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かくて救世への道を往く(4)

迷える子羊、考える


 大騒ぎになり始めたコーヒーショップを後にした四人は、立ち並ぶビルの屋上や住宅群の屋根を誰にも気付かれることなく飛び渡っていく。絶妙のバランス感覚と凄まじい跳躍力を持つ瑤子は基本的に身一つで、綾と久瀬はみつきの手を借りて。

 その最中、綾は昨夜の事件について一通り久瀬に説明しつつ補足をする形で、

「超能力研究の歴史は、二十世紀初頭、二度にわたる世界大戦の頃に始まったの」

 超能力に関する裏の歴史を語り始めた。
 しばらくは荒事が続くと予想できるし、一瞬の判断が状況を左右することもあるだろう。そこで久瀬が非協力的な態度を取れば、足手まといどころか全員の命が危険に晒される状況にも陥りかねない。信用を得るためのやむを得ない判断だった。

「当時はどの国家も新兵器の研究と開発に血道を上げていたわ。毒ガス、戦車、戦闘機、核兵器……近代兵器の多くが産声を上げる陰で、およそ軍事転用など望めそうもない分野にも莫大な予算が投入されていた。そこには当時ですら眉唾物だった魔術や悪魔召還、霊能力などのオカルトも含まれていたの」

 こうした超常現象の根源として指摘されたのが、人体でも飛び抜けて複雑、かつ特異な構造を持つ脳の働きだった。すでに第一次大戦の中頃には、人間は本来誰でもESPやサイコキネシスを発現しうる素養を有していることが確実視されていたという。
 そして、潜在能力を引き出すひとつのきっかけが、人間を生死ぎりぎりの極限状態に追い込むことだった。環境へ本能的に対応しようして、潜在能力が開花する可能性が飛躍的に高まるのだという。

「この研究に一番熱心だったのが、第三帝国の独裁者なの。実用化に先鞭をつけた大スポンサーよ」
「ヒトラーか? そういや、オカルトに熱心だったって話は聞いたことあるな」
「博識なのね。だったら話は早いわ。ほら、強制収容所の大虐殺、知っているわよね?」

 久瀬が眉を顰める。

「冗談だろ……。ナチのホロコーストが超能力研究のためだったってのか」
「それが全てとは言っていないわ。選民思想に基づく被差別民族の絶滅、戦時下で必要な奴隷的労働力の確保、毒ガスの人体実験。重なり合ったいくつもの理由の中に、超能力研究のサンプルを確保するためのふるいという側面もあった、ということ」

 ふいに久瀬は、綾の容姿が日本人離れしていることに思いが至る。

「……まさか、君は」
「ずいぶん察しが良いのね。ええ、私の曾祖父母は収容所の生き残りだそうよ」

 だが、この研究は世界大戦中には実用化されず、戦勝国である米、英、露らが研究データを略取。やがて時代は世界を二分する冷戦へ突入していく。

「一つでも多くのサンプルを欲した各国政府は、研究データを一部故意に流出させたの。世界中で研究機関が乱立、極過型の能力者も確認されて飛躍的に研究が進んだ。私のようなESP能力者の諜報員や、みつきと同じサイコキネシスを使う兵士が誕生しようとしていたのね。これが六十年代初頭のこと」

 ところが、研究はここで一つの終焉を迎える。
 種の存続に関わるほどの未曾有の危機──核戦争の恐怖を背景に、存在を隠蔽しきれないほど多数の超能力者が民間から現れるようになったためだ。

「特に七十年代の前半。超能力ブームが起きてスプーン曲げだ透視だって世界中が熱狂していたけれど、これは時の為政者にとって悪夢のような誤算だったのよ。政治家の嘘を見抜くESP能力者や、完全武装の兵士と素手で渡り合うサイコキネシス能力者が政府の管理外から生まれる可能性が出てきたのだから」

 そして、超能力研究は大きな方針転換を迫られた。従来とは正反対、いかにして民間から超能力者が発現するのを食い止めるか、という風に。
 具体的に取られた方策は、大きく分けて二つある。一つは潜在能力の発現要因を可能な限り解消すること。もう一つはマスメディアを使った情報操作。

「具体例を挙げると、前者は東西で協調しての世界的な軍縮の断行。後者は超能力をトリック扱いしたテレビの暴露番組ね。稚拙なほどシンプルな方法だけれど、効果は絶大だったわ。八十年代後半には誰も超能力の可能性に見向きもしなくなって、政府から基本的に放置されていた低レベルのESP能力者……霊媒師や霊能力者にまで疑惑の目が向いた。一時期は超能力者の特集記事が一般紙の三面記事を飾ったことすらあったのにね」
「……俺が子供だった頃でