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第5章

5-1:Innocent

 眼前には険しい山々の峰が連なり、雲海の彼方へと果てしなく伸びる。
 何の気なしに振り返ると、今度は、広大な大海原が視界いっぱいに広がっていた。
 足元は巨大な岩、切り立った崖の一角。海と山の狭間に立つ俺の頬を力強い風が吹き抜けて、深緑の匂いと潮の香りが一緒くたになって鼻腔へと流れ込んできた。

 この辺りの景色は、どこに行ってもこんな感じだ。うんざりする。

 絶景なんて言えば聞こえはいいけれど、つまりは山と海ばかりでロクな平地がないってことだ。穀物を育てられる肥沃な土地は限られてるし、獣を狩るにも一苦労。魚を獲るのはもっと大変。舟を作って水辺に住めば毎年のようにやってくる台風の被害をまともに引っ被るからな。仮にそれらの困難を乗り越えたとしても、一定の周期で突然起きる大地震だけはどうにもならない。山は火を噴き、海の水は溢れ返り、やっと栄えてきたと思った小さな集落をあっという間に無へと帰してしまう。
 人間が住むにはとことん向いてない無残な土地。広大無辺な大陸に育まれたヨソの大文明圏とは比べものにならないド田舎だ。わざわざ名前をつけるにも値しない、海の上にぽつんと浮かぶゴミのような島の群れ。

 こんな場所でいくら神様扱いされたって、何も面白くねェや。

 俺は溜息をひとつ、大の字になってその場に寝転がる。天に向けられた目には、端から端まで紺碧の空しか映っていない。

 俺は、あの空からやってきた。
 と、いうことになってる。

 実際のところはよくわからん。わかっているのは、目に見えるこの世界とは違うどこかにいる知性を持った何者か――ここでは便宜上、アマツカミ、天神と呼んでおく――がいて、そいつが長年かけてあれこれと手を尽くした結果、めでたく俺が誕生したということだけ。産みの親とか育ての親に関する記憶が全くないんで、天神から与えられた情報を鵜呑みにするしかないんだ。まァ俺自身、自分の原点や系譜なんぞにさほど興味はないんだけどさ。

 物心ついた時には、俺は豪族の首領として大勢の人間を率いていた。

 長寿と健康の神通力を脇に退けても、俺はそこらのボンクラよりはるかに頭が良くて腕っ節も強い。指導者的な立場に収まるのは自然な流れだ。そして周辺の部族や領地に戦を仕掛けて連戦連勝、奪った領土は一ヶ月かけて歩き続けても端から端まで移動しきれないほど広くなった。

 でも、こんなところで満足はしない。
 俺の領土はまだまだ拡大を続けていく。

 何でそんなことするのかって言えば、ぶっちゃけ、戦ってのは面白いからな。男って生き物は大抵そうだよ。誰かと勝負して何かを掴み取ってナンボだろって、そういう衝動を本能レベルで持ってるもんだ。俺はそれを最大限に活かしてるだけ。

 でもそれ以上に、天神が俺の勝利を望んでいるってのが大きいかな。

 この列島にいる無知蒙昧な原始人どもを束ねて組織化し、洞窟から連れ出し、家を建てさせ、穀物を育てて飢饉に備え蓄えることを教えていく。国家の原型を作るんだ。
 ただ、そうして作った国そのものには何の価値もない。さっきも言った通り、この土地は人が住み暮らすのに絶望的なほど向いてないんだ。俺がどんなに頑張っても、海の彼方にある大帝国に比肩しうる都市なんか作れやしない。歴史を左右するような知恵と勇気を持つ民族が生まれ育つはずがない。

 でも、それでも、やらなきゃいけない。

 天神の目指すところは、人類全体の文明水準を底上げすること。その意を汲む俺が何もしなけりゃ、この土地に住み暮らす原始人どもは永遠に原始人のままだ。自然災害に右往左往し、食うものも満足に確保できやしない。

 だから俺は、誇りをもって戦い続ける。
 全ては遠い未来のため、人類全体がレベルアップする礎を築くために――。

レベルアップ?
変な響きの言葉だな、どんな意味だっけ?
まあいいや。気にしない。どっかで誰かが呼んでるみたいだし。

 俺は身体を起こして、大岩の下へと目をやる。朝早く使いに出した斥候の一人が戻ってきてたのか。貫頭衣に獣の毛皮、青銅の穂先をつけた槍。なんともみすぼらしい格好だけど、この頃は相当イケてる部類の戦闘服だったんだ。その証拠に、俺も似たような格好をしてるからな。
 ただ俺は、上等な鉄の剣を腰に帯びている。この島じゃロクな鉄が採れないんで、天神に頼んで大陸の方から運んでもらったんだ。圧倒的な切れ味と強靱さを兼ね備えていて、上手く使えば武器や盾ごと敵を斬り捨てることができる。結構なお気に入り。
 俺は岩を飛び降り、斥候と向き合う。さあ報告してもらおうか、この俺が次に攻め滅ぼそうと狙いを定めた集落の様子はどんな感じだった? 川縁の結構豊かな土地だって聞いてるから、自衛のために兵を養うくらいのことはしてるはずなんだが。

 へ? おいちょっと待て斥候。もう一回落ち着いて話せ。

 えーとつまり――その集落は何年か前に疫病が流行って全滅しかけて、今は若い男がほとんど残ってなくて、取りまとめ役も白髪頭の年寄りだけって、そういうことか? 戦う気力も能力もない? 不戦勝も同然? 早くも命乞いを始めてる? 

 張り合いがねェな。肩すかしもいいとこだ。

 あ、そうそう、ちなみにこの斥候、俺が理解した通りの言葉遣いをしてる訳じゃないからな。いわゆる大和詞の原型になった方言のひとつで、それを今風に翻訳すれば多分こんな感じ、ってだけ。もうちょっと日本語っぽくなるのはもっと未来のこと――。

ヤマトコトバ? ニホンゴ?
変な響きの言葉だな。どんな意味だっけ?
まあいいや。気にしない。まだ斥候と話してる途中だし。

 斥候の話はすでに占領後の段取りや降伏した連中の処遇に移っていたんだが、何だか様子がおかしい。途中から奥歯に物が挟まったような喋り方になって、妙にゲスい顔をする。
 イラッと来た俺は語気を強め、言いたいことがあるならとっとと言え、と促す。
 そうしたら斥候のヤツ、言葉で説明するよりも直に見て頂いた方が早い、うちの兵が陣を張っている山の中腹までご足労願います、とかぬかしやがる。

 しょうがないんで、言う通りにしてみた。

 そしたら、そこには、数十人の若い女たちが平伏していた。しかもその格好。ほとんど裸みたいなもんだよ。薄衣一枚ひっかけてあるだけ。

 ああ、なるほど。欲しいものは何でも差し出します、さしあたって集落の若い女を献上して恭順の意を示しますので、どうか命だけは、と。そういうことね。

 要らねェよ、女なんか。一人だけでも鬱陶しいのに。

 いちいち裁可を下すのも面倒で、俺は部下に命じて後の処理を丸投げする。



 と、突然、周囲の景色が変わった。



 夜。頭上には蒼く輝く丸い月。
 すぐ側には大陸風の立派な屋敷。樹齢千年を超える巨木を使って建てられたそれは、下々の者が立ち入ることの許されない文字通りの聖域だ。ここに御在すは天より降りたもう神のみなり。いやま、俺にとっては単なる住処の一つだけど。

 その屋敷の中から、声がする。
 戸に掛けられた葦簀越しに、女が話しかけてくる。

 聞き取りにくい古い言葉であれやこれやとゴチャゴチャぬかしてるが、要は俺への説教だ。鬱陶しいのでざっくり簡単にまとめると――どうして戦うつもりのない相手を蹂躙するような真似をしたのですか。献上された女の中には祈女もいたと聞いております。祈女は集落の命も同然、雨乞いのひとつも出来なくなれば豊かな土地もあっという間に荒れ果てると、皆はそう信じているのです。それを差し出した長老の心情を思えば、我が身を剣で斬られるよりも辛かったはず――ってな感じ。

 実にウザい。ああウザい。
 わかったわかった、次から気をつけりゃいいんだろ?

 それで適当に流して終わりにするつもりだったんだが、自分の言葉が全く届いていないと感じたらしい女は戸惑い、焦り、なおも話を続けようとした。

 苛立たしさが限界を超えた。

 俺は手にしていたガラスの杯を、って、いつから酒なんか飲んでたんだっけ。まあいっか、とにかくそいつを屋敷の方に投げつける。杯は派手な音を立てて砕け散り、偉そうに意見していた女が怯えて悲鳴を上げた。
 でも、俺の怒りは治まらない。激昂したまま捲し立てる――そもそも下衆どもがまじないを信じ始めたのはお前のせいだろうが。新月の夜に天神から教わった天災の情報を神通力だと言い換え、無知蒙昧な愚民からの信仰を集めて統治に利用する卑劣な女。昨今はそんなお前の詐欺の手口だけを模倣する輩が増えてきた。つまりあの集落の指導者っていうジジィは、祈れば天に届くと本気で思い込んでる底なしのバカ。その心情を、この俺が、わざわざ汲んでやる必要がどこにある――と、そんな風に。

 女は、何も言い返してこない。

 本当に、この女には呆れるばかり。毎度毎度、偉そうに意見しては怒鳴られて、こうやって黙り込むんだ。いい加減に学習したらどうなんだよ、お前が考えつく程度のことは俺もとっくに考えてるし、全部わかった上で判断を下してるんだっつーの。
 いいか、俺のやり方に二度と文句をつけるな。舌先三寸でカタがつくお前と違って、こっちはいつも命懸けなんだぞ。お互い同じように神様扱いされていても、どちらの方が格上かは言うまでもない。天神も俺を信頼して全権を任せてくれている。俺は何も間違ってない。俺は正しい。だからお前は黙って俺に従え――。

って、おいおい、何だよそりゃ。
さすがにちょっと、俺、傲慢すぎないか?

 理屈抜きの嫌悪感が急に湧いてきた。こんなの俺じゃない、俺はこんなこと絶対しない。だって俺、紳士だもん。女性にはもっと優しく接してきたはずですよ?
 だけど俺の身体は、俺の心を無視して勝手に動く。土足のままズカズカと屋敷に上がり、腰に帯びた剣で葦簀を斬り飛ばして、俺に意見してきた女の寝室へ入る。

 えっ。

 お、おい、ちょい待て。

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 この女の人、結女か? 結女だよな?

 外見年齢は二十代の半ばくらい。大陸で織られた上質な絹の着物に、手の込んだ金銀の細工物をたくさん身に着けてる。ここまで着飾ったら下品でみっともなくなりそうなのに、結女本人が持ってるオーラみたいなものが全然負けてない。こんな女の人に予知だの予言だのされた日にゃあ誰だって女神様だと思うよな、しょうがねえ。
 でも、俺、さっきは何で気付かなかったんだ? 結女の声を聞いただけですぐにピンと来ても不思議じゃないのに。喋り方のせい? 雰囲気?
 そう、この結女は、俺の知る結女と全然違っていた。いかにも女性らしく、たおやかで、優雅で、儚げで――って、あっこら、勝手に動くな俺の身体! ちょっ、待て、待て待て待て、何してんだ! 力尽くで結女を押し倒そうとするな!
 でも、いくら頑張ってみても、俺の身体は勝手に動き続ける。俺の腕に組み敷かれた結女は半ば引き裂くように衣を脱がされ、辛そうで、苦しそうで、悲しそうで。

 なのに、それでもまだ、結女は微笑む。
 成すがままに、俺を受け入れようとする。
 それが自分の務めだと、夫に添う妻の役目だと、そう言いたげに。

 けれど、そんな顔を見れば見るほど、逆に俺は苛立ってきて――いやいやいや俺、そこは苛立つところじゃねェよ――何なんだこいつは、どうせ最後は俺に従うくせに、いつも偉そうに意見しやがって――いやいやいや俺、そういう問題じゃねェだろ――言う通りにすれば俺の機嫌が取れると思ってるなら、最初から黙って従いやがれ――いやいやいや俺、ちょっと待て、何でもいいからちょっと待て!!

 ああっ畜生、そろそろ目を覚ませよ俺! どうせこれ夢なんだろ?! 弥生時代か縄文時代か下手すりゃそれよりもっと昔か知らねェけどさ! とにかく昔の俺の記憶が蘇ってるだけなんだろ?! 何なんだよ今頃になって! こんな夢なんか見たくねェよ!

 昔の俺がどんなヤツだったかなんて、もう、どうでもいいんだ!

 だって、俺は、俺は、俺はっ――!!


5-2:さっぱりわかんねェ

 はるか古代の景色が、いっぺんに消え失せる。
 そして眼前に現れたのは、橙色と緑色が交差して冷たい黒へと変化していく怪しげなグラデーション。それが何を意味してるのかわからなくて一瞬混乱したんだけど、橙色は常夜灯の光、緑色はエアコンの稼働状態を示すLEDで、その二つが夜闇の中で交差しているだけだった。つまり俺は、ベッドの上に寝そべって部屋の天井を見てるだけ。

 ここは、現代だ。現実だ。

 じゃあ、さっきまでのは、やっぱり、夢、なのか。

 まあ、そうだよな。そりゃそうだ。
 ホッとして溜息をつき、半ば無意識に寝返りを打とうとして。

「おき……つぐ、くん……?」

 耳元で、優しく甘い囁き声がした。

「なんか、うなされてた……けど……」
「あ……ごめん、起こしちまったのか」

 肩を寄せ合い、一緒に寝ていたコノに、謝って。
 俺は狭いシングルベッドの上でのそりと上体を起こし、カジュアルシャツの袖口で目元を擦る。そういや俺、普段着のまま寝てたんだっけ。ジーンズも穿いたままだ。

「変な夢を見てただけだよ。気にすんな」

 俺が言ってる最中に、コノが「へぷちっ」と可愛らしいくしゃみをする。

「寒いか?」
「ん……ちょっとだけ」

 コノが肩を寄せて自分の腕を手でさする。俺と同じく普段着のままなんだけど、腰から下はミニスカートと生足だし、上半身のパーカーとカットソーも胸元を開いたデザインだからな。エアコンの効いた部屋で寝るにはちょっと薄手だったのかも。
 俺はベッドの上を探る。壁際に押しやられていた夏用の薄い掛け布団を広げて、コノの身体の上にかけてやった。

 その際に、ちょっと気になるものを発見。
 コノの胸元を、少しの間、じっと見つめる。

「……もう。そんなに見ないで」

 照れ笑いを浮かべたコノが、パーカーの襟を閉じようとする。おっぱいの北半球がこんもり盛り上がって溢れ出しそうになってたからだと思うけど、すまん、俺が今見てたのはそっちじゃないんだ。

「これ、傷跡、残るのかな」

 コノの方へ指を伸ばし、鎖骨の側、抜糸したばかりの傷跡に触れる。
 傷そのものは確かに小さいけど、周辺の皮膚が醜く引き攣っていて、けっこう目立つんだよな。コノの肌が白くて綺麗な分、余計に。

「お医者様は、だんだん消えてくって、言ってたけど」
「そっか、そりゃ良かった」
「今年の夏は、どうせ受験の準備とかで潰れるだろうし……。大学入ったら、海とか、一緒に……行こうね。その頃には、きっと……何も残ってないよ」
「ああ、そうだな。楽しみにしてる」

 微笑み合って。
 そのまま寝直そうかと、最初は思ってたんだけど。

 俺はベッドを降り、立ち上がって、部屋を出る方へと歩き出す。

「? どこ、いくの……?」
「俺の分のタオルケットか何か探してくるよ。お前は布団使っていいから」
「あ……なんだ、そういうことか……」

 コノは安堵の微笑みを浮かべて、布団にくるまり直す。

「……沖継くんの匂いがする」
「何言ってんだ、お前」
「えへへ……」

 何とも言えない、無邪気な笑顔だった。
 どうリアクションすればいいのかわからなくて、俺は黙って部屋を出る。
 階段を降りて、リビングに入り、電気をつけて。

「日付、まだ変わってないのか……」

 壁掛け時計の時刻は、十一時二十八分を指していた。
 ソファに腰を下ろし、背もたれに身体を預けると、思わず深い溜息を吐いていた。

「……何で、あんな夢、見たんだろ」

 独り言が漏れる。

 ほんの数時間前。俺は泣きじゃくるコノを抱き締め、なだめ続けた。今まで知らず傷つけてきた償いのつもりで。コノの気持ちをちゃんと受け止めようとして。
 それはいつしか、俺たちの間にあった曖昧な関係を確かな絆に変えたいという欲求に変わっていった。言葉なんて全く交わさなかったけど、コノの気持ちなんか確かめるまでもなかった。男と女の間で心が通じる瞬間ってそういうもんだよな、俺はよく知ってる。

 そうして、見つめ合って、キスを交わして。

 でも、それ以上のことは、出来なかった。
 男としての身体が、コノと繋がれるようにならなかった。

 だから俺たちは、馬鹿みたいにただ抱き合って、いつまでもいつまでもただ抱き合って、抱き合い続けて、そのうちにコノが眠くなってきて――まあ、しょうがないよな。コノにとっては何もかも初めてなんだから。俺に身体を預けて、全てを許して、そういう雰囲気を作って、そこでもう精一杯だったろうし。
 そのうちに深夜になって、コノの親御さんも心配したんだろうな。コノのスマホに電話がかかってきた。コノはすぐに応答せず、無言で俺の顔を見た。どうすればいいのかわからなかったんだろう。だから俺は言った。今夜は泊まっていけよって。コノの気持ちはとっくに決まってるんだから、あとは男の俺が導いてやるだけだ。もう少し時間があれば、もうちょっとだけコノと一緒にいれば、自然と何とかなる。そう思ったんだ。

 で、コノは、その俺の気持ちを汲んでくれて。
 鳴り続けていた電話を受け、外泊の許可をもらったんだけど。

『うん、結女ちゃんの部屋に、泊めてもらうから……』

 まあ、そうなるよな。結女が病院に押しかけた時、コノの親御さんにも会ったらしいもんな。俺と二人きりだなんて言う訳にはいかないから、女友達と一緒だよってウソをついて安心させるしかない。

 で、簡単に許可が出て、コノは俺の部屋で一緒に寝ることになって。
 でも結局、一線を越えることはなくて。

『……しょうがないよ』

 焦ってる俺の気持ちを見透かしたのか、コノが言った。そんなの無理だよ、仕方ないよ、すぐに忘れて私の方に気持ちを切り替えるなんてできっこないよ。だから待ってる、これまでもずっと待ってたんだもん、ちょっと延びても一緒だよ。でも、今夜は一緒に居たい。沖継くんと一緒に寝て、沖継くんと一緒に朝を迎えるの。それだけでいいよ、すごく特別な想い出だよ。だから、ね、そんな顔しないで、お願い。
 コノにそこまで言わせるなんて、女の子にそこまで気遣わせるなんて、もう、それだけでも情けないのに。男としちゃ失格もいいとこなのに。
 ただ寝て、朝を迎えることすら出来なかった。
 変な夢を見て、目が覚めて、俺は今、こんな場所にいる。

「……何でだよ」

 溜息混じりに自問する。

「何やってんだよ、俺は……」

 コノを守ってやる、もう迷わせない、泣かせないって決めたのに。
 頭の中は、結女、結女、結女、結女、結女、結女、結女。
 結女のことで一杯だ。

「……最低だ」

 呟いた俺の視界の片隅に、いつだったかに落書きした地球儀が映る。日本列島のある部分がマーカーで黒く塗り潰されたままだ。

 どんなに結女のことを引きずっても、憶えていても、もう意味がない。今にして思えば、俺と結女の関係はあの時に終わってたんだから。昔の俺と今の俺とは違う、完全に別人だって、はっきりとわかっちまったんだから。
 そして結女は、昔の俺に全ての罪をなすりつけて生き延びることを良しとしなかった。俺がいくらあいつを私怨から解き放っても、長年連れ添った夫への想いは消しようがない。ヤツらと戦い続けた夫の人生を否定できるはずがない。

 だから結局、結女は一人で、全ての決着をつけに行っちまった。

 もし仮に、俺がそのことにもっと早く気付いていたとしても、今から結女を助けに行ったとしても、結女は絶対に喜んだりしない。助けに来たのは今の俺であって、昔の俺じゃない。ノッコのところに戻れ、とかって怒鳴られるのがオチだ。
 あいつは今、死んだ亭主に操を立てて、それを命懸けで貫こうとしてるだけ。

「……何で、そこまで執着するんだよ、お前」

 ほとんど無意識に、呟く。

「昔の俺なんて、とんでもねェ最低男じゃんか……」

 さっき見た夢を、思い出して。

 つーか、あれってホントに昔の記憶だったのか? 頭がクリアになった今ならいろいろ気がつくんだけど、夢の中では俺と結女のキャラが完全に崩壊してたもんな。自分勝手でいけすかない俺と、その俺に怯えきって抵抗もせずになすがままの結女。二人の間には夫婦愛どころかまともな信頼関係すらなかった。
 昔の俺がああも傍若無人な奴だとしたら、いずれ調子に乗って天神に――ボスに反旗を翻すだろうってのは、まあ、想像できる範囲内だけどさ、そんな俺に結女が喜んでついていくんだろうか。とてもそうは思えないんだけど。

 じゃあ、ホントにただの夢か? 昔の記憶とかじゃなくて?

 いや、そういうことにしとこう。
 どうせ思い込むのなら、結女の存在そのものが、ただの夢だったんだってことにしよう。あれは脳内彼女。女神様。元々そんなものは存在しなかったんだ。それでいいんだ。

 俺の目の前に、大切な女の子がいるんだから。
 コノのことだけ、見ててやらなきゃ。
 そう決めたんだ。俺は。

「……?」

 ソファから立ち上がった俺の手に、何かがくっついてる。

 髪の毛だった。
 艶やかで真っ黒の長い髪――ってこれ結女のじゃねェかよ!

 ああもう! 何で現実にあいつが居た証拠がこんなタイミングで都合良く俺の掌にくっついてくんだよ! これは何かのギャグなのか?! 勘弁してくれよ全くもう!

「ダメだ、こんなんじゃ絶対、どうやったって忘れらんねェって……」

 髪の毛を手の中に握り締めたまま、俺はその場にうずくまる。

 いっそ結女と出会わなきゃ、こんなに悩むこともなかったのに。十八歳の誕生日、帝都ホテルの大広間。あれさえなければ、俺は今頃――。

「……? あれ……」

 顔を上げる。

 目の前の壁に、父さんと母さんが写った家族写真が飾られている。

 俺と結女の出会いをセッティングしたのは、間違いなくこの二人のはず。
 んで、家族写真のすぐ近くには、ファックス兼用の固定電話の親機がある。

「…………」

 電話機の側まで歩み寄り、留守番電話の再生ボタンを押す。

『録音、一件です。五月二十一日、午後十時四十八分』

 やっぱりだ、一ヶ月前の誕生日に録音されたデータがまだ残ってた。

『沖継がこれを聞く頃には、もう朝なのかしら。おはよう、新婚初夜は楽しかった?』
『こっちにも自衛隊が助けに来てくれてな、さっき、ようやく落ち着いた』

 改めて聞くと、ホントにこの二人、アホみたいに楽しそうな声でさ。
 ホントに、底抜けに明るくて、楽しそうで。

「……おかしくないか、それ」

 何でだよ。何でだよ。何でだよ。
 いくら考えてもさっぱりわかんねェ。

 父さんと母さんは、どうして、俺を結女と引き合わせることにしたんだ?

 俺は未だに昔のことをちゃんと思い出していないし、一ヶ月前なんて今以上に知らないことだらけだった。昔の俺と今の俺は別人に等しいんだってことは、誰よりも父さんと母さんが一番よく知っていたはずだ。
 その事実をそのまま結女に伝えれば、俺のことを諦めたかもしれない。そうすれば父さんや母さんは死なずに済んで、十八年間も続いてきた幸せな家族の時間がそのまま続き、息子の俺があれこれ思い悩むこともなかった。

 なのに、父さんと母さんはそうしなかった。
 自分たちの命を投げ捨て、実の息子同然に育ててきた俺を終わりなき修羅の世界へ突き落とす、そういう選択をしたんだ。

 そういや結女は、帝都ホテルの結婚式場で俺と出会った頃、俺が昔の記憶をほぼ取り返してると思い込んでたっけ。何もかも知ってる前提で話を端折りまくってたもんな。
 つまり、父さんと母さんは、魔人を総括する敵のボスだけじゃなく、義母でもある大恩人の結女すら欺いていたことになる。

 そんな馬鹿な話があるのか?

 しょせん仮初めの親子、沖継は本当の息子じゃない、妻である結女の元へ俺を返すのは当たり前のこと、結果的に俺がどんなに悩もうが苦しもうが関係ない。そういう冷めた態度でいたから割り切れた?

 そんなはずはない。
 父さんと母さんは、俺のことを本当に大切にしてくれていた。
 二人が魔人だったせいで――呪いの指輪のせいで、肝心な時には嘘をつかなきゃいけなかった。それはもう間違いない。でも、俺がその嘘を長い間疑わずに信じていたのは、両親は俺の味方だと半ば無条件に信じていたからだ。第六感と直結した特別な能力が魔人の存在を訴えてきても、そんなもの気のせいだと無視していたんだ。俺たち家族の間には、親子の情とか、愛とか、そんなものが確かにあったから。

 なのに、父さんと母さんは、笑顔で俺を結女と引き合わせたってのか?
 あの二人は、一体、何を考えてたんだ?

「……沖継くん?」

 リビングのドアが少しだけ開いて、その隙間からコノが顔を出す。

「なかなか戻ってこないから、どうしたのかな、って……」
「あ、いや、何でもない……よ。タオルケット、見つからなくてさ」
「じゃあ、一緒に。あのお布団、二人で使お?」
「あ……ああ、そうだな……。そう、しようか」
「うん」

 疑問を引きずりつつ、リビングを出る。
 コノが先に階段を上がり始めて、俺もその後に続く。

 いやもう、目の毒だよこの景色。健康的な肉付きのピチピチした脚と、ミニスカートでふんわり包まれた丸いお尻。それが俺の鼻先すぐのところでゆらゆら揺れてんの。しかも、俺、これを好き勝手に弄り回していいんだぜ。このまま黙って部屋に戻ればそれ以上の行為も望むままですよ。でも、でも、でもさ、でもでもでもでもでもでもでも。

 ダメだ。鼻の下なんか伸ばす気にもなれねェ。

「あ、あれ? 沖継くん? どこ行くの?」

 俺は階段の途中で踵を返し、半ば飛び降りるようにして一階に戻る。
 向かったのは父さんの書斎。俺の記憶が確かなら父さんは日記をつけてたはず――いや、毎年正月にそう思い立って日記帳を買ってはくるけど、毎年のように途中で飽きて投げ出してたんだっけ。じゃあ仕事の手帳とかはどうだ? 帝都ホテルの大ホールをブライダルプランで予約してたんだから、そのための証拠とか、パソコンのメールとか、何かあるだろ、何でもいいんだ、何か、何か、何か。

「な……に、してる……の? 沖継くん……」
「探してるんだ」
「……何を?」

 コノの疑問に答えようと口を開いた、その瞬間だった。
 発見。
 机の引き出しから出てきた。遺書、とそのものズバリの言葉が記された封筒。
 でも、それは隅っこの方にオマケみたいに小さく書いてあるだけ。メインタイトル同然の扱いでデカデカと書いてある文字は、次の通り。

《 こんなこともあろうかと! 》

「えっと、沖継くん。何なの、それ」
「……魔法の言葉。男なら一度は言ってみたいものなの。理解できなきゃスルーしろ」

 父さんらしいやと苦笑しつつ、封筒の裏も確かめてみた。この遺書の作成年月日らしい数字と、愛息の沖継以外は開封を固く禁ずるという但し書き。俺は机の上にあったペーパーナイフを手にして躊躇うこと無く封を切り、便箋にして四、五枚分の遺書を取り出す。
 あ、いや、封筒の中身は、遺書だけじゃなかった。

「預金通帳? ……俺の名義?」

 残高はなんと数千万単位。ぎょっとするような大金だ。
 でも、こんなものを用意した意味は、遺書を少し読めばすぐ理解できた。

沖継。お前が今、もしも独りだったなら、これを使え。
職を得て独り立ちするまで不自由のない生活が続けられるはずだ。

 ああ、やっぱり。父さんと母さんはわかってたんだ。今の俺は、昔の俺と完全にイコールじゃない。失った記憶を全て取り戻す可能性は低いだろう、って。
 その認識は、俺が結女と決別して普通の高校生に戻ることになるかもしれない、という未来予測に直結する。だから現金化できる資産を全て処分して、この通帳を用意したんだ。自分たちがこの世を去った後も、大事な一人息子が路頭に迷わないように。
 でも、遺書の続きには、こうも書いてある。

ま、それはさすがに心配しすぎだろうがな。
落ち着いた頃、父さんと母さんの葬式を挙げる費用にしてくれ。
目一杯派手に頼むぞ!

 つまり父さんは、俺が昔の記憶を取り戻さなかったとしても、結女とうまくやっていけると信じてたらしい。文脈からしてもそうとしか思えない。

父さんと母さんは、長い間、ずっと迷ってきた。
お前を結女様の元へ返すべきか、私たちの息子として育て続けるべきか。

 遺書が最後の一枚になって、いよいよ話が核心に迫ってきた。
 俺が知りたいのは、まさにここからだ。

だが、もはや迷いは消え失せた。心は晴れ晴れだ。
沖継、お前の夢を叶えろ! いい父親になれ! グッドラック!

「……ちょ、えっ? それで終わり?」

 迷いは消えたとか心晴れ晴れとかそんなのどうでもいいんだよ父さん! 俺が知りたいのは父さんがそういう心情に至った理由! 決断のきっかけなんだよ!!
 釈然としなくて、もう一度、最初から遺書を読んでみる。せめて最後が「正義の味方になれ」ならわからなくもないんだけど、何で「いい父親になれ」なのさ? 父親になる予定は今んとこ全くないよ? ついさっきも初体験に失敗したばっかだぞ?

 いやいや待て待て、落ち着けよ俺。

 この遺書は、今日この時間に書き上げられた訳じゃない。封筒の数字によれば今年の五月十六日、一ヶ月以上前には存在してたんだから。

 しかし、何でこの日なんだ?

 一ヶ月前、これを書いたきっかけが何かあったんだろうか。数字の上では誕生日の三日前になるんだけど、別に変わったことはなかったはずだ。と、思う、んだけど。

「……あ」

 そうだ。三者面談。

 生徒と、保護者と、担任教師。その三者が同席して卒業後の進路を相談するアレ。学校で資料やチェックシートが配られて、六月に入ったら順次やっていくから親の都合を聞いてこいって言われたんだよ。それが確か、誕生日の三日くらい前だったはず。
 んで、家族三人でメシ食ってる最中にその話を切り出したら、父さんが「先生と相談する前に、源家のスタンスは決めておかなきゃいかんな」とか言い出したんだ。母さんも俺の通信簿や模試のデータを持ち出して「沖継の今の学力はこのくらいで、進学するならこのあたりの大学が狙えるのかしらね、推薦状とか書いてもらいましょうか。あっ、もしかして就職するつもり? それともプロスポーツ選手を目指してみる?」と話を広げて、うちじゃ結構珍しいシリアスな雰囲気になってきた。
 さすがの俺も、そんな席で「俺の進路なんて、正義の味方に決まってんじゃん!」とか具体性のカケラもないことは言えやしない。三年生になった時点で避けて通れない問題だってのもわかってたし、何かしら現実的で具体的な結論を出さなきゃいけない。
 で、三人であれこれ話をしつつ結構本気で考え始めたんだが、俺が将来なれそうなものって選択肢が多すぎる上、どれを取っても「これだ!」っていう手応えがなくてさ。結論を導くどころか手がかりすら掴めず、時間ばかりが過ぎていって、やがて父さんはちびちびと酒を舐め始め、母さんは楽しみにしてるドラマの放映時間が迫ってきて気もそぞろ。焦って結論出してもろくなことはないし明日以後の宿題にしようか、という雰囲気になったその時、たまたま、本当にたまたま。

 リビングに飾ってある家族写真が、目に入ってきて。
 それまで想像もしていなかった妙案が、俺の脳裏にひらめいた。

 いい父親になって、幸せな家庭を築けばいいんだ、って。

 普通の生活、普通の家庭、普通の幸せ。それを作り出し守り抜く。そのことがどれだけ現代社会に夢と希望と安定をもたらすか。普通の家庭の父親こそが最も正義の味方に近しい存在に違いない――って、今から考えると妥協も極まりないんだけど、それが俺の人生でこれ以上一歩も譲れない現実的な最低ラインだったと言えなくもない。これを最終目標に据えて逆算していけば、進学にしろ就職にしろ、とりあえず自分が今何をすべきか迷うことはなくなるはずだと。

 この話を聞いた父さんは「ほほう、なるほど」と納得顔、母さんはいつものニコニコ顔で「そう、幸せな家庭、普通の父親ね、素敵ね」って言ってくれて。

 んで、その夜に、父さんはこの遺書を書いたことになる。

 母さんともども死ぬ覚悟を決めただけでなく、わずか三日後には帝都ホテルのホールを貸し切って、大々的に結女との披露宴を執り行うよう手はずを整えた。結女には詳細を伏せたまま、俺が昔のことをほとんど思い出していると大嘘をついた上で。

 支離滅裂にも程があるだろ。

 父さんと母さんが当時の俺の進路をそれなりに評価してくれて、いい父親になって欲しい、と願うまではまあ理解できるけど、これだと遺書を書くべき理由がなくなっちまう。黙って大学へ進学させ、コノとの交際が上手く行くように働きかけるべきだ。どこをどうひっくり返しても結女と再び巡り合わせようって話にはならない。なるはずがない。

 結局、疑問は何も解消されなかった。
 父さんと母さんが何を考えてたのか、答えは今も闇の中。

「ねえ、沖継くん。何て書いてあったの?」

 えらく後ろの方から、コノの声がする。
 振り向くと、コノは書斎の扉近くに立っていた。お前、さっきまでもうちょっと近くに居なかったっけ? 脇から首突っ込んで一緒に読んでるもんだと思ってたのに。

「だって、そういうのってやっぱり、家族以外の人が見ちゃダメかなって……」

 相変わらず気を遣いすぎだよお前。胃に穴空くぞ。

「……俺が大学抜けるまでの、生活費と学費だってさ」

 預金通帳をひらひらさせながら、言う。
 いろいろ疑問は残るけど。気にならないと言えば嘘になるけど。

「一人息子が路頭に迷わないように、ちゃんと用意してくれてたんだ」

 遺書に書かれたそれ以外のメッセージは、意味が無い。

 俺は、結女と別れたんだから。
 もう終わりにしよう。
 そして今度こそ、新しく始めるんだ。コノと一緒に部屋へ戻って、ベッドの上で肩を寄せ合い、目を閉じる。今夜は二人で同じ夢を見て、明日から同じ未来を目指して歩き出す。
 それでいいんだ。そうするべきだ。そうしなくちゃいけな――。



 あ、っ、うあ、っ。



「沖継くん? ……え? ちょっ、沖継くん?!」

 コノ、の、慌てた、声。
 膝、折って、うずくまる、俺、に。

「どうしたの?! 大丈夫?! 沖継くん?! 沖継くんっ!!」

 だ、いじょ、ぶ、な、ワケ、ねえだろ、見りゃ、わかん、だろ、クソッ。

 何なんだ、この頭痛は。

 頭の中に何かが突き刺さってくるような、脳味噌を切り刻まれているような。自分がバラバラになりかねない強烈な痛みが頭の中で突然弾け始めた。俺は廊下の片隅で膝を折り、うずくまり、頭を抱え、涙と涎をだらだら垂れ流しながら呻くことしかできない。傍らのコノはただひたすらに取り乱し、涙声で俺の背中にすがりつくだけ。

 何なんだ、何なんだ、畜生、何が起きてやがる――。


5-3:内なる戦い

 朦朧とする意識の中、俺の脳裏にフラッシュバックする。
 遙かな昔、初めてあいつと出会った時のこと。

 俺は一目で恋に落ちた。

 今から三千年近く昔、まだ小さな集落に過ぎなかった俺の領地を踏み荒らす胸糞悪い蛮族どもを攻め滅ぼすため、何人かの家臣を引き連れて征伐へ出た矢先のことだった。蛮族の集落へ奇襲をかけるには目の前にある小さな山を越えていくのが一番いいはずなのに、家臣どもが珍しく俺に異を唱えてくるんだよ。それだけは断じてなりません、どうか考え直していただきたい、と。
 その理由を問い質すと、その山には呪術を使って人心を惑わせる魔女がいるという。あんまりにもバカバカしくて俺は家臣どもを鼻で笑い飛ばし、もしそれが本当の魔女なら仲間にして連れ帰ってやる、ニセモノだったら首を撥ね飛ばしてここまで持って来てやるよと豪語した。だって本当に呪術の類を使うヤツだとしたら、それは天神によって生み出された俺の同類、仲間ってことだもんな。逆に呪術がハッタリの類だとしたら、天神の意を汲む俺の進路を阻む障害物に過ぎない。あらまあ何てわかりやすいんでしょう。
 そうして一人で山に入ってみたら、案の定、呪術なんてものは存在しなかった。鬱蒼とした森の中に芥子や大麻をいぶした煙が漂っているだけ。幻覚作用が最大限に発揮されるように地形や風向きを計算に入れて仕掛けてあるのは大したもんだけど、あらゆる毒物を無害化できる俺には何の効果もない。
 という訳で、魔女とやらの首を撥ね飛ばすことに決定。注意深く山を調べ周り、住処と思しき小屋を見つけ、真正面から押し入った。やいやいこのペテン師め何が呪術だこちとらまるっとお見通しだぞこの俺様が成敗してくれるから大人しく剣の錆になりやがれ、ってな勢いだ。

 でも、魔女と思しき女が、こちらを振り向いた途端。
 俺は息を呑み、手にしていた剣を取り落とした。

 この世に、こんな綺麗なひとがいるなんて。

 俺は自分の目を疑って、何度も何度も瞬きを繰り返した。女の顔を見ているだけで頭が全く働かなくなる。心臓が早鐘を打ち、身体が強ばって満足に言うことを聞いてくれない。こんなのは初めての経験だった。ひょっとしたら本当に呪術で狂わされてるんじゃないかと思ったくらい。

 そして、眼前にいるその美女が、口を開く。
 信じられないことに、名乗ったんだ。自分の名前を。
 俺は目ん玉をひん剥いて、心底驚いた。

 その当時、名前には魂が宿ると本気で信じられたんだよ。初対面の相手に自分の名前を名乗るなんてありえないんだ。後に大陸からイミナやアザナの風習が入ってきて、明治の頃まで連綿と続く文化として根付くことになるんだけど――ああ、説明が長くなりそうだからこの辺で省略しとく。要点だけ簡単に言うと、この女は初対面の俺に向かって「自分の魂をあなたに支配されても構いません」と宣言したも同然だったんだ。そりゃあ驚くよ。

 でも、俺のその驚きは、すぐに霧散する。

 だって、女は続けてこう言ったんだ。

 私は、ずっと、ずっと、あなたとめぐり逢うこの時を夢見ておりました、と。

 それは、俺と同じ出自を持つ者だということ。今後も拡大を続けていく領土を内政面から支えるため、俺のつがいとして天神が遣わせた女。俺以外には絶対に突破できない幻覚の罠を仕掛けたこの地で、俺と出逢うその時を待っていたんだ。
 だとすると、俺が一目で恋に落ちたのも納得。天神の力をもってすれば、俺が惚れそうな女を生み出すことくらい簡単にできる。それこそ遺伝子レベルでデザインして――あ、当時は遺伝子なんて概念はないのか。別に血でも魂でも何でもいいけどさ。
 逆に言えば、目の前にいるこの美女も、今この時、俺と同じように恋に落ちたってことになる。自分が寄り添うべきたった一人の伴侶、自分という女を十全に満たしてくれる理想の夫、本能的に惹き合って血の一滴まで溶け合いたいと渇望するほどの男だと、一目見てそう確信した。だから躊躇うことなく自分の名を告げたんだ。

 そういうことか、なるほどな、と俺は納得して。
 でも、それと同時に。

 怒りにも似た激しい感情が、胸の奥底から衝き上がってきた。

 何でそんな気分になったのか、自分でもさっぱりわからない。天神が今後を見据えて用意してくれた大切な女なんだから、なるほどそうか逢えて良かったよこれからよろしくな、と喜んで抱き締めて連れ帰ればよかったのに。女が頬を桜色に上気させて寄り添ってくるや否や、突き飛ばすようにして遠ざけ、一言も発しないまま小屋の外へ飛び出しちまった。んで、その勢いのまま撤収。家臣どもは目を白黒。
 そりゃもう、死ぬほど後悔したよ。最高にいい女をフッたも同然ってこともそうだけど、天神のお膳立てを蹴り飛ばしたようなもんだからさ。戦場では何があっても冷静沈着なこの俺が、物に当たるわ取り乱すわのご乱心。魔女の呪術にやられたんだと勘違いされて、右往左往の大騒ぎになっちまった。

 でも、二、三日くらいしてからかな。
 やっちまったもんはしょうがねえやと開き直れて。

 俺は意を決し、もう一度、女のいる小屋に立ち戻った。

 女は目をぱちくりさせて呆然としていた。そりゃそうだわな、俺が何で去って行ったのかもわからなければ、何でまた戻って来たのかもわかりゃしないんだし。

 一言も交わさず、互いに見つめ合ったまま、どのくらい時間が過ぎたろうか。俺はこの重苦しい沈黙に耐えきれなくなって、何とか口を開き、言葉を絞り出す。

 そしたら、どうしたワケだが、弁が止まらなくなった――おおなんと、こんなところに小屋があるとは知らなかった。むむむ、こんなところに女がいるぞ、これはなんという美人だろう、いかん俺としたことが本気で惚れてしまったぞ、これは是が非でも口説き落として我がものとせねばなるまい、あー、今初めて出会った男にこんなことを言われても戸惑うだろうが、どうか是非とも聞き入れていただきたい、互いに名乗り合って、契りを結んで、夫婦になってはくれまいか? なに、過日にすでに出逢っている? そんなこと俺は知らんぞ――って、だいたいこんな感じだったかな。
 思いつくまますっげぇ早口でのべつ幕無し喋りまくったから、細かいところは憶えてないんだけどさ。もう、過日の大失態を無かったことにしたい一心だよ。喋れば喋るほど頭に血が上ってくるし、胸の鼓動は早くなる一方だし、頭の中もぐっちゃぐちゃだ。みっともないったらありゃしない。

 ちなみに、俺が喋ってる間、女からの言葉は一切なし。というか、相槌すら打つヒマはなかったろう。口を開けてぽかーんとしてたかもしれない。

 その後、俺は、自己嫌悪で黙り込んで。結構長い沈黙があって。

 女が堪えきれずにブフッと噴き出して、慌てて口元を手で押さえて、顔を下に向けて、肩をぷるぷる震わせ始めた。大声上げたらはしたないと思ってたのか必死で堪えてたけど、腹が捩れんばかりの勢いで大笑いしてたんだろう。

 それが、俺たちの馴れ初め。
 こんな喜劇じみた一幕が、口伝で代を経ることに少しずつ形を変え、いつの間にやら伊弉諾と伊弉冉の神話になっちまうんだからさ。世の中ってのは不思議なもんだ。



 ――まただ。
 俺は、夢を、見てる。
 起きたまま、過去の夢を、見せられてる。

 頭痛の理由は、これか。

 失ったはずの記憶が次々と浮かび上がって、神経やら感覚やらがグッチャグチャ。
 何なんだよ、もういいんだ、いいんだよ、結女のことなんて。
 俺は、もう、思い出したくない。知りたくないんだ。



 結女。俺の伴侶として生を受けた女の名前。
 けれど、その名前を使うようになったのは、出逢ってからずっと後のことだ。

 俺たちには元々、今とは違う名前があった。それは産みの親に等しい天神がつけたもので、発音だけなら「イザナギ」と「イザナミ」に近い部分があったんだけど、他にもミドルネーム的なものがいろいろくっついてすっげェ長ったらしくてさ。ぶっちゃけもうもう忘れちまった。クソ長い人生の中でも数えるほどしか使わなかったし。

 ただ、どうして「ユメ」なんだっけ?
 そこのところが、いまいち、思い出せない。

 結女、という文字そのものについては、大陸から書の文化と漢字が入ってきて以後、それっぽいのを当てはめただけだろう。時系列的にもそういうことになる。ただ、ユメ、という音の響きそのものには、当時使っていた言葉に根ざした意味があったはず。
 ていうかそもそも、俺たちは何で、天神からもらった名前を使わなくなったんだ? 天神を裏切っちまったから、戦うべき敵からもらった名前を使い続けるなんてけったくそ悪いと思ったのか。

 いや、違うな。

 俺はもっと前から、あいつのことを「ユメ」と呼んでいたような。いや、間違いないな。夫婦の契りを結んでから数年後には、もう――。

 そうだ。
 ああ、そうだよ。

 彼方まで澄み渡った雲一つない秋晴れの空の下、俺たち二人は黄金色の海の中にいた。前を向いても後ろを向いても、たわわに実った稲穂の群れが見渡す限り続いていて、おだやかな風に揺れて優しく波打っている。
 結女の指導の下で稲作技術の改良が行われて、初めて迎えた収穫の秋。風と水の流れ、地形に対する畦の設計、名もなき虫の習性や下草の特性まで、あらゆる要素を一つたりと見逃さず、制御し、利用し、時には切り捨て、時には拾い上げ、これまで見たことがないほどの大豊作を成し遂げた。天地の間にある全てのものが、俺と結女の行く末を祝福してくれているような気がしたっけ。

 そんな幸せの中で、俺は、長い間考え続けていたその名前を、初めて口にした。
 大切な女に、自分の妻に、新しい名前を贈った。
 ユメ、という名前を考えたのは、俺なんだ。
 彼女は嬉しそうに微笑んでくれて、その日から彼女は「ユメ」になった。

 そして俺も、この時にユメから「オキツグ」という名前をもらったんだ。

 ああ、そうだ、そうだよ、ユメにしろオキツグにしろ、何かを意味する言葉じゃなかったんだ。むしろ、既存の何かを連想することを避けた。そのはずだ。
 だって、当時の俺たちにとっては、何の色もついていない真っ白な名前をお互いに贈り合うこと、それ自体が何より大切だったから。
 俺は結女のために、結女は俺のために、それぞれに相応しいと思った音の響きだけを純粋に選んで、組み合わせて、たった一つの特別な名前を作り出したんだ。

 でも、どうして俺たちは、そんなことをしたんだっけ?

 ああ、くそっ、もうちょっとで思い出せそうなのに。もうちょっとで――。



 思い出さなくて、いい。
 もう、思い出したくないんだ、俺は。
 結女のことなんて。



 俺と結女の関係は、順風満帆そのものだった。
 物事の本質をズバリ見抜いて問題解決への最短距離を見出し、卓抜した行動力と圧倒的な身体能力で事態を打破する俺。細やかな気配りで領内の人心を掌握し、問題が顕在化する前に諍いの芽を摘み取る結女。次から次に起きる予想外の事件も阿吽の呼吸で片付けて、結果的に見れば二人の絆をより深めるためのイベントでしかなかった。

 そんな最初期の幸せの絶頂は、多分、俺と結女の間に最初の子供が生まれた時に訪れたんじゃないかな。男の子だったけど、そりゃあもう嬉しかったよ。お産のために設けた庵から赤子の産声が上がった瞬間、俺は屋敷の隅々まで響き渡るほどの大声を上げ、夜が明けるまで一晩中走り回ったくらいだからな。それを後から聞いた結女が、俺と赤子の顔を見比べながらくすくす笑って、どちらが赤子かわからないとか冗談を言ったっけ。
 何せ俺と結女の子供だから、周囲から将来を期待されること甚だしかった。俺と結女からいいところだけを受け継いだら、一体どれほど優秀な指導者になるのか。もし悪いところを受け継いでも常人を遥かに凌ぐ才覚の持ち主になるはずだ、と。

 こういう時って、親の立場だと「子供が健康に育ってくれればそれでいい」的な答え方をするのが常だろうし、実際にそう言ってたんだけどさ。最初の子供にはついつい過剰な期待をしちゃうのも親の常だよな。少なくとも俺は内心めっちゃ期待してた。うちの息子はきっと天神に選ばれて、俺と同じかそれ以上の能力を授かるに違いない。戦場においては俺の片腕として剣を振るい、あらゆる敵を薙ぎ倒し、屋敷に戻れば結女を手助けして家臣領民をよく治め、人類の歴史に未来永劫残り続ける千年王国をこの地に築き上げるに違いない、いや、俺たち親子で築いてみせる、ってさ。

 でも、そうはならなかった。

 成長した息子は、なるほど確かに俺たちの子供だった。常人離れした集中力と行動力は俺譲りなんだろうし、目端が利いて細かなことを見逃さないのは母親から受け継いだんだろう。けれど、それらの資質がことごとく裏目に出た。たまたま目の前を通り過ぎた虫一匹に気を取られ、一日中その後を追い回した挙げ句、森に迷い込んで行方不明、三日三晩探し回る羽目になったり。読み書きや算術を教えている最中に紙の上にぽたりと落ちた墨一滴が納得いかなくて泣き叫んでみたり。

 それでもまあ、手間のかかる子供ほど可愛いもんでさ。
 俺と結女はむしろ喜んで、息子の面倒を見てたんだけど。

 ある冬の日、その息子は冷たい亡骸となって、近くの海岸に打ち上げられていた。

 どうしてそんなことになったのか、詳しいことはよくわからない。一人で遊んでた時に崖から足を滑らせたってところだろうけど、家臣や領民の中には息子の死に安堵したヤツが結構いたらしいんだよ。神にも等しい君主が不出来な子供に振り回される姿は見たくないだの、神性が穢れるだの、身勝手なことを言う奴らは結構多かったから。

 ひょっとしたらそいつらの中に、息子をどうにかしたヤツがいたんじゃないか。

 俺の中では可能性を越えて確信に近かったんだが、それらしき証拠は結局見つけられなかった。科学鑑定も監視カメラもない時代だから、多少頭のキレるヤツがいたらもうどうにもならない。何でもご存じの天神ならひょっとすると真相を知ってるかもしれないけれど、俺たちの側から天神に問いかける手段はない。新月の夜に一方的なお告げがあるだけだし、それも与えられた使命の遂行に関係する話に限られる。息子の仇を討ちたいなんて私的なことに協力してくれる道理はどこにもなかった。

 その悲劇から数年後、次男坊が生まれた。こいつは体格にこそ恵まれなかったが、剣と槍を扱わせたら天才的な腕前を発揮した。十五、六になった頃にはもう、領内の家臣や兵の中には息子に勝てるヤツなんて一人もいなかったよ。
 けれど、ある時突然、剣も槍も持たなくなった。どうしたんだと何度訊いても答えてくれず、やがて屋敷にも戻らなくなり、俺の息子だという立場を利用して領内でやりたい放題。暴行、強盗、強姦未遂その他もろもろ、ありとあらゆる罪を何度となく繰り返して。

 挙げ句の果てに、とうとう人を殺めた。

 こうなると、俺は為政者として冷徹に息子と対するしかない。結女は母親として最後の最後まで助命を願い続けたが、それを聞き入れる訳にいかないのは、内政を取り仕切る結女自身が一番よくわかっていたはずだ。捕縛、投獄、そして斬首。俺はその一切を人任せにはしなかった。苦しかった。辛かった。涙が止まらなかった。何でこんなことになったんだって、その思いだけが頭の中をぐるぐるぐるぐる回り続けて。

 ただ、首を刎ねるその直前、次男坊は確かに呟いたんだ。
 俺は結局、何一つ親父に勝てやしなかった、と。

 ひょっとしたら、俺や結女よりもずっとずっと、息子の方が辛い思いをしていたのかもしれない。けれどもうどうしようもなかった。何もかもが遅すぎた。

 ああ、そうだ。この次男坊の二つ下に女の子もいたんだよ。結女によく似た器量良しで、ごくごく普通に可愛らしく育ってくれて、同盟関係にあった近隣の領主に見初められて嫁いでいったんだけど、この娘の最期も酷いもんだったよ。
 ある時、自分の夫に寝物語で俺と結女のことを話したらしいんだ。俺と結女には寿命がないこと、病気では死なないこと、天神から果たすべき使命を与えられた文字通りの生き神であること――けれどそれでも、剣で斬られたら死んでしまうこと。これを知った娘の夫は野望に燃えた。俺を斃して広大な領土と莫大な富を手に入れるんだと。自分の実力を天神に示せば、極東に原始国家を樹立させる使命だって引き継ぐことができるはず。そうすりゃ無病不老の能力も授かって、現人神と崇められる存在になれるはずだと。

 んで、俺を宴に招いて、油断したところを暗殺しようとしやがった。

 つっても、何となく雰囲気がおかしいことは最初から気付いてたからさ。大したピンチに陥ることもなく順当に返り討ちにしてやったけど、問題なのは我が娘だ。牢獄行きか、島流しか、あるいは死んだ夫に全ての罪を負ってもらって引き取るか。何にせよもう二度と自分の子供を手にかけたくなかった。命だけは助けてやろうと思ってたんだ。

 でも娘は、夫が俺の暗殺に失敗したとわかった頃にはもう、離れの庵で自刃に及んでいた。俺が踏み込んだ時には血の海の中で事切れてた。

 図らずも父親を裏切るようなことになったんで、娘なりに責任を感じた果ての行動だろう。俺は勝手にそう思ってたけど、一部始終を知った結女は否定した。あの娘はそんな可愛らしいことを考えたりしない。父親譲りの負けん気をもって、世の中のもの全てを自分に傅かせようと本気で考えていたんだと。よちよち歩きの小さい頃から母親である自分に対してもライバル心を剥き出しにして、同じ女として絶対に負けたくないと肩肘を張り続けていたらしい。だから自分の夫の権力欲を焚きつけ、俺のように神と崇められる域まで出世させて、自分もまた結女以上の女神になろうとしていた。

 つまり、暗殺の首謀者は我が娘。嫁ぎ先の夫は踊らされただけ。これは結女の邪推でも何でもなく、家臣や使用人たちから裏付けの証言が取れちまった。

 何故、俺には、娘の本性が見抜けなかったのか。

 絶句して項垂れる俺を、結女は慰めてくれた。男なら、父親なら、見抜けなくても仕方がない。男の俺にどろどろした女の心情は理解できないだろうし、したくもないし、しようともしないだろうと。実際その通り。悔しいけど何も言い返せなかった。

 俺と結女の子供はその後もたくさん産まれたが、次の娘も、その次の息子も、また次の息子も、結局は最初の三人の子供と似たようなことになった。親から受け継いだ才能が悪い方に出て人生を台無しにするか、あるいは、自らの才能が親の域まで及ばないことを悲観し、僻み、妬み、進むべき道を踏み外す。ある時は下克上を狙う輩に利用され、ある時は権力の毒に狂わされて、親である俺たちを追い落とそうとする。

 でも、冷静に考えたらさ。
 こうなるのは、至極当たり前なんだ。

 俺と結女は普通の人間じゃない。健康と長寿の能力を背景に、本来は兼ね備えることが難しい複数の才能を高いレベルで持ち合わせていて、互いの不足している部分を補い合うよう意図して生み出されてる。長く権力の座にあっても傲ることなく、人類の更なる進歩を促すという絶対的な理想と正義を掲げ、知力と体力の全てをもって使命の完遂を目指す。そのために最適化された存在だ。
 そんな俺たちの間に生まれてきた子供は、最適な状態から完全にズレてる。どこかは完全に過剰だし、どこかは決定的に足りてない。言ってしまえば欠陥品だ。俺や結女の完全なコピーじゃないんだから、どうしてもそうなってしまう。
 そして、欠陥ばかりが周囲の目につくようになると、神にも等しい俺たちの子供として相応しくないと判断され、家臣や領民の嫉妬と失望を一身に受けて不幸な最期を遂げてしまう。逆に、親譲りの突出した才覚をなまじ開花させてしまうと、権力の毒にやられ、歪んだ野望や刹那的な衝動を堪えきれず、破滅的な行動に突っ走る。老いることがなく代替わりしない親が邪魔になり、力尽くで排除すべしと結論してしまう。俺と結女の進む道を、人類の行く末を狂わせる敵になる。

 だから、俺たちは。
 自分の手で子供を育てることを、諦めた。

 結女に妊娠の兆候が現れると、神との対話だの重要な儀式だのと適当に言い訳して人里離れた場所に向かわせ、そこで密かに出産し、捨てる。

 言い訳にしかならないけれど、当時の俺たちはそうするより他に手がなかったんだ。無理に距離を置けば天神の使命を果たせなくなるし、永遠に若いままの俺たちが側にいて愛し合うことを拒み続けるなんてどだい不可能。どうしても子供はできるし、出来てしまえば産むしかない。避妊や堕胎なんて概念すら存在しない時代だしな。
 なら、信頼できる里親を探して預ければどうか。何度か試してみたんだけど、これだと俺たちの子供だっていう証拠なり情報なりがどうしても残ってしまう。政敵が担ぎ出してクーデターの御輿にされるくらいはまだいい方で、俺が攻め滅ぼした少数部族の生き残りが腹いせとばかりに里親と子供を惨殺したこともあった。

 生まれた子供には、親である俺たちとの繋がりを、一切残しちゃいけなかった。
 捨てるしか、なかったんだ。



 何でだよ。
 何で俺は、こんなにも必死になって。
 思い出そうとしてるんだ。



 天神から一定以上の権限と能力を与えられた者には、従うべき三つの行動規範がある。

 まず一つは〔果たすべき使命〕だ。俺や結女の場合は、地域の文明水準を底上げして民族と国家の原型を築き上げる、ということになる。

 けれど、その実現は容易じゃない。好き勝手に振る舞う蛮族、我欲に支配された豪族、無知蒙昧で無能な裏切り者。障害となる連中が次から次に湧いてくる。百の理想と千の知性をどれほど丁寧に美しく織り上げても、たった一人の愚者が振るった暴力によってあっけなく引き裂かれることもある。

 なので、二つ目の行動規範〔敵と認めたものは手段を問わず排除せよ〕が存在する。

 放っておけば混沌へと傾く一方のこの世に、秩序という確かな筋を通すには、圧倒的な力をもって成すより他にない。こうと決めたら躊躇うことなく武器を持ち、徹底的に戦い抜くしかない。武力とはすなわち、人間の世界の外枠を規定する唯一絶対の理なんだ。悲しいかなそれが現実だ。

 そして三つ目は〔人道に悖る行為を許さず〕という戒めだ。

 これは二つ目と矛盾するように感じるかもしれないが、世界の内枠を規定する理だと解釈すれば、充分に並立しうる規範だとわかるはずだ。何の罪もない者を嬲り殺すような真似をしたら、俺たちは天神の寵愛を失い、神通力を持った同族から咎人として認識され、裁かれ、罰せられることになる。

 さて、以上を踏まえて、問題。
 俺たちが自分の子供を捨てた場合、この行動規範に抵触しないのか?

 一つめの規範に添って考えれば、俺たちの子供はいずれ必ず使命を果たす上での障害となる。ならば二つ目の規範によって子殺しは肯定されると解釈し得る。運次第とは言え赤子が生き延びる可能性を残している限り、敵となりうる者に対して充分すぎる温情をかけていると言えなくもないよな。
 けれど、捨てられた乳飲み子が心優しい誰かに拾われて生き存え、権力や暴力と無縁の場所で大切に育てられ、幸せな生涯を送る可能性なんてほとんどゼロに等しい。俺や結女が赤子を手放した時点で、何一つ罪を犯していない無辜の民を殺したも同然。三つ目の規範が示すところの人道に悖る行為そのものだ。言い逃れのしようもない。

 俺も結女も、何かしらの罰を受けることになるのは覚悟してた。考えに考えて、悩みに悩んで、やむなく下した結論だけど、それを天神が認めてくれるなんてことまでは期待してなかったんだ。

 けど、実際には何にもなかった。

 積極的に肯定するようなメッセージを送ってきた訳ではないけれど、咎人として責められることもなかった。天神はつまり、俺たちが子供を捨てることを黙認したんだ。

 免罪符をもらったと脳天気に思い込めはしないが、子殺しの罪悪感を抱き続ける必要もない。ここは割り切るべきだろう。少なくとも俺は割り切った。

 でも、結女は違った。

 ある夜、閨で、結女が絶叫を上げて飛び起きた。山中に捨てた子供が狼に食われて死ぬ夢を見たという。いや、川に流した子供と途中で立場が入れ替わったと言ったんだったか。急流に流され、溺れて、助けを求めて小さな手を伸ばしたけれど、母親であるはずの大人の自分がその手を振り払い、悪魔のような形相で自分を川底に沈めたのだとか。
 しかも、それはこの夜だけじゃなかった。次の日も、その次の日も、十日経っても二十日経っても、結女は毎晩のように悪夢にうなされて目を覚まし続けた。

 信じられなかった。

 だって結女は普通の女じゃないんだぞ。天神に選ばれて人類の導き手となった特別な存在だ。どんな修羅場でも取り乱すことなく悠然と構えていて当然。それが悪夢にうなされて涙を流しながら震えているなんて有り得ない。あっちゃいけない。
 幸いにも数ヶ月後から好転し始め、半年経った頃にはもう結女は持ち直していた。安堵したよ。これでもう大丈夫。俺と同じように割り切れたんだ。だって俺たちは普通じゃないんだから。こうなるのが当たり前なんだ。

 そうして月日が経ち、また次の子が生まれて、捨てて。
 結女はやっぱり夜毎に悪夢を見て、泣き叫び震えるようになっちまった。

 俺は気の利いた言葉ひとつかけられず、ただ側にいて抱き締めて慰めてやることしかできなかった。どうすればいいのかわからなかった。無力な自分に腹も立ったし悔しかったし情けなかった。でも結女はそんな俺に感謝の言葉を贈ってくる。側に居てくれて嬉しかった、辛いときに慰めてくれて本当にありがとう、あなたとならどんなことがあっても乗り越えられる、と。
 俺はその言葉を真に受けた。結女はこの試練を乗り越えようとしている。結女もいつか割り切れる。俺が側にいれば、俺と同じように、いつかきっと。そう信じたんだ。

 信じた――か。

 はは、改めて考えると、これほど便利な言葉もないよな。実際には何一つ具体的な行動を起こさず、厄介な問題を先送りにして、苦しんでいる結女を放っておいただけなのに。

 このツケは、何年か後になって、きっちり払わされることになった。

 うっすらと雪化粧した冬の山腹にある小さな洞窟。陣痛が始まった結女はその中で出産の時に備えていて、俺は産後の後始末のために外で湯を沸かしていた。産婆のような介助役はいない。その場には俺たち二人だけ。
 結女は難産という言葉と縁がない。健康と長寿の能力があるからだろうな。無事に生まれて当然だと高をくくっていたし、実際その通りになった。ほぼ予想していた通りの時間に、窟の中から赤子の産声が聞こえてきたんだ。

 でも、その赤子の産声が。
 急に、不自然に、途絶えた。

 その時は何が起きたのか想像もつかなかったけれど、嫌な予感が強烈に俺の胸を衝いた。過去に一度も経験のない異常事態が起きていると直感し、湧かしていた湯をひっくり返しながら慌てて洞窟へ飛び込んだ俺は、そこでとんでもない光景を目にしちまった。

 結女が、生まれたばかりの赤子の首を、両手で締めてやがる。

 声を上げる余裕もなかったよ。俺は結女の背後から飛びかかり、赤子の首にかけられた手を力尽くで引き剥がした。けれど赤子の身体は母親とまだ繋がったまま。臍の緒に引きずられて結女の元に転がっていく。そして結女がまた赤子を絞め殺そうとする。
 血液と羊水がぶちまけられた丸太組の床の上で、俺たちは声を上げるのも忘れて揉み合った。母胎から流れ出た胎盤を結女自身がうっかり踏みつけ足が滑って態勢を崩したことで、赤子はようやく俺の腕の中に収まる。と同時に赤子は息を吹き返し、前以上に元気な産声の続きを上げ始めた。いやもう心底ホッとした。

 でも、そうして赤子を抱いた俺を、倒れたままの結女が見上げる。
 血と汗にまみれ、精も根も尽き果てた虚ろな目が、それでも俺に問いかけてくる。

 どうせ死ぬのに、捨てるのに、どうして?

 実際にそう言ったのか、あまりにも場に不似合いな顔を見た俺の空耳だったのか。どっちなのかはわからないし、どっちでも同じ。

 この時、結女の心はもう、壊れる寸前だったんだ。

 親から見放される赤子に感情移入しすぎて、子供を捨てる度に罪の意識を背負い続け、その重みに押し潰された。どうせ死ぬなら自分の手で、苦しませずに、ひと思いに楽にしてやろう。それはただの逃避だけど、結女はそのことに気づけないほど追い詰められていたんだ。

 そうして、裁くべき罪を何一つ負っていない小さな命を、無為に殺そうとした。

 結女は何故、俺のように割り切れなかったのか。それはわからない。男の俺と女の結女じゃそもそも前提が違うんだろうけど、所詮は推測だ。俺は日増しに大きくなる不自由なお腹を抱えて十月十日を過ごしたこともないし、文字通りに身を割かれる痛みに苦しみながら赤子を産み落としたこともないから。
 ただ確かなのは、もし未遂で終わらなかったら、この所業が天神に知られたら、結女は咎人として裁かれていただろうってこと。

 もう二度と、結女に精神的な負担はかけられない。
 お腹を痛めて産んだ子供を捨てるような真似は、させられない。
 それは、愛する妻を喪うことと同義だ。

 でも、どうすればいい? お互いに愛し合ってる限り、側に居れば触れ合いたくなるし、どうやったって求め合うし、新しい命が生まれてくる。それは魂と肉体に刻み込まれた強烈な血の呪いだ。絶対に変えられない宿命だ。どうにもならない、耐えられない、離れられない、離れたくない、抗えない。

 そう、俺たちがお互いに愛し合っている限り。



 そこまで思い出して、ようやく。
 察しがついた。

 どうしてこんなに、過去のことを思い出してしまうのか。
 何が記憶を呼び覚ますトリガーだったのか。

 その俺の気付きを裏付けるような記憶が、また、蘇る。



 俺たちが悩み、苦しんでいる間も、世の中は変わっていく。

 心を病んだ結女に必要なのは、何よりも静養だ。そう考えた俺は半ば強引に結女を隠居させたんだが、超優秀な内政担当が不在となったツケはモロに俺の肩へのしかかってきた。やれ税が重すぎるだの、飢饉で食い物が足りないだの、流行病で人が死んだだの、それら全てが為政者の責任とされ、あるいは神である俺の力が足りないからだと文句を言われ、忠誠と信仰が揺らぎ、叛乱の火種が生まれ、その火消しに頭を痛めることになる。
 それに加えて、本来俺の担当である軍事面でも問題が噴出。いつからか中小の部族が手を組んで連合を作り、俺の領地と支配体制に真っ向から戦いを挑んでくるようになった。戦略や戦術はぶっちゃけ俺の猿真似なんだけど、猿なりによく研究したんだろう、なかなか手強い。可能な限り部下に任せてたんだけどやっぱり不充分で、戦場から戦場を飛び回るような日々が何年も続いた。

 本当に、余裕がなかった。目の前のことだけで手一杯。
 結女のことを思いやる暇も、愛し合うこともなく、時間が跳ぶように過ぎて。

 はたと気付いた。

 ――別に、これでいいんじゃないのか?

 俺たちは使命を果たすために生まれた。俺が男であいつが女に生まれたことすら偶然じゃない。男にしか出来ないこと、女でなければ気付かないこと、その二つを補い合うためだ。天神から見れば単なる方策の一つであり、それ以上の意味はない。
 俺たちがお互いに愛し合う必要なんてないんだ。
 俺と結女の目的意識が揺るがなければ、使命を果たすことを最優先していれば、俺と結女の間には信頼関係すら築く必要がない。むしろ憎み合って嫌い合ってる方が楽だ。触れ合いたい、抱き合いたい、最初からそんなことを思わなければ子供なんて生まれてこないし、生まれてこなければ捨てる必要もない。結女が余計な心労を負うことも、俺が思い煩う必要もなくなる。

 なんて簡単なんだろう。どうして今まで気付かなかったんだ。

 そう開き直ったことで、俺の判断には一切の迷いがなくなった。そのうちに結女の心が癒えて落ち着きを取り戻してはいたんだけど、俺は結女を影に下がらせたまま、政治の表舞台には決して出そうとはしなかった。いやま、結女が不在の理由を家臣どもに言い訳するのが面倒だったんで、表向きには死んだことにしてたせいもあるけどね。そもそも内政なんて予算の配分と根回しが仕事の半分以上を占めるんだから、それで不都合はないと判断した。そして、結女の閨と定めた神殿にはほとんど寄りつきもしなくなった。
 もちろん、結女はそのことを良しとはしなかったよ。俺の影に隠れてコソコソと陰謀術数を巡らせてるようなもんだから。これじゃ結女の失敗や判断ミスは最終的に俺が責任を取ることになっちまう。書簡や使者を通じて、時には直接本人がやってきて、何度となく俺に意見を言ってきた。私はあなたの妻であり伴侶なのだから、あなたに不要な負担は負わせたくない。それが結女の言い分だった。
 でも俺は頑として取り合わない。俺に負担をかけないようにお前が万全を期すればいいだけの話だし、だいたい、お前の負担が増えたらまた大変なことになるだろ、これはお前のためなんだ、いいから俺の言う通りにしろ、それが俺たちの使命を果たすことに繋がるんだ、ってね。もうこの一手で押し切ったよ。

 でも、結女はやっぱり、納得ができず。
 事ある毎に、俺に意見してくる。

 そのうちに、俺は、本当に。
 結女のことが、嫌いになっていた。

 俺だって必死でやってるのに、精一杯なのに、余裕なんかこれっぽっちもないのに。妻である私がこんなに懸命に訴えているのだから聞き入れて下さい、みたいな態度でいちいち横槍を入れてくる。そんな結女が本当に疎ましく邪魔に思えて、顔を見るだけでも嫌気が差すようになった。

 そうして、あの夜の一幕が起きる。

 苛立ち紛れに強姦紛いの真似をして、結女はそれでも、夫である俺を受け入れようとした。けれど残念ながら、俺の方にはもう、結女と肌を交えたいという欲求なんて微塵も残っちゃいなかった。途中で興味が失せて閨に背を向け、去り際にさんざん罵倒してやった。最後は俺の望む通りにするってんなら、最初から俺の言うことを聞いていろ、二度と偉そうに意見してくるな。今のお前と寝るくらいなら、わずかな銭と食い物で春を売るみすぼらしい女と寝た方がよほどマシだ。
 そこまで言われれば、さすがに結女も色々と察したんだろうな。以後は何も意見してこなくなって、結女の方からも俺を避けるようになっていった。

 清々したよ。これで俺もようやく己の使命に専念できる。
 問題はなかった。何もなかった。あるはずがない。

 俺たちは互いの役目に専念し、着実に成果を挙げ続けた。

 はたと気付いた時には、俺の領土は限界に近いところまで拡大し、今の日本とほぼ同じ広大な領土を支配下に治めることに成功していたんだ。そりゃあまあ、小さな問題は起き続けるけどさ。俺や結女の手を煩わせるほどのことはなかったな。毎日が平和そのもの。

 そして。

 とある新月の夜。
 天神の啓示を受けたという一人の使者が、俺の元を訪れた。
 使命は果たされた、大義であった、と、労いの言葉を伝えに来たんだ。

 とうとう、成し遂げた。
 俺は、誇るべき偉業を成し遂げたんだ。

 でも、不思議なことに、何の感慨も湧いてこなかった。あっそ、終わったんだ、みたいな感じ。翌朝になって手近な山に登ってみて、なかなかいい感じに栄えた都を見下ろしても、どーでもいいやこんなもん、てな気分。曲がりなりにも艱難辛苦を乗り越えて築き上げてきた大成果のはずなのに。

 どうしてだろうなって、ちょっと考えてみたんだけど。
 まあそりゃそうか、って、すぐ腑に落ちた。

 眼下の街に住み暮らす豆粒のように小さな領民たちは、どいつもこいつも、俺のことを現人神だと信じている連中ばかり。むやみやたらと俺のことを敬い奉り、俺の裁可がなければ何も出来ず、俺の教えを守って日々を暮らし、生き、そして死んでいく。俺にとっては本当に豆粒くらいの価値しかない。いや、本当に豆粒だったらもっと楽だったろうな。ちょっと目を離せば足りない知恵ですぐ勝手な真似をして、余計な問題を起こして俺の手を煩わせやがる。これまでこいつらにどれだけ手を焼かされたことか。

 俺はもう、天神の使命から開放されたんだ。
 これ以上、一日たりとも、こんな愚民どものために働いてやるものか。

 そうと決まれば行動あるのみ。その場の思いつきで選んだ数名の官吏に「今日からはお前たちが新たな神としてこの地を治めよ」なんつって、統治者としての権限をすべて譲渡。新たな権力者となった連中は感謝にむせび泣き、大御神たる俺への供物は未来永劫欠かしませぬと頼んでもないのに誓ってくれちゃった。未来永劫なんてできっこねえよと内心呆れてたんだけど、せいぜい数十年、長くて百年も続けば充分だしな。俺が老衰でポックリ逝くまで衣食住に困らなければ、それでいい。

 この世に未練なんて、もう、ない。
 やるべきことは、もう、終わったんだ。
 山奥の寒村か、内海の孤島にでも引きこもって、静かに余生を過ごすだけ。

 んで、俺の身の回りの世話をさせるための小姓や女官を引き連れ、今まさに都を旅立たんと歩み始めた俺の目の前に。

 結女がいた。

 無言で向き合うこと暫し。それから思い詰めた様子で俺の方へ歩み寄ってくる。が、その場にいた警護の兵が槍を構えて割って入った。表舞台から姿を消して久しい結女の顔を覚えてなくて、大御神に無礼を働く不遜な女としか映らなかったんだろう。俺は兵を叱りつけ下がらせて、ずいぶん久しぶりに結女と話をすることになった。
 そう、天神の啓示があったことも、都を離れて身を隠すと決めたことも、俺は何一つ結女には伝えていなかったんだ。影から内政を仕切っていた結女は、俺が具体的に隠遁の準備を始めるまで、配下の間者から間接的にそのことを耳にするまで、本当のことは何一つ知らずにいたんだ。

 だって、もう、何もかも終わったんだぜ。
 結女を特別扱いする必要がどこにある?

 俺は一方的にそのことを告げ、そして離縁を言い渡す。これからは気の向くまま好きにすればいい。最期の時を迎えるその時まで不自由のないよう充分すぎる財を保たせるし、側仕えも好きに連れて行け。それで文句はないだろう、と。

 結女は、眉一つ動かさず、俺の話を聞いていたんだけど。
 大きな溜息を一つ、清々しい笑みを浮かべて。

 それはそれは、何とも有り難いことです、と。

 俺の顔を見るのも、天神の使命も、つまらない内政の仕事も、とうの昔に飽き飽きしていたので願ったり叶ったり、これでようやく好き勝手に生きられる、と。

 心の底から嬉しそうに、そう言ったんだ。



 欠けていた記憶は、その後も次々に蘇って、俺の頭に突き刺さる。
 結女と別れた後、僻地で自堕落な生活を続けたこと。欲得に駆られた権力者らが叛乱を起こし、あんなに苦労して作った国がバラバラになりかけたこと。そして、それを知りながら何もしなかった俺。そのうち総白髪の立派なジジイになって、ただ漫然と老衰で死ぬその日だけを待ち続けて、それから――それから――それから――。

「……くそっ、たれが……っ」

 激痛に呻きながら。
 気が遠くなり、目の前が真っ暗になって、なお、俺は。
 歯を食いしばり、今の自分を保ち続ける。
 俺の記憶を、人格を――魂を、破壊されたくない一心で。

「そういう……こと、かよっ……」

 俺が夢を見て過去の記憶を取り戻す時は、現実で似たようなシチュエーションを経験した後だった。今の俺にとっては初めての経験でも、昔の俺にとってはそうじゃない。そういう風に記憶を処理することで、俺は、少しずつ、けれど確実に、昔の俺に近付いてきていた。つまりはそういうことなんだ。きっとそうだ。

 そして。

 今の俺が結女との別離を決意したことで、それと似たような過去の記憶が――昔の俺の経験が、まとめて一気に呼び覚まされてるんだ。自分勝手で、傲慢で、天神の操り人形も同然だったあのクソ野郎も、はるか昔に結女との別離を経験していたから。
 最も古い記憶が蘇ったことで、そこから続く二千数百年分の記憶までもがまとめて蘇ろうとしている。今の俺には全く関係のない馬鹿馬鹿しくてどうでもいいことまで。

 このまま行くと、全ての記憶が、昔の俺に上書きされかねない。
 今の俺が、昔の俺に乗っ取られるのと同義だ。

「……ふ、ざ……けん、なっ……」

 俺は、俺だ。
 ここに居る俺以外の、誰でもない。
 昔の俺なんかに、てめェなんぞに、消されてたまるかっ――!!



 俺の意識が、また、現実を離れる。
 夢の中へと、闇の中へと、ただひたすらに落ちていく。

 けれど、俺の意識ははっきりしていた。光が消え音が絶え手足の感覚が遠くなっても、そのことを恐れはしないし戸惑うこともなかった。自分に何が起きているのかは理屈抜きでわかっていたから。

 天神が俺に与えた能力――健康と長寿を司るシステムの中核。俺の記憶や自意識を維持するための聖域へ、迷うことなく真っ直ぐに入り込んでいく。

 そうして、ついに辿り着く。
 自分の心の奥底へ。

 そこには、今の俺とは違う、もう一人の俺がいた。

 両手と片足を失い、脇腹と右の胸にも致命傷を負って、顔をほとんど潰され、頭にも大怪我を負った俺。おそらくは二十年前、堤塞師に敗北した時の姿のままで。

「この死に損ないがっ……」

 俺は、目の前のゾンビ野郎と間合いを詰めて。
 渾身の力をこめて、殴りつけた。

「死ね、このクソッタレがっ! 死ね、死ね、死にやがれ! 死ね、死ねよっ!」

 倒れたゾンビ野郎の上に馬乗りになって、俺は拳を振るい続ける。

「お前さえいなけりゃ……お前さえいなけりゃ……お前さえ、お前さえっ……!!」

 ゾンビ野郎が、砕けて、消えていく。
 少しずつ、少しずつ。
 形をなくしていく。

「……お前さえ、いなけりゃ」

 俺は、あんなに辛い子供時代を、送らずに済んだ。

「……お前さえ、いなけりゃ」

 父さんも、母さんも、死なずに済んだ。

「……お前さえ、いなくなれば」

 俺は、コノと一緒に。
 何の躊躇いもなく。

「俺は、俺はっ……お前のせいでっ……!!」

 粉々になって砕け散ったゾンビの欠片を、俺はなおも踏みつけ、消し去っていく。
 ほとんど全ての欠片が、闇の中に溶け、あるいは蒸発し、消えていった。

 けれど、たった一つ。

 キラキラと目障りなほどに輝く小さな欠片が、消えずに残った。

 それを見つけた次の瞬間、俺は思い切り踏みつけ踵で磨り潰す。
 でも、足を上げてみると、その欠片はまだ砕けず、そこに在った。

「何だよ、どうなってんだよ?!」

 何度も、何度も、繰り返し、繰り返し、踏みつけ続ける。
 でも、わずかなヒビが入っただけで、なかなか割れない。砕けない。

「ああ、そうか……。これ、ゾンビ野郎の……」

 核、なのか。
 昔の俺が一番大事にしていた記憶、意識、覚悟。何としてでも今の俺に刷り込みたい、これさえ押しつければいい、そうすれば今の俺は昔の俺になる、そういうモノ。
 そう気付いた瞬間、その核は本性を現した。数十倍とか数百倍の大きさに膨れあがり、俺の視界を覆い尽くすほどになる。

「上等だ、この野郎!」

 わずかに入っていたヒビにめがけて、俺は渾身の拳を叩き込む。
 何十回、何百回と殴りつけるうち、そのヒビは徐々に広がっていって――。

「くたばりやがれっ!!」

 全身全霊をこめた拳を、最後のトドメを、叩き込む。

 核が、粉微塵に砕け散った。

 そして、他の欠片と同様、消え失せる。

 残ったのは、俺だけ。

「どうだ、この野郎……」

 さすがに、ちょっと、くたびれた――いや、実際に身体を使って殴ったり蹴ったりしていた訳じゃないから、冷静に考えればくたびれたもへったくれもないんだけどさ。

 ただ、確信はあった。
 これでもう、俺は二度と、過去の夢を見ることはない。
 今の俺が脅かされることはない。

 昔の俺は、たった今、本当の意味で、死んだんだ。

「……ざまあみろ」

 鼻で笑って、勝ち誇る。

 そして。
 ――気付く。

「? えっ……」

 ふと見下ろした、自分の胸元に。
 奇妙な輝きがあった。

「ちょ、ちょっと待て、おい……」

 自分の胸に、手を掛ける。
 思い切って、広げる。
 喩えるなら、自分の心臓を自分で剥き出しにした感じ。
 そう、今の俺の核を、自分で覗き見たような。

「……ウソ、だよな」

 俺の胸の中に、あったのは。
 さっき砕いたはずのモノと、瓜二つ。
 キラキラと目障りなほどに輝く、恐ろしく硬い、小さな欠片。

「何でだよ?! どうなってんだよこれッ!!」


5-4:俺が俺であるために

「…………っ…………っ、く…………ん、お…………き…………っ…………んっ、しっかりして! 沖継くん、沖継くん! 沖継くんっ!!」

 コノの、声が、する。
 床に這いつくばって苦しむ俺にすがりついて、どうしていいかわからず、取り乱して、金切り声を上げながら、がくがく、がくがく、俺の身体を揺さぶっている。

「沖継くん! 沖継くん! 沖継くん! 沖継くん! 沖継くん!」
「……うるせえ、うぜえ、ていうか痛い。痛いってば、やめろ、コノ、こら」
「あっ、お、沖継くん! 大丈夫?! しっかりして!!」
「大丈夫だし、しっかりしてるよ……」

 身体を起こしつつ、溢れ出た涙を、垂れ流した涎を、とりあえず手で拭う。

 頭痛は、しない。
 ウソみたいに、すっきりしてる。

「ねえ、やっぱり病院行こうよ、変だよ沖継くん、きっと頭打ったせいだよ、きっとそうだよ、ちゃんとお医者さんに見てもらって検査してもらって入院して……あ痛っ」

 あんまりにもうるさいんで、デコピン一発飛ばして黙ってもらった。

「ホントに大丈夫だよ、心配すんな」
「で、でも……でもっ……」
「それよりさ、コノ」
「?」
「俺、何か変わってないか?」
「えっ?」
「雰囲気が別人みたい、とか、何かちょっと違うな、とか」
「んと……特には」
「そっか。……ちょっと顔洗ってくる」
「えっ? あ、ちょっと、ホントに動いて大丈夫? 沖継くんってばっ」

 心配してくれるのは有り難いんだが、顔も手も汚れてて気持ち悪いんだよ。実際に俺が立って歩いて動き回ってる様を見て安心してもらうしかない。そう思いつつ洗面台へ直行、蛇口を捻って水を出し、ばしゃばしゃばしゃ。
 んで、鏡に映った俺の顔を、じーっと見る。

 俺だな。うん。
 どこをどう見ても、俺だ。

 じゃあ、あれは、何だったんだ?

「どう……したの? 今度は胸が痛いの?」

 胸元を指先でトントン叩いていたら、後ろからコノが覗き込んできた。

「いや、俺の核が……」
「こあ? ってなに?」
「だから、要するに……いやごめん、一言じゃ説明できんわ」

 自分でもよくわかってないものを、他人に説明できるはずもなし。

「……? 何やってんだ、コノ」

 コノが俺の腕を掴んで引っ張り、どこかへ連れて行こうとする。

「休もうよ」
「は?」
「しばらく安静にしてようよ、ね、ね?」
「いや、だから、もう大丈夫だっ……あ、おい」

 コノは強引に俺を引っ張っていく。リビングに入ると半ば突き飛ばすようにして俺をソファに座らせて、熱はあるか、脈は正常か、俺の身体をべたべたと障りながら確かめようとする。

「おい、コノ、俺の話を聞け、こらっ」
「微熱っぽいね……氷枕探してくるよ。冷凍庫にあるかな。そうだ、水分も摂った方がいいよね?」
「いらねえよそんなも……」
「あと、これ。ちゃんと持ってて」

 父さんの遺書と預金通帳が入った封筒。コノが丁寧に畳んで収め直したのかな、そいつを俺の胸元に押しつけてくる。書斎でのたうち回ってた時に取り落として、今までうっかり忘れてた。

「こんな大事なものを放っぽっといて気にもしないなんて、沖継くんがどうかしてるいい証拠だよ。絶対、絶対、どっかおかしいんだってば。……いい? 今夜は絶対安静だからね? 明日は一緒に病院にも行くからね?」
「だーかーらー、もう大丈夫だっつって……あっ、おい!」

 キッチンの方に歩み去っていった。
 やれやれ、勝手にしろよもう。

「大事なもの……か」

 封筒を目の前にかざして、呟く。
 確かに、コノの言う通り。すっごく大事なものなんだけどさ。

 どうした訳か、さほど大事だという気がしない。

 そりゃね、客観的に考えればコノの方が断然正しいよ。父さんが俺のために遺してくれた大切な文書と、これから大学を抜けるまでの学費と生活費。大事に決まってる。
 でも、俺が本当に求めてたこと、知りたかったことは、結局のところ何一つ教えてくれなかった。そういう意味では、この遺書と預金通帳は何一つ役に立たなかった。期待外れもいいところ、後生大事に抱えてても仕方ない。そんな気分が心のどっかにあって、うっかり書斎に置いてきちまった自分にさほど違和感を覚えてないんだ。

 せめて、知りたかった。
 父さんと母さんが何を考えてたのか、それくらいは――。

「……あれ?」

 思わず、封筒を取り落としそうになる。

 ――わかる。

 遺書には記されていなかった本当の意図が、今ならわかる――ような、気がしてる?
 気がするどころか、もうほとんど確信に近い。きっとこう考えていて、だからこう決断して、そして行動に移した。うん、手にとるようにわかる。
 何でだ? この遺書を最初に見たときは察しもつかなかっただろ? はるか古代の記憶が脳裏をチラチラして、その後に昔の俺のゾンビが出てきて、俺の魂を書き換えようとしてきて、俺はそれを全力で拒絶して――それでどうして、父さんと母さんの考えてたことを察することに繋がるんだ?

