自分の価値はどうやって保つのか。(迷走中)

 毎日に「ゆとり」と「余白」が欲しい。
できていない自分にがんじがらめになっている。ずっと渇望している。
どうすればゆとりが生まれるのか?どのような行動をとればいいのか?そう考えれば考えるほど追いつめられる。

 会社に雇用されている自分は、ある程度の仕事ができることを見込まれて雇用されている。つまり、仕事ができなければ存在する意味はないのだ、と常々思っている。嫁である自分は、家事掃除、買い出し、家のことをきちんとできていなければ嫁として価値がないと、常々考えている。フリーランスである主人は、常にクオリティの高いものを提示しなければ次から仕事がなくなると、常に考えている。
考えているのか怯えているのか曖昧なのだが、先日こんな出来事があった。
我が家ではごはん用ジップロックに1膳ずつ詰めて冷凍ストックをしているのだが、(これめちゃめちゃ便利でおすすめ)

 ある日疲れていて、ごはんのストックを切らしたことがあった。夕方仕事を終えた家人からLINEが入ってきた。
「ごはんなかったんやね」
「今後は絶対切らさんようにするね、きちんとしてなくてごめんね」
「僕はそんなに怖いの?何に怯えてるの?勝手に完璧目指してできなくて勝手に落ち込まれても」
というやりとりが起こった。冷静になってみれば確かに、きちんと常備しておけと言われたわけじゃない。常備するようになったのは、それが使い勝手がよいと私が勝手にやったのだ。ごはんをなんで切らしたのか、なんできちんとやってないのか、と責められたわけじゃない。それなのに勝手に「ごはんを炊いていない自分が悪い」という解釈から謝罪になっているわけだが『そういう態度』を嫌そうに言われると『そういう態度』を取った自分自身を責めてしまうのである。悪循環だ。またその態度をやめようとしても負のオーラが消え切らず、また嫌味を言われて落ち込む。ずっとこんな繰り返しだ。

 周りに細かいこともよく気が付く、気の回る人がいる。普段からとても助けられていて、感謝している。しかしその分気づく点も多く、結果揚げ足取りのように指摘をし続けるのだ。それをいつも聞きながら、もし自分に嫌なことがあっても、外に言うのは控えよう、と思った。やっぱりダメだしは聞いている方も結構しんどい。解決できるやり方を探すべきだし、人を責めたからと言って解決はしないと。人に変わってもらうのは無理だし、自分が変わっていくしかない。寄り添って一緒にできるやり方を探すなり、提案をするなり、その人と解決方法をしっかりとつなぐことが実になる方法なんじゃないかと私は考えている。だから、愚痴を言うのはやめようと思った。嫌な女になりたくないし、円満でありたい。それでも濁らない自分でいたい。気の合わない人はいるけれど、そういう方ともきちんとお付き合いをするのが大人だと思っている。でも、なんとなくはけ口がなくて追いつめられている気になった。こういう時、輝いている人はどうするのだろう。

 そんなこんなで最近は時々胸から喉のあたりが苦しくなることが多い。人の愚痴を聞いていると「私は愚痴を聞くからいる価値があるんだ」と思った後に「ただの都合のいい人間なんだな」と落ち込んだりする。冷静になって、確かにごはんを切らすなと言われたわけじゃないと理解すると、今度は被害妄想が酷い自分自身が嫌になって責めてしまう。ここから抜け出すにはどうしたらよいのか。きっとしばらくしたら治まって「あの時はなんであんなこと考えたんだろう」なんて思うのかもしれないが、もし治まったらその時のことも含めて、ゆくゆく同じようなことが起こった時に対策ができるよう書き残しておきたいと思う。

 とりあえずは本を読もうと思った。目の前の世界から事実を事実としてきちんと捉えるためのトレーニングが必要なのかもしれない。今日は本屋さんに寄ってこよう。

 寒くなってきた。12月の養生とは「閉じて護る」ことなのだそうだ。早く寝てゆっくり起きる、日々の生活を守るための食事をする。少しずつ少しずつ整えていかなければ、と思う12月であった。

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