どのくらい作り(れ)ますか考。その2。【金曜日記事】

                 内野義悠 

 前回のこのコーナーでは、最近よく考えることの一つである『作句量』をテーマに書いてきました。

 その中で近頃の自分の寡作化やその要因についても考察してみたところ、「(意識的無意識的に)自句に厳しくなった」ということが言えそうだ、というところまでが前回のお話でした。

今回はそのつづきです。

さて、少しずつ俳句のルールのようなものを知り、先人や句友の優れた作品にたくさん触れていくうちに、ぼくは初学の頃ほど簡単には自句を愛せなくなってしまった訳なのですが、この状況は未だに続いています。むしろその傾向はますます顕著になっているような気さえします。何かの場で結果が出せたり、自句が評価されてもなかなか自信には繋がりません。吾がことながら、ほんとに厄介な性格です…。

とはいえ句会は毎月開催されるわけですし、結社誌への投句、原稿や賞などの締切も絶え間なく、そして容赦なくやってきます。

それら全てを完璧に納得できた句で揃えることは不可能なので、悔しいですがどこかで妥協する必要が出てきますよね。

そしてここで大切なのは、この「妥協の仕方」と「妥協後の句の処置」を如何にするか、ということなのではと思うのです。

作句量というテーマから脱線してしまうので、これについてはまた別の機会に書ければと思いますが、なし崩し的妥協と将来性を孕ませた妥協、一時妥協句の放置・回収の方法など「俳句的妥協考」も最近気になっていることの一つです。

さて、話を戻すと、全体の傾向として自分が寡作化しているのは疑いようのない事実です。そしてそのような状況でも俳人としての前進を図るのであれば、毎月迫ってくる目標や締切に向き合っていくしかありません。

そして、その中に在っても何かをきっかけとして「俳句めちゃくちゃ楽しい!無限に作れる!!」状態になり、凄まじく量産できる時期もありますし、「作れない」というより、もはや今は俳句を少し離れたいという時期もあります。ひと言で「寡作化」とはいっても、作句数としてはやはり時期によってまだらなのです。

個人差はあれど、これはどんな俳人でも共通して訪れるバイオリズムなのではないでしょうか。(というか、そうであると信じたいです…。でもぼくの周りの句友さんたちはみんな常時量産しているように見える…。)

このバイオリズムをそれぞれの時期の目標に合わせて意識的にコントロールできるようになれば理想なのでしょうが、それはなかなか難しい。結局は、個々人がその時々の状況に合わせて今できる範囲で詠む、ということに尽きるのかも知れません。すごく当たり前のことで恐縮ですが、最も大切なことは俳句を続けてゆくことだと思うので。

そして「詠める/詠めない」を大きなスパンで交互に繰り返していくうちに、じわじわとでも残したい句は必ず貯まっていきます。

作句ペースが落ちるとどうしても不調感が脳裏にこびりつきがちですが、そんな時でも全句ボツ、一句もまともな句が残らないということはあり得ないと思います。一句ずつ一歩ずつ、牛歩でも前には進めているはずです。

前述のように「自句に対する要求の厳しさ」が寡作化の一因としてあると思うので、残る句の絶対数は減るでしょうが、だからこそ生き残った句には自分にとってより一層の価値や意味が生まれます。

そして拭えない不調感やいつまでたっても持てない自信は、そのようにして苦しみながら自分の中のフィルターをくぐり抜けて来た作品を後から振り返ったときに、ようやく少しずつ解消されるものなのではないでしょうか。あぁ、自分の俳句はそんなに悪くないじゃないか、結構がんばってたんじゃないか、と。

というよりも、そのようにしてしか本気で作った自句を心底から愛せるようになる方法はないような気さえしています。(ぼくがここで言う「愛す」というのは、それぞれの句に対する「思い入れ」を持つこととはまた違った話です。)

敢えて大仰な言葉を使えば、「自分の俳句を、引いては俳人としての自分を赦す」みたいなことなのかも知れません。

でも、もちろんこれは個人的な意識の話です。

もっと気楽にどんどん作って、俳句を楽しめればそれが何よりだとも思います。

結局、いちばん大事なことは何句作ったかという数字ではなく、その時々に俳句と自分に向き合った気持ちや記憶の密度なのではないでしょうか。
                     了

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