もかけて故郷に帰っていく、その内に出会った人々やそこで感じた不安や期待、喜びといった体験をその数日間から数週間にわたって味わったのだ。そこへきて現代人は、新幹線で半日もあれば富士山に行けるし、軽い仮眠を取って早朝に日の出を見るために登り始め、翌日には下山して新幹線で自宅に帰り着くことができる。昔の人が富士登山を1回する間に、現代人は富士登山に加えて、なんなら更にハワイに行って帰ってこれる。それでも時間が余るかもしれない。

そのような情報過多、いや体験過多の時代にあって、わたしたちは「体験」をどこまで真摯に脳裏に焼き付けることができるのだろう?人間の脳は情報が多くても適切に処理することができる優れた機能をもっている。それは全ての情報を受理するのではなく、必要最低限の情報だけを取捨選択するという能力をもっているから。つまり、必要以上の情報はどんどん「捨てられて」しまう。わたしたちは日々の体験を実は味わっているのではなく、そのほとんどを実のところ足切りしてしまってるのではないだろうか?

さて、話が飛躍してしまった。

わたしたちの目先の問題にしても、効率化だといってYouTubeで「それらしい」答えを見つけて批判をする。そこにはもっと友人や身の回りから聞くべき経験や、あなた自身が語るべき体験が取りこぼされてしまっている。わたしたちに実はいま最も必要なのは、その議論、寄りあいの場、体験を味わうための時間的な余白なのではないか?体験過多を改善することこそが、本来の豊かさなのではないか?

スローダウン。

より多く、より大きなものを受け取ることが豊かさなのだろうか?わたしたちはもう十分に受け取っている。わたしたちの脳には決まった許容量がある。この許容量はきっと少なくともこの2500年ほどの間にはほとんど変わっていないのだけれど、わたしたちの生活環境は劇的に変わってきた。そして、わたしたちの体はその変化にちゃんと順応している。そう取「捨」選択という機能を用いて。。。

その体験を余すことなく受取るために必要なのは、まさにスローダウンするということではないだろうか。現代人は「しない」ことを恐れる。それが消費社会のムダを意味するから。でもね、「しない」という時間を増やすことはムダとは違う。それはひとつの体験からより多くをあますことなく受け取るための余白を生み出すのだと思うのです。

りなる


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