「俺のゾンビなんて、別に、何も……」

 何も、しなかったのに。

 ああ、そうだ。

 あいつは、昔の俺は、何もしなかった。

 自律的に動く気配なんて微塵も見せず、今の俺の為すがまま、殴られ、砕かれ、消え去った。今の俺を浸蝕しようとしてたなら多少なりと抵抗しそうなもんだけどな。
 それに、過去の記憶を一気に流し込むことで今の俺が消去できるなら、どうしてこのタイミングなんだ? 俺がガキの頃にとっとと浸蝕しても良かったんじゃないか?

「……違う、のか?」

 俺の勘違い?
 でも、あれは間違いなく過去の俺だったって、そういう確信はあるぞ?

 結局は俺個人の感覚的な話だから、客観的に整理して検証するなんてことは不可能だ。でも、健康と長寿の能力を制御するシステムの内部に入り込んだ感じは確かにあったし、俺の判断や行動に対するフィードバックもちゃんとあった。あのゾンビもどきが俺の中に保存されていた昔の俺であることはまず間違いない。そこを疑う余地はないんだ。

 だとすると、今のこの状態は何なんだ?

「例えば……そう、何の意思もない記憶の塊? ただのバックアップ……とか」

 うん、そう考えると辻褄が合うし、腑にも落ちる。

 俺は二十年前に一度死にかけて、受精卵まで若返って生まれ直すという裏技同然の強引な方法で復活を遂げた。その時、昔の俺の脳味噌は綺麗サッパリ無くなったはず。少なくとも物理的に保存された記憶を引き継ぐのは不可能だから、スーパーナチュラルな領域で奇跡っぽい現象がアレコレ起こんなきゃいかんワケ。
 となると、健康と長寿の能力がうまい具合に働いたと考えるのが妥当だ。霊とか魂とかそういう超常的な領域だけで記憶が引き継げるようになってたとかね。そもそも若返りの能力を使えば脳細胞だって若返るんだろうし、その度に精神年齢やIQが低下して記憶が巻き戻されたらたまったもんじゃないしさ。

 でも俺は、生まれ直す前と後で自我の同一性に断裂が起きてしまった。少なくとも今の俺は、昔の俺を別人のようなものだと認識していた。

 何故だ?

 いや、考えるまでもないか。堤塞師にこっぴどくやられて頭に重傷を負ったせいだろ。
 卑近な例で言うと、アレだ、故障したパソコンを修理する時と似たようなもん。何度となく再起動してリカバリをかけたんだけど正常に動くようにならず、ハードウェアを含めた大規模修理を決断し、その前にストレージのバックアップを取ったまでは良かったんだけど、肝心要のアプリやデータがトラックエラーやら何やらの影響で断片化しまくってて使い物にならなかった。かといってそれら全部を破棄してゼロから作り治すと完全復旧まで三千年もの長い長い時間がかかっちゃうので、破損したままの形で一旦保存、断片化を修復しながら少しずつ復旧させていくことにした――とかさ。

 おおお、この喩え、今テキトーに考えたにしちゃ見事に辻褄合ってるな。かなり真実に近いところを突いてるっぽい。

 この仮説に則れば、俺がガキの頃から妙ちくりんな夢を見続けてたことも破綻なく完全に説明できる。まずは何も知らない真っ新な状態で普通の子供と同じように生活して、そこで何かしら新しいことを経験すると、それを元に昔の俺の記憶を検索、類似するものをピックアップして紐付けし、夢の中で経験したもう一つの現実として有機的に使用できる形にするワケですよ。人間ってもともと睡眠中に記憶の整理をしてるらしいし、本能的に行われるナチュラルな作業に割って入るのが一番安全だったとか――あー、なるほどなるほど。健康と長寿の能力がそういう風に半自動的に処理してたのね。健康な俺を維持しつつ元々の俺を可能な限り復元する、二つの命題を両立させようとして。

 てことはつまり。

 俺はずっと、この俺ただ一人しかいなかった?
 昔の俺も、今の俺もない、たった一人のこの俺だけ?

 てなことを、こめかみを押さえながら考え込んでたんだけど、その様子がコノの目にも入ったんだろう。キッチンの方から慌てて飛んできた。

「? 沖継くん、どうしたの……? まさかまた頭が痛いの?!」
「ちょっと黙っててくれ、今、考え事してんだ」
「で、でも」
「いいから!」
「……はい」

 でも、でもさ、仮に、そうだとしてさ。

 さっきの強烈な頭痛と記憶の復活ラッシュは、一体何だったんだ?

 父さんの遺書を見て、解決しきれない疑問が生まれた。その回答のようなものが過去の記憶の中に埋没していて、それが突如として蘇ってきた。流れとしてはそういうことなんだろうけど、起きてる時に過去の記憶が蘇るなんて経験は今まで一度も――。

 いや、あるな。ごく最近経験したばっかだ。

 堤塞師と対峙した時。

 ありゃもう緊急事態もいいとこだし、無意識的に自分の持つ能力をフル回転して対処しようとしたんだろ。その後の怒髪天から意識の加速まで一通り筋は通ってる。
 ただ、そこで取り戻した記憶なんてわずかなものだった。さっきのとは全然違う。頭をカチ割られるんじゃないかと思うほどの強引さで大量の記憶が一気に蘇ってきたもんな。自我が崩壊しかねないほどのヤバさを確かに感じたし、そのせいで、架空の存在である昔の俺が今の俺を消しに来たんじゃないかと勘違いしちまったんだから。

 でも、俺って今、そんなに切羽詰まってるか?
 堤塞師と殺り合う以上の緊急事態なんて――。


「……本当に、沖継だ」



 突然、思い出す。
 あの結婚式場で、結女と初めて会った時に。


「何もかも、沖継だ」



 背伸びして手を伸ばし、俺の顔をぺたぺたと障りながら、あいつは確かにそう言った。
 その時の、結女の手の感触を、頬に振れてきた温もりを、はっきりと思い出す。

 ひょっとして、結女はわかってたのか。
 俺はたった一人、この俺しかいないって。

 だとしたら、俺は、とんでもない過ちを犯しちまった。

 あまりのショックで目が眩む。血の気が引いていく。
 俺は過去の記憶を全部消しちまった。まだ復旧できていなかった断片、残り全部を、この手で砕いて消してしまった。以前持ってた記憶を、スキルを全て取り戻すことを、自分で、全力で拒絶しちまったんだ。
 ひょっとしたらそこには、結女が言っていたような、魔人どもが本気で恐れる最強の俺を取り戻せる手がかりがあったかもしれない。でも、もう、ないんだ。健康と長寿の能力、そのシステムの中核、奥の奥まで入り込んで、何もかも消してしまった。今後生きていくには必要ないって、コノと一緒に生きて行くには邪魔だからって、昔の俺と今の俺は違うって、そう思ったから。

 過去の俺が一番大事にしていたものを。記憶の核を。
 あの魔人どもに勝てるかも知れない最後の希望を。
 徹底的に砕いて、消しちまった。

 もう、どうしようもない。
 どうしようも――。


「かっこいいなぁ、お義父さんは強いなぁ」



 ――空耳?
 声のした方を振り向くと、黄色い帽子に白いシャツ、黒い半ズボンとサスペンダー。いかにも昭和の小学生という出で立ちの子供が俺を見つめていた。


「僕もいつか、お義父さんと一緒に戦うよ、命がけで」
「わかってるよ、いつものアレでしょ? もう聞き飽きたよ」



 ――やっと。
 わかった。全部。

 そっか、そうだったのか。そういうことか。

 思いが至ったとき、俺は、自分でも気付かないうちに。
 自分の胸元を、ぎゅっと、握り締めていた。

「沖継くん? 沖継くん? 考え事終わった? もう話しかけてもいい?」
「…………」
「さっきから何を見てるの? 壁の額縁? あの写真?」
「…………」
「おーい、もしもーし。聞こえてますかー?」

 俺は、ソファから立ち上がる。
 目の前には、マーカーで落書きをしまくった地球儀。
 黒く塗り潰された日本列島を、掌で拭い、清める。

「なあ、コノ」
「はいはい?」
「ごめん。ほんとに、ごめん」
「何が?」

 もう。
 迷いなんて、なかった。

「やっぱ俺、お前とは付き合えんわ」
「……はい?」

 きょとんとするコノに微笑みかけて、俺は、歩き出す。

「ちょ、えっ?! おっ、沖継くん?!」

 階段を駆け上がり、部屋に戻る。机の上のクレードルへ差していたスマホをポケットへねじ込む。財布と紳士のハンカチも一応持っていくか。あとは稜威雄走がありゃ最高だったんだけどな。しょうがない。

「何なの何なのさっきの一体どういうこと?! 意味わかんないよねえちょっと!!」

 後を追ってきたコノをひらりと躱して部屋の外へ。階段を駆け下り玄関へ。靴を履こうとしたんだけどしっくりこなくて、一度靴紐を解いて念入りに結び直し始める。

「沖継くん! 沖継くんってば! どこ行くつもり?! ねえってば!」

 階段を駆け下りてきた勢いそのまま、コノが背中にしがみついてきたんだけど、俺は靴紐を結ぶ手を止めない。

「お前はさ、ほんとにいい女だと思う。可愛いし、気が利くし、優しいし」
「……え、えと、あ、うん、ありがと」
「お前が側にいてくれたお陰で、俺、どれだけ救われたかわかんねェよ」
「え、えと、いやあ、それほどでも……」
「でも、それはそれ、これはこれ」
「…………」
「俺の側にいたら、お前はますます傷つくし、泣き続けることになるから」
「……何、よ、それ。意味わかんないよ、何をいきなり……」
「いきなりじゃねェだろ。今まで何度も同じことを言ってきたよ」

 よし、靴紐ばっちり。これなら絶対に解けやしねェぞ。
 立ち上がって、靴の具合を確かめながら、すがりつくコノの手をやんわりと払って。

「他の男を探してくれ。お前なら、すっげェいい男を捕まえられる。今まで残念だった分をまとめて取り返すくらい幸せになれる。絶対だ。他でもないこの俺が保証する」

 俺は力強く歩み出し、外に出る。

 その瞬間の覚悟の強さと肚の据わりっぷりは、自分史上ちょいと類がなかった。

 結局俺は、ハナッからこうしたかったんだ。そのための理由を三千年近く昔まで遡って探してたんだ。ったく、我ながら呆れかえるわ。バカじゃねえのか。

「……バカで上等だ」

 そうさ。バカってのは一度走り出すと止まらない。歴史を見てみろ。世の中を変えるのはいつだって、肝の据わった大馬鹿野郎どもだ。ああそうさ、何もかも変えてやる。勝てない相手に勝って、助けたいヤツを助ける。たったそれだけの簡単なミッションだ。

 待ってろよ、間に合えよ、今すぐ行くからな。


5-5:最強の刺客

「……どこに行く気だ? 沖継」

 声をかけられたのは、家の前にある道路に出たその瞬間だった。
 側にある電柱に背を預け、腕を組んだ拓海が、そこに居た。

 ――お前、こんなとこで何やってんだ?

 そんな疑問が一瞬浮かんだけれど、理由なんてすぐに察しがついた。

「いや、ま、ちょっとヤボ用で」

 注意深く、ゆっくりと、拓海の方を振り返る。
 この俺が、こんな近くにいた拓海の気配に気付かなかったとはな。完全に背中を見せちまった。声をかけられるまで気付きもしなかった。弛んでるな畜生、鍛え方が足りん。

「おっ、沖継くん! 待って! まっ……えっ?」

 慌てふためいたコノが転げるようにして玄関を飛び出てきたのはその時だったんだが、思わずポカーンとするのも無理はない。勢いよく家を出て行ったはずの俺はまだ門前に立ってるし、その視線の先には拓海が立ってるんだから。

「ぁ……っ、ぇ……」

 俺と拓海を交互に見た後、コノが何か言おうとしたんだが、声にならなかった。
 気圧されたんだろう。
 ニブチンを絵に描いたようなコノでも、俺と拓海の間に尋常じゃない空気が流れてることくらいはさすがに感じ取っただろうしな。

「家に戻れよ」

 目の端でコノの姿をちらと見てから、拓海が言う。

「お前は滝乃の側にいるべきだ。それで万事丸く収まる。わかるだろ」
「いや? さっぱりわかんねェ」

 俺は拓海を挑発するように、わざと軽い口調で。

「コノはお前に任せるよ。家まで送ってやってくれ。急いでんだよ、俺」

 けれど拓海は、眉一つ動かさない。

「どこに行けばいいのか、わかってるのか」
「見当はついてる。三峯だろ? 秩父の山ん中」

 拓海の眉がちょっとだけ動いた。

「俺が二十年前にやられた場所だ。都内からのアクセスは良好で民家もまばら。どんな重火器を使っても誰にも迷惑かかんねェし、バケモノじみた正体を晒しても問題ない。リターンマッチに挑む結女にとっても、返り討ちにして本当の決着をつけたい堤塞師にとっても、これ以外の場所はちょっと考えられないからな」
「……そんなことまで、思い出したのか」
「ああ、何もかもな」

 ウソだけど。

「でもな、今から行っても間に合わないぞ。全部終わってるかもしれない」
「そりゃあどうかな? 俺は結女が持ち堪える方に賭けるね」
「根拠は」
「直感。あと夫婦愛」
「ふざけてる場合か。行けば本当に終わりだぞ。せっかくの恩赦も取り消しだ。主の御使いに楯突く最悪の敵が蘇ったと見なされる。殺されるだけだ。それでも行く気か」
「くどいな。行くっつったら行くんだよ」
「…………」
「で、それを知った御使い候補生の拓海くんは、何をどうするおつもりで?」

 拓海は暫し俺の目を見つめてから、電柱から背中を離し、組んでいた腕を解く。

「信じた正義を貫くだけだ。俺の父さんと同じように」
「ま、そうだろうな」

 俺は紳士のハンカチを取り出し、拳に固く巻き付ける。

「ちょ、っと……二人とも、何してるの? 何する気なの?!」

 狼狽えたコノが悲鳴に近い声を上げるけど、俺も拓海も構ってる余裕は――。

 いや、待てよ。

「あのさ。おっ始める前に一つ、訊いときたいことがあんだけど」

 気の抜けた俺の声に虚を突かれたのか、拓海が目をぱちくり。

「お前さ、俺が出て来なかったら、朝までそこに突っ立ってるつもりだったのか?」

 拓海の表情は変わらない。返事もなかった。
 でも、心の内がぐらりと揺れた。そう感じた。

「へえ、そうかい。そりゃおかしいよな、変だよな」
「……何が」

 応じた拓海の声が、わずかに焦れていた。

「堤塞師が俺に見張りを付けるのは当然だ。あのおっさんは俺のことなんか微塵も信じてねェからな。念のために足止めはしときたいだろ。でも配下の魔人どもは使えない。覚悟を決めた結女は文字通りの死に物狂いだ、窮鼠猫を噛むってことも充分ありうる」
「だから俺が来た。それがどうした」
「そこまでは別にいいんだ。そっからが変なんだよ。なあコノ、お前もそう思うだろ?」

 急に話を振られたコノが「ほえ?」とか変な声を上げる。

「俺がお前の立場だったら、テキトーに理由をでっち挙げて何が何でも家に上がり込むぜ。だってそうだろ、コノと俺が、男と女が二人っきりなんだぜ? 惚れた女が他の男とくっつくのをすぐ側で黙って見てるなんて死んでもゴメンだ」

 コノは目をぱちくり。
 まあそうだろうな。お前は全然気付いてなかったろうし。

「そりゃな、コノが惚れてんのは俺であってお前じゃない。俺がいる限りコノがお前の方を向く可能性はゼロ、下手に告ってもフラれるのが関の山。だからお前は何もしなかった。コノと俺をくっつけようとしてた。親友の俺とくっつくならまだ我慢もできる、コノにとって信頼できるボーイフレンドの一人で居続けられればそれでいいってさ」
「勝手に決めつけるな。俺はそんなこと思ってない」
「へえ、違ったか? じゃあ、真面目を絵に描いたようなお前のことだ、今は色恋沙汰にかまけてるヒマはないって考えて、自分の気持ちを必死でごまかしてたのか」
「……うるさい、黙れ」
「今の自分はまだまだ未熟だから、いつか自分の思い描く理想の姿に届いたら……いつか俺に勝てる自信がついたら、男として源沖継よりも自分の方が上だと証明できたら、その時にまだ俺とコノがくっついてなかったら、堂々と俺を押し退けてコノの隣に立てばいい。だからあんなに毎日必死で……」
「黙れ」
「何を怒ってんだよお前。違うっつーなら鼻で笑って流せばいいだろ。ははーん、さては図星を突かれたもんだから誤魔化せねェんだな? 大好きなコノちゃんにだけはボクチンのピュアなこの気持ちを知られたくなかったのに、ってか?」
「…………」

 拓海の目から、憤怒の炎が漏れてきた。
 正直、確信は持ってなかった。ひょっとしたらそうかもな、くらいにしか思ってなかったよ。でも、こりゃもう間違いない。

 拓海はコノに惚れてたんだ。
 しかも中途半端じゃなく、かなりマジで。

 いろいろあって決定的な敵同士になっちまったが、それでも拓海は俺の大切な友達だ。面白半分にデリケートな部分をつつき回すような真似はしたくない。男同士の意地の張り合いにコノを巻き込むような形になるのも不本意だしな。でも、それでも。

