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福岡の夜を溶かした、雑居ビル2階のとあるバー

福岡という街が好きだ。
住んでいたのはたったの2年弱だったが、機会があればまたぜひとも住みたい、なんなら福岡弁堪能な福岡男児の恋人になってみたいと夢見てさえいる。

なぜこんなにも福岡が愛しいのか、よくよく考えなくてもわかる。
いい飲み屋がたくさんあるからだ。

以前暮らしていた天神周辺にはたくさんの飲み屋が集まり、そのどれもが最高で、不思議とハズレと感じる店は1軒もないように思える。
もつ鍋、ごまさば、イカ刺し、焼き鳥、鉄鍋餃子、うどん、ラーメン…(福岡には“うどん居酒屋”や“ラーメン居酒屋”というそれはそれは魅力的なジャンルが存在する)。
福岡グルメほど総じて酒に合うものはないだろう。
しかもたらふく飲み食いしてもそれほど高くつかないからありがたい。
はあ、思い出すだけでうっとりしてしまう。

しかしながら、福岡を離れて1年半以上が経った今もたびたび思い出すのは、愛すべき居酒屋群ではなく、とあるバーだ。
それは福岡市の中心を貫く昭和通りから一筋裏へ入った雑居ビルの2階にあり、いわゆる「一見さん」は思わず入店を躊躇ってしまうような雰囲気を醸している(実際は一見さんウェルカムである)。
人見知りなわたしをそこへ導いてくれたのは、たまたま同時期に福岡に転勤になっていた下戸の友人だった。
あの日のことは忘れもしない、福岡に住まいを移してちょうど1年が過ぎようとしていた頃だ。
乾杯の1杯目さえ満足に飲め干せない彼が「いい店だから紹介したい」と誘ってくれたのだから、余程いい店であることは間違いなかったが、まさか週2ペースで通い詰めることになろうとは。

薄暗い店内には、いつも賑やかなカウンター席が9席と、申し訳程度に用意されたテーブル席が2席。
カウンターの奥には100種ほどの酒がずらりと並んでいるが、(酒に詳しい知人曰く)特筆するような珍しいものはなく、バーとしては普通だったのかもしれない。
わたしや下戸の友人をはじめとする大勢の常連客を魅了していたのは、ほかでもない、マスターだった。

彼は客の顔と名前と人柄を覚える達人だった。
何ヶ月も前に一度来たきりだった人がふらりと再訪したときも、「あれ、お客さん2回目ですよね?」と声をかけ、客側が驚かされる。
そんなシーンを見かけたのは片手では収まらないだろう。
マスターはカウンター越しにしたどんな些細な会話でも事細かに覚えていて、「そんなことまで話したっけ?」と面食らうことが多々あった。
こちらが酒に酔っていたことを鑑みても彼の記憶量は尋常でないので、客ひとりに対しノートの見開き2ページ分(常連客は倍以上)が用意されていて、客の途切れる合間合間に名前や容姿の特徴、会話の内容などをメモしているのではないかと勘繰っている(それらをいつどのように復習しているのか、さらに謎は深まる)。

そして彼は絵に描いたようなお人好しだった。
福岡という土地柄、常連客には転勤を理由に移住してきた単身者が多く、わたしもそのうちのひとりだ。
彼は飲みにやってきたそういう類の人たち同士を絶妙な采配で引き合わせ、「この子も転勤で関東から来てるんですよ!」と会話と乾杯のきっかけを提供してくれる。
留学先で日本人が固まってしまうように、似たような境遇の者同士は打ち解けるのに容易い。
互いの名前も職業も曖昧なまま(仲介人であるマスターはすべてを把握しているのに)、たまたま居合わせては飲み語らう間柄として仲を深めていくのだった。

こうして見事にマスターの虜となったわたしは、残業終わりに、なんとなく誰かと飲みたい夜に、飲み会の2軒目・3軒目に、幾度となく通った。
小汚い居酒屋で安酒を飲み散らかすのが好きなわたしにとって、間接照明の仄かな灯りのもとでちびちび酒を飲むこと自体がまったく新しい経験。
何度足を踏み入れても、その瞬間はドキドキした。
雑居ビルのやたらと急で狭い階段を駆け上がるとともに、大人の階段を上ってしまった、そんな自分に甘美な背徳感を覚えていたのかもしれない。

常連客として貫禄が出てきたであろう頃から、バーとマスターとのご縁をくれた友人のように、たくさんの大切な人を招待した。
会社の上司、同僚、転勤仲間の友人、わたしに会いに来福してくれた友人たち…。
そうしてそのうちの何人かはしれっと常連客になり、わたしが福岡を離れることになったときには深夜遅くまで送別会が開かれた。
わたしが通えなくなった後も、後継者とその後継者たちが代わりに足を運んでくれているのは純粋にうれしいことだ。

バーだというのに、常連だったというのに、自分がいつも何を飲んでいたのか思い出せない。
結局、普段はビールと焼酎しか飲まないわたしには、バーというハイソな空間で何を頼めばいいのか最後までわからなかったのだ。
そんなわたしに、マスターはにこにこしながら「甘いのがいい?さっぱりなのがいい?」と尋ねてくれた。
だいたいいつも、「さっぱりの、強めで」と答えていた気がする。

早くまた、カウンター越しに微笑むマスターと、陽気な常連さんたちと語らえる日がきますように。
通えなかった時間を一晩で取り戻せるよう、よりさっぱりでより強めな酒とともに。

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