 これだけは、確かめさせてもらう。

「はえっ?! ちょ、ちょちょちょっ、沖継く……」

 俺は側にいたコノの肩に手を回し、強引に抱き寄せる。

「拓海に教えてやれよ、コノ。さっきまで俺たちが何をしてたか」
「……へ?」
「ほらほら、あんなに嬉しそうに言ってただろ? これで私は沖継くんのものになれたんだねって、すっごい幸せって、めちゃめちゃ嬉しいってさ」

 何がなんだかわからなくて混乱の極みにあるコノの顔に、俺は頬摺り。

 その瞬間。

 空気が強引に引き裂かれ、岩が砕ける。思わず背筋が震えるそんな音が真夜中の路地を疾っていった。

 すぐ側にあった電柱へ、拓海が握り拳を叩き付けたんだ。

 電柱は激しく揺さぶられ、電線がたわみ、周囲の民家や外灯の明かりが明滅する。まるで小さな地震でも起きたみたいだった。

「……俺が、どんな気持ちで」

 拓海の唇から漏れた声は、怒りと怨嗟に震えていた。

「どんな気持ちで滝乃を譲ったか、知りもしないくせに」

 拓海の拳が殴りつけた電柱から離れる。瞬間的にどれほどの力が加わったのか、拳の一撃を食らった電柱の表面は砕け、ひび割れていて、粉状になったコンクリートがパラパラと音を立てて落ちていく。
 俺は内心、ちょっとビビってた。まさかここまで鍛えてるとは思ってなかったし。
 でも、それ以上に。

「譲ってくれなんて頼んだ憶えはねェよ」

 こっちも腹が立ってきた。
 抱き寄せていたコノの身体を、やんわりと押し退け、遠ざけながら。

「だいたいな、コノはお前の所有物じゃねェぞ。譲るもへったくれもあるか。それとも何か、親父さんに指図でもされたのか。コノと無理矢理くっつければ俺をフツーの高校生に縛り続けていられるとかよ。戦わずして封じ込めて今後も計算通りにコトが運べるって。ひいてはそれが日本の解体と世界の安定に繋がるってさ。今まで一度も告ろうとしなかったのも、俺とコノを応援し続けてたのも、何もかもぜーんぶ堤塞師の差し金か?」

 拓海の答えは、ない。
 ああ、そうかい。それ自体が明確な答えだよ。

「なるほどね、お前のなりたいヒーローってのは、パパの言いつけ通りに頑張るイイ子って意味だったのかよ。ずいぶんとヤワい正義の味方だなオイ」
「…………」
「それでよく、大人になれとか何とか、俺に向かって偉そうなことが言えたもんだな。ガキのままでこれっぽっちも成長してないのはてめェの方じゃねえか、バッカバカしい」

 拓海の口元が、動く。
 うるさい、と言ったようだが、声にならなかったらしい。
 怒り心頭、怒髪天。もう声も出ねェってか。

「アホでマヌケな拓海ぼっちゃんにもわかりやすく教えてやるよ。正義ってのはな、世界がどうの平和がこうの、偉そうなお題目でゲタ履いて背伸びしたところにゃねェんだよ。これ以上は絶対に下がれねェ、もう一歩も譲れねェ、そういう場所にあるもんだ」

 じゃりっ、と。
 俺は、その場で、足を踏みしめる。

「惚れた女すら譲っちまったカス野郎が。俺の前で二度と偉そうに正義を語ンじゃねェ」

 ――拓海の身体が、動いた。
 そう認識した次の瞬間、俺との距離はもう縮まっていた。地を蹴った勢いを微塵も逃がさず右の拳へ集約し、俺の顔面、いやそのちょい下、人体の急所の一つである喉仏を最短距離で刺しに来た。

 この野郎。本気で俺を殺す気か。

 でもな、この俺相手にいきなり急所を狙ってくるってことそれ自体が大失態なんだよ。挑発に乗せられて逆上してる証拠だ。渾身の力をこめて繰り出したその拳が万一外れたときのことを微塵も考えちゃいない。
 俺はほんの少しだけ上体を傾け、紙一重で拓海の拳を躱す。そのくらいはもう朝飯前だ。結女と出会ってからこっち、何度となく死線をかいくぐる中で取り戻した最大の武器。意識と思考の超加速。人ならざる力を持った魔人どもと互角に戦える今の俺にとって、単なる人間でしかない拓海との組み手なんぞは児戯にも等しい。
 拓海の脇を最小限の動きですり抜けつつ、俺は右の膝をちょいと持ち上げる。それだけでおしまいだ。俺の膝がカウンターの要領で拓海の鳩尾に突き刺さる。悪けりゃ胃袋が破裂するだろうが恨むんじゃねェぞ。俺は急いでんだ。お前とのじゃれあいに時間なんか割いてられね――って、えっ?

 防がれた?

 俺と拓海の肩が接触し、体勢が崩れる。いや、体勢が崩れたのは俺だけだ。拓海の方が俺よりも身長と体重で上回るから、体格差で単純に弾き飛ばされちまった。俺は慌てて身体をひねって地を蹴り、拓海との距離を取り直す。

 どうなってんだ、拓海のヤツが本気の俺と互角にやれるはずないだろ? 偶然か? 渾身の力で殴りつけようとしたから、そいつが外れて体勢がわずかに崩れただけ? 鳩尾と膝の間にたまたま運良く拓海の左拳が割って入ったのか?

 ああ、そうだ。間違いない。

 拓海は相変わらず怒り心頭、必殺の一撃を躱されてさらに怒りが増してやがる。自分の攻撃がスカったせいでたたらを踏み、不格好極まりない形で慌てて俺の方へ向き直ろうとしてやがる。意図して俺の攻撃を捌いた訳じゃない。

「なっ、何してるの?! やめてよ二人とも! やめてってばあッ!!」

 ようやく状況が見えてきたコノが必死になって叫び出したが、俺はともかく拓海の耳には聞こえちゃいねェだろな。見ろよあの顔。完全に逆上してやがる。尊敬する父親をバカにされ、自分の信じる正義を否定され、秘めた恋心をおちょくられた十八歳の青臭いガキが、鍛え上げた自分の力と恵まれた体格を過信して闇雲に突進してきやがった。

 なら、もう一回。
 さっきと同じ要領だ。拓海に先手を打たせて、こっちは後の先を取る。

「ぬああああアッ!!」

 奇声を上げながら突進してきた拓海が渾身の蹴りを放とうとする。気合いだけは買ってやるけど、身体のあちこちに無駄な力が入りまくりで攻撃の起こりが丸見えだ。
 俺は半歩だけ踏み込み、無防備な拓海のこめかみへ左のフックを送り込む。
 それで、今度こそ、おしまいだ。

 そのはずだった。

 完璧なタイミングだった。間違いなく後の先を取った。そう確信したから俺はフックを繰り出した。これを拓海が躱せる道理は無い。
 けれど。
 半歩踏み出した足を踏ん張り、腰を固め、背中から胸へと力を受け渡し、俺が左の拳を繰り出してもなお、拓海の蹴りが飛んでこない。
 ガチガチに力が入った蹴りの動作が、何故か途中で止まったまま。

 ――まずい。

 直感的にそうわかってはいたが、物理的な誓約に縛られた身体は加速した意識ほどには素早く動いてくれない。俺のフックの動作はもう止められなかった。一方の拓海は、蹴りの予備動作をキャンセルしたまま、まったくムダのない最小限の動きで俺の顔面へ拳を飛ばす。もちろんその拳に威力なんかない。手だけで繰り出したジャブ以下のへなちょこパンチだ。パチンと音を立てて俺の顔をちょいと揺さぶっただけ。

 でも、その拓海の攻撃で、俺のフックは軌道を狂わされて空を切る。
 攻撃がスカったことで、俺の身体はどこもかしこも隙だらけ。

 そこに、予備動作で制止していた拓海の蹴りが、今度こそ本当に飛んでくる。
 渾身の力をこめた、とてつもなく重い一撃が、襲ってくる。

 避け――られない。

「ッがっ……!!」

 俺の足が完全に地を離れ、身体が吹き飛ばされて、俺んちの塀へと叩き付けられる。単純に蹴られただけでもシャレにならん威力なのに、コンクリート製のブロック塀に受け身も取らずに突っ込んじまった。激痛で一瞬意識が飛びかける。

 そして、ハッと気付いた時には。
 俺の頭のすぐ側に、岩のように固められた拓海の拳が迫っていた。

 そこから後の流れはもう認識できなかった。俺はとにかく避けるのに精一杯、余裕なんか微塵もなかったから。我に返った時にはアスファルトの上にスッ転んでいて、俺の代わりに拓海の拳をまともに食らったブロック塀を、ガラガラと音を立てて崩れていくその様子を、ただ呆然と見上げていたんだ。
 みっともねェ。すぐ側で腰を抜かしてへたり込んでるコノと何も変わりゃしない。

 でも、もしも、泡食って必死になって不格好に逃げていなければ。
 拓海のあの拳を、避け損なっていたら。

「いつだったか、お前が教えてくれたんだ。沖継」

 倒れたままの俺を見もせずに、拓海が言う。

「人間相手の戦いは、究極のところ、騙し合いだって」

 拓海が、ゆっくりと首を巡らせて、俺の方を向く。

 そこにいたのは、怒りに我を忘れて突進してきたバカ野郎じゃない。ぞっとするほど冷え切った何の感情もない殺人機械だった。

 この野郎、馬鹿正直を絵に描いたような中学時代からずいぶん成長したもんだ。小癪な罠を張るようになりやがって。ハナっから何もかも仕込みだったのかよ。

「お前、格闘家より役者の方が向いてると思うぜ」

 背中のバネを使って、一息で飛び起き、立ち上がる。

「さすが、親父さんのスパイを何年もやってただけはあるよ。それともアレか、その演技力、コノに惚れてるってバレないようにごまかし続けた賜物か?」

 軽口を叩きながら、俺は全身を揺すってダメージを確かめる。痛いところはどこにもない。大丈夫だ、問題ない。今のところはな。

 すまん、結女。もうちょい遅れるぞ。簡単には片付きそうにねェわ。

 俺は構えを取り、気合いを入れ直す。余計なことは一切考えない。ただ拓海に勝つことだけに集中する。そのくらい本気も本気でいかないと――。

「それじゃダメだ、沖継」

 拓海が俺の方をちらと見て、失望したと言わんばかり溜息をつく。

「お前、集中力ってものを勘違いしてるよ。本当の集中力ってのは、余計なノイズをカットして針のように意識を研ぎ澄ませていくことじゃない。思考や判断は早くなるかもしれないが、所詮そこ止まりだ。出来ることはたかが知れてる」
「…………」
「明鏡止水ってよく言うよな。感情を切り捨てて心の平穏を保て、それが武術の極意だってさ。でもな、どんなに意思の力が強くても、本能的な恐怖や荒れ狂う闘争心を無視し続けるなんてできっこない。命のやりとりをしてる最中ならなおさらだ」

 俺の脳裏に、蘇る。
 学校で、教室で、魔人どもに殺されかけた時のこと。

「でも、それでいいんだ。そういうものだと受け入れろ。喩えるなら台風の目だ。感情の海が荒れ狂うほど、ど真ん中にぽっかり空いた部分が広がっていく。それを感じ取るんだ。そこに自分の芯を置くんだ。何もかも根こそぎ薙ぎ払う嵐みたいな圧倒的な強さってのは、喜怒哀楽すべての感情を武器に変えて初めて手に入るんだ」
「……えらっそうに講釈垂れやがって。俺より強いつもりかこの野郎」
「ああ、そのつもりだ」

 拓海は、悠然と受けて。

「お前の底は、もう見えた」
「ケッ、たかが十八のガキがよく言いやがる」
「三千年生きてきたからって思い上がるな。お前はその間、自分より本当に強い相手と何度出くわした? 俺の父さんと殺り合うまで負けたこともなかったんだろ?」
「…………」
「俺は違う。ここ数年、毎月のように、何度も何度も死ぬような目に遭ってきた。そのくらい厳しい修練を積んできたんだ。その相手が誰なのかは……わかるよな?」

 クソッタレが、今やっと腑に落ちたぞ。
 こいつの十八年間は、並のヤツらの十八年じゃなかったんだ。

「忘れるな。俺は、最強の御使いの息子なんだ」

 拓海が、歩み寄ってくる。
 構えを取った俺と違って、だらんと両手を下げたまま。

「……ちっ」

 後手に回れば不利と見た。俺は先手を取って仕掛けにいく。
 拳を繰り出し、蹴りを放ち、隙あらば投げ技か関節を取って――。

「……っ、がは、っ」

 拓海の拳が、俺の脇腹へ突き刺さる。
 でも、ギリギリのところで急所は外した。モロに食らった訳じゃない。

「まだまだっ……!!」

 今度は目一杯意識を加速させて挑む。
 フェイントを二重三重に積み重ねて、懐に飛び込んで――やる、つもりが。

 拓海の裏拳が、俺の側頭部に直撃する。

 拓海の体勢は俺のフェイントで崩れていたし、満足に力なんて込められなかったはずなのに。何千回何万回と繰り返してきた鍛錬の賜物か、俺の脳味噌を効果的に揺さぶるポイントを的確に突いてきやがった。

 俺の視界が歪む。意識が途切れそうになる。身体の動きが滞る。

 その隙を、拓海のヤツが見逃すはずもない。

 前蹴り。テクニックも何もないその一撃が俺の胸を直撃する。フッ飛ばされる。アスファルトの上に投げ出され、ごろごろと転がりながら、俺はその威力を利用して素早く立ち上がる。けれど膝がカクンと折れた。立てなかった。
 地面に手をつき、やっとのことで前を向く。

「はぁ、はぁ……はあ、はあっ……はあっ、はあっ……」

 息が上がってる。汗がどっと噴き出し、額から頬を伝い落ちていく。
 ウソだろ。一分も動いてないのに。消耗しすぎだろ俺。

「……だから言ったろ」

 対する拓海は、疲労のヒの字も浮かべちゃいない。

「お前の底は、もう見えたって」

 今度は、拓海の方から攻めてきた。
 俺は、拓海の放ったローキックを受け止め――ようとして、受け止められない。足の骨が砕かれたかと思うほどの激痛が走る。
 続けて拳が飛んできて、これをスウェーで躱し――たつもりだったのに。拓海の拳が俺の顔面を捉える方が早かった。
 たたらを踏んで、後ろ向きにスッ転ぶことだけは堪えた。いくらか威力は削いだけど、口の中はもうズタズタ。生臭くて鉄臭い血が口の中に溢れかえる。

 けれど、その血を吐き出すヒマもなかった。
 拓海の踵が、俺の首から上を薙ぎ払う。

 びしゃっ、と音を立てて、俺の口から大量の血が飛び散った。みっともなく地面を転がりながら、俺は何が起きたのかを必死で把握する――あ、ってことは俺、まだ死んでねえのか。今は完全に殺られたと思ったけど。運が良かっただけだなこれ。

 多分、拓海の後ろ回し蹴りをモロに食らったんだろうけどさ。そんな大技をまともに食らうとかマジで有り得ねえ。ここまでの攻撃で俺を追い詰めながら死角に回り込んでたのか。鮮やかすぎて感心するわ。咄嗟の判断ができる地頭の良さ、思い通りに動いてくれる鍛え上げた身体、どっちが欠けても成立しない完璧なコンビネーションじゃねェかよ。

 とにかく、起き上がらなきゃ、立たなきゃ、そして反撃を――。

 そう考えた俺の手が、ほとんど無意識に、ジャケットの懐、左脇、腰の後ろを探る。

 何もない。
 ピンチの時、いつも頼りにしていた武器は、何もない。

 武器ありきの戦いに慣れすぎている自分に初めて気付いた、その刹那。

「……ゲはっ」

 腹を、蹴られた。

 クソが、俺はサッカーボールじゃねェぞ、畜生。

 地面を跳ね、ごろごろと転がりながら、どこかの家の生け垣に突っ込む。

 と思ったら、胸ぐらを掴まれて。
 腕一本で無造作に放り投げられる。
 生け垣の反対側にあったコンクリの壁に、叩き付けられる。

 まずい、意識が朦朧としてきた。
 手足の感覚がねェ。

 その後、何発も殴られて、蹴られて、アスファルトの上を転がされ、壁に突っ込んで、血反吐を吐き、骨が軋み、あちこち傷だらけ、痛みで呼吸するのも難しくなって。

 そのうちに、だんだん、危機感が薄れてきた。
 俺の本能が、絶え間なく襲ってくる苦痛をカットすることだけを優先し始めてる。

 やべえな。マジで。
 正攻法じゃ、勝ち目、ねェわ。

「……ぁ……ぁ、っ……!!」

 声にならない悲鳴が、遠くの方で、微かに聞こえた。
 ブッ倒れて這いつくばったまま、目だけ動かして俺んちの門の方を見ると、腰を抜かしたままのコノが這うようにして家の中へ入っていく様子が見えた。

 警察に電話でもするつもりかな。俺と拓海の喧嘩を止めたい一心で。

 いや、あいつはそこまで冷静に考えられんわな。拓海の殺気に怯えてるのもそうだけど、俺が一方的にボコられるのを見るのなんて初めてだろうしさ。おまけに血ィ吐いて倒れて這いつくばったままぴくりとも動かないんだから。取り乱すのが当たり前か。

 そのコノの異様な様子に、拓海も気付いていたはずだけど。
 心の中まで鬼と化したのか、もう、惚れた女にすら見向きもしない。

「……立てよ、沖継」

 拓海が言う。俺の方には近付いてこない。一定の距離を保ってる。

「気絶したフリは止せ。手応えでわかってる。ギリギリのところで致命傷だけは避けてるはずだろ。感心するよ、流石だって褒めてやる。でもな、そんな猿芝居で油断するほど俺はバカじゃない。見くびるな」

 見透かしてやがったか。

「っ……たく、おま……えさ、こん、なに……」

 あちこち激痛が走る身体を必死で動かし、立ち上がりながら。
 俺は、自分の肉体年齢をほんの数日分だけ巻き戻す。
 出血が止まり、痣が薄れ、痛みがスーッと引いていく。

 生まれ直して以後、初めて使う奥の手だった。

「……こんなに、強かったのかよ。よくも今まで隠し通せたもんだ。詐欺だろ畜生。前言撤回だ、お前は役者より詐欺師に向いてンよ。大成功間違いなしだぜ、保証してやる」

 拓海に気付かれないように、余裕を装う。

 俺はもう、まともに話すだけで精一杯。

 俺が拓海に優越してるのは、もはや人ならざる特殊能力だけ。そう思って使ったんだ。怪我だけでも治せば長期戦にもつれ込めるんじゃないか、拓海がバテれば勝機も見えてくるかもなって。
 でも、バテたのは俺の方だった。怪我が癒える代わりに身体が鉛みてェに重くなりやがった。何日か断食したみたいだ。疲労の度合いがハンパじゃない。こんなの想定外だ。
 中途半端に若返ったせいか? 不要な細胞を切り捨ててエネルギーとして再利用できなかったから? だったらいっそ十四、五歳まで戻れば――って、ンな真似したら背も縮むし体重も減る。ただでさえ俺の方が体格で劣ってんだぞ。リーチを短くして一撃の威力を減らしちまったら、人類最強クラスの格闘バカにそれこそ瞬殺されちまう。

「どうした? 沖継。もう終わりか?」

 拓海のヤツが、一足一刀の間合いまで近付いてくる。
 俺は、もう、逃げることもできない。

「何言ってんだ、こっから始まンだよ、俺の華麗な逆転劇は――」

 喋ってる途中で、遮られた。
 拓海の拳が、俺の鳩尾へモロに突き刺さっていた。

「……か、はッ……」

 膝から頽れた俺は、身体をくの字に折って額を地面に擦りつける。殴られた腹を両手で抱え、みっともなく大口を開けて涎をダラダラ流しながら苦悶に喘ぐ。

 その俺の後頭部、首と頭の付け根のところを、拓海の足が踏みつけてくる。

 やべえ、全然身動き取れねえ。このままじゃ首の骨が――くそっ、バカみたいな力で踏みつけんなっ。

「最期に、何か言いたいことは?」

 ぞっとするほど、冷たい声。
 マジで殺る気だ、こいつは。

「遺言くらいは聞いてやる。友達だしな」

 ――意外な言葉。
 拓海は別に、深く考えて言った訳じゃないんだろう。圧倒的な優位に立って、戯れ言の一つも言いたくなった。それだけのことなんだろうけど。

「……楽し、かったぜ」

 何で、そんな言葉が出て来たのか。
 自分でも、よくわからなかった。

「バケモノに、殺られるよりは……ダチの、お前に、負けた方が……マシだ。諦めもつく」

 言った後に、自分でも気付いた。
 あんま悔しくねェってことに。

「酷いこと言って、悪かったな。頑張れよ、正義の味方」

 それで俺は、目を閉じた。

 ごめんな、結女。せめてもっかい会いたかったよ。

 そう思いながら、最期の瞬間を、待つ。



 ――待つ。



 待ち続ける。



 っておい、いい加減にトドメ刺せよ。痛ェんだよ首が。



「……だったら」

 拓海の声。

「だったら、何で……」

 震えていた。

「俺が、何のために滝乃をお前に……俺は、俺は本当に、お前と一緒に」

 そこで唐突に、拓海の声は途切れた。
 いや、その寸前に、不自然な音がしたような。

 何かが、拓海にぶつかったような。

「……? あれ」

 拓海のヤツが、俺の首から足を離しやがった。
 何で? どうなってんだ?

 自由になった俺は、地べたから拓海の姿を見上げる。
 拓海は愕然とした顔で、視線を宙に漂わせていて。

 その拓海の後ろに。
 ひくっ、ひくっ、と、涙に噎いでしゃくるような息を継ぐ――コノが、いた。

 いつの間に? 足音もしなかったぞ? と不思議に思ってコノの足元を見ると、靴を履いてない。片方は靴下、片方は素足。

 そして、そのコノの足元に。

 ぽたっ、ぽたたっ。

 滴り落ちてくる赤いものがあった。

「お、おい、ちょっ……」

 ゾッとした俺が慌てて身体を起こしたのと、拓海が自分の背後を振り返ったのはほとんど同時だった。だからこの時、自分に何が起きたのかを全て理解した拓海がどんな顔をしていたのか、それは俺にはわからなかったんだけど。

 拓海の巨体が、ゆっくりと、頽れていく。
 そして、血まみれの包丁を両手で握り締めたコノだけが、そこに残った。

「お、おま……っ、よりによって刺身包丁って……!!」

 突っ込むところはそこじゃねェだろと我ながら思ったけど、とにかく拓海は無事なのか、いや待て今の俺にとっては無事じゃない方が何かと都合はいい――ああもうちょっと落ち着けよ俺それとこれとは話が別だ!
 自分の頬を自分で叩いて落ち着かせ、倒れた拓海の身体を急いで確かめ――げっ、なんじゃこの出血量! そりゃショックで意識も飛ぶっちゅーねん! 紳士のハンカチで塞ごうとしたけどあっという間に真っ赤っか、これ絶対ヤバイいよシャレにならんぞほっときゃ死ぬぞ?!

「おい拓海しっかりしろ! 死ぬなよおい! コノなにボケッとしてんだ救急車呼べ救急車! あとそれ捨てろ手に持った物騒なのを今すぐ早く!」

 何せここは天下の往来。住宅街のど真ん中で人気はまったくないんだけど、さっきまで俺と拓海が派手に喧嘩してたんだ。ご近所の誰かが不審に思ってひょっこり顔を出してくるかもしれん。そうなったらコノの人生が大ピンチ。
 でもコノは、泣き顔のまま、肩を竦めて左右に首を振るばかり。

「ああもうほんとにお前ってヤツは世話が焼けンだからさあっ!!」

 とりあえず文字通り出血大サービス中の拓海は放っとく。お前だって惚れた女を殺人犯にはしたくないだろ我慢しろ、っていうか絶対死ぬなよ意地でも生きろよ病院に行くまでは根性で保たせろよ絶対にだ!

「ほらっ、コノ、手を離せ、離せってば……っ」

 コノから包丁を取り上げようとしたんだけど、柄の部分をガッチガチに握り締めてて硬直しちまってる。自分じゃもう手を離せないらしい。多分アレだろサスペンスドラマのヒロインにありがちなヤツで殺意はないけどめっちゃ混乱してて追い詰められて咄嗟にやっちゃったはいいんだけど想像もしなかった馬鹿力を出しちゃって手が硬直して指を一本一本引き剥がさないとダメなんだよなコレ。そうでしょうねわかってますよわかりますよそうなりますよね自然なことだと思いますよ。でも、でもなあ、何なんだよホントにお前ときたらどこまで残念な人生を送る気なんだよ!

「……っ、て……だって……おきつぐ、くんが……」

 もうちょっとで包丁が引き剥がせるって時に、コノが言う。

「死んじゃう……殺されちゃうって、だって……私しか、わたしっ……」

 うーん、愛が重い。推定五トンはあるな。

「わかってる、わかってるから、泣くな」

 よし、包丁ゲット。そしてポイ。俺の指紋で上書きされたからもう大丈夫だろ、どんな極悪犯罪でも完璧に揉み消す我が国の優秀な警察官がよろしく処理してくれる。多分。

「あと、上着貸せ。パーカー脱げ。早くしろ早くっ」

 コノからパーカーを受け取った俺は、それを強引に引き裂いて即席の包帯を作りつつ、倒れた拓海の側へ歩み寄る。何とか応急処置して止血を――ダメだこりゃ、刺された場所が悪すぎる。患部を圧迫し続けて少しでも血の流出を止めるくらいしか方法ねェぞ。

「コノ、こっち来い。ここんとこ押さえてろ。……何してんだ急げ!」

 コノは首を振りながら、よろめくように半歩ほど後退る。大好きな沖継くんを殺そうとした拓海くんなんかもう友達でも何でもないってこと? その気持ちはわかるんだけど殺されかけた本人が必死で手当てしてんだからお前も少しは察してくれよ!

「いいから言う通りにしろ! ほら! こうやって、この布きれでここんとこをしっかり押さえて! ……そうそう、それでいいんだ、よーしよし」

 嫌がるコノを無理矢理拓海の側に座らせて止血を任せ、俺は懐からスマホを取り出す。
 拓海とやりあってる間にディスプレイ割れちゃったのか。それでも問題なく動いてくれるみたいだけど、畜生め、去年の夏に必死こいてバイトしてようやく買ったお気に入りだっつーのに。もし拓海が一命を取り留めたら絶対弁償させてやる。

「もうすぐ救急車来るからな、コノ。それまでそこ動くなよ、拓海の傷を塞いでやってろよ。大丈夫だ、何の心配もないから」

 言い置いて、歩き出す。

「え……お、沖継くん? どこに行くの?」

 コノが不安げに訊いてきたけど無視。んなもん決まってんだろ察しろよ。

 拓海のヤツは、さっき確かにこう言ったんだ。
 今から行っても間に合わないぞ、全部終わってるかもしれないって。

 つまり、俺と拓海が殴り合いを始めたあの時点では、結女と魔人軍団の戦いは始まっても終わってもいなかった。少なくとも拓海のところにそういう連絡は来てなかったんだ。
 加えて拓海は、一晩中ここで俺を見張るつもりでいた。全てが決着するのは明朝になるかもしれないと考えてた証拠だけど、あいつは俺の監視役であり足止め要員。大局を見て独自にそう判断したワケじゃないだろ。指揮した堤塞師が目算を立てて、おおまかな予定を拓海にも伝えていた。そう見た方が自然だ。

 ただ、結女は戦闘力において俺に劣る。それは堤塞師も知っているはずだ。なのに朝まで戦いが長引く可能性を視野に入れるってのは不合理だ。何故なのか。

 堤塞師はきっと、何らかの方法で結女の行動を把握したんだ。結女は最悪でも魔人どもと差し違えるつもりだろうから丸腰で出かけていくワケねェし、政府や自衛隊に要請してかなり強力な武器を調達したはずだ。そのためには相応の時間が必要だし、間に入るスタッフの数も増える。つまり、敵に情報が漏れる機会も増えるってことだから――うん、我ながらいい読みだ。自画自賛に値するね。

 以上を総合的に考慮すると、開戦予想時刻は零時ジャスト。
 キリもいいしな。

 俺は手元のスマホを確認する。時刻は午前零時をいくらか過ぎたところだった。まだ始まったばかり。全てが終わっちまう前に何としても最終決戦の場に滑り込んでやる。

「ま、待って! 待ってよ! ここに居てよ! 行っちゃだめっ!!」

 スマホをいじりながら秩父までのアシをどう調達するか考え始めたとこだったので、コノが背後からすがりついてくるのを躱しきれなかった。身体ごとぶつかってくるもんだから俺まで刺されたかと思ったじゃん。

「おま、ちょ、放せ、急いでんだよ、いいからお前は拓海の方を……」

 何を言っても、コノは涙目で首を振るばかり。

「わかった、わかったよ、コノ。お前の気持ちは充分わかったから」

 とりあえずコノの手を取り、しっかと握り締めて。

「お前のお陰で命拾いした。助けてくれてありがとな。ホントに感謝してる。けどさ、俺だけ生き延びても意味ねェんだよ。お前だってホントのところは結女に生きてて欲しいだろ? せっかく仲良くなったんだろ? 友達になったばっかなんだろ?」
「で……でも、でも……っ、だけどっ……」
「夫婦ってのは二人で一人、そういうもんだ。俺の残り半分、無くしたままじゃいらんねェよ。取り返してこなきゃ。……心配すんな、大丈夫だ、俺は死ぬつもりなんて毛頭ねェ。ちゃんと帰ってくる。信じろ」

 コノはだだをこねた子供みたいに首を振るばかり。
 ま、そりゃそうだわな。ついさっき拓海ごときに殺されかけたの見られたばっかだし。説得力ゼロですよね。正直俺も生還できる自信ねェもん。

 もう、こうなったら。
 やるしかねェな。アレを。

「……なあ、コノ」

 俺は両手でコノの肩を掴んで、涙でぐしゃぐしゃになった顔を真っ直ぐに見据える。
 そしてコノも、泣き腫らした赤い瞼を一生懸命開いて、俺の目を見る。
 よし。今なら間違いなく、俺の心も言葉も届く。

「お前、そんなに欲しいのか。俺の子種汁が
「……は、え?」

 泣いていたコノの顔、見事に硬直。

「呆けた顔をして未通女のフリをするな。……いや、お前は本当に処女だったな。ならばよし、わかりやすく説明してやろう。女という生き物の本音は一皮剥けば皆同じ。男が欲しい、チンコが欲しい。結局はそれだ、それのみだ。いくら誤魔化そうとも牝と生まれた本能からは逃れられん。その恐るべき業が故に女は般若にも羅刹にもなる。ましてやお前は、本当にあと少しのところで俺とセックスできた。おあずけを食らってしまったその気持ち、察するに余りあるぞ。気が狂いそうになるのも致し方なしだ」
「…………」
「隠しても無駄だ。今夜ずっと穿きっぱなしのお前のパンツはししどに濡れてグッショグショ。発情した牝の匂いがここまで漂ってきているぞ。今も物欲しそうにヒクヒクしている様が見えるようだ。……だがな、生憎と俺の心の特等席はとっくの昔に予約済みでな。お前を座らせる余地など微塵もない。これっぽっちもない。未来永劫これは変わらん。そこでだ」

 俺はコノの腰に手を回し、強引に抱き寄せる。
 股間のナニを、コノの下腹あたりに堂々と押しつける。

「え、あ、ちょっ……!!」
「俺の心は微塵も分けてやらんが、身体のみであれば話は別。妻が不在の折には思う存分、随喜の涙を流させてやろう。俺の愛人になれ。それで万事解決。腰が抜けるほど可愛がってやるから、良い子にして待ってい……」

 俺の口説き文句、強制終了。
 ええ、激怒したコノにひっぱたかれて、思いっきり突き飛ばされましたので。

「……それでいい」

 赤く腫れたほっぺたをさすりさすり。どうして女の子の平手打ちってこうも痛いんだろうね。顔半分の感覚が麻痺しかけてやがる。つーか思いっきり叩きすぎだろオイ。

「お前の心と身体は、やがてめぐり逢う伴侶のためのものと知れ。せっかく咲いた美しい花、一時の気の迷いで散らせることはない。大事にとっておくがいい」

 俺は余裕を見せて笑う。カッコよく決まったと言うべきか、最悪の道化に堕ちたと言うべきか。まあ後者だろうけど。あっ、いやん、鼻血が垂れてきちゃった。

 俺はコノに背を向け、手鼻の要領でフンと鼻血を吹き飛ばしてから、今度こそ一人で歩き出す。コノはもう追ってこない。

 でも、それなりに間が離れたところで。

「な……によ、何が愛人よっ……結女ちゃんの口真似なんかでバカにしてっ!!」

 怒声が飛んできた。

「そんなに結女ちゃんが好きなら勝手にすればいいでしょ?! 沖継くんなんかもう知らない! 絶対待っててやんないんだから! 沖継くんの無事なんか絶対絶対ぜえったいに祈ったりなんかしないんだから! ばかあっ!!」

 俺は振り向かず、頭上に掲げた手だけをひらひら動かして答えておいた。

 ――結女の口真似、か。
 そんなの、しようとも思わなかったんだけどな。

 心優しい女の子たちを心ならずも惚れさせて、何度となくゴメンナサイをしてきた俺だけど、いつものテンプレじゃコノには絶対通じない。だから中途半端じゃ絶対ダメだって、百年の恋も一瞬で醒める最悪の印象を植え付けてやるって、そう決意して。

 そうしたら、あんな言葉がつらつらと口から出て来やがった。

 あらかじめ用意した台本を丸暗記して、その通りに諳んじてるみたい――でもないか。そんな生易しいもんじゃなかったな。同じ言葉を何度も何度も繰り返し言ってきたせいで、もうすっかり口が憶えていた、そんな感じだった。

「……?」

 俺は、はたと立ち止まる。

 デジャヴュ。

 ほんの一瞬、かつて見た遙かな昔に舞い戻ったような。
 ほっぺたに浮かぶ真っ赤なアザを、誰かが優しく撫でたような。
 嬉しがっているのか、呆れているのか、どちらともつかない曖昧な笑みを浮かべた誰かの顔が、すぐ側にあるような気がしたんだ。

「……やれやれ」

 そういや、リーダーも言ってたっけな。
 男なんて、いくら歳を取っても、か。

「俺、まるで変わってねェんだな。三千年も前から」

 何だかもう、笑うしかなかった。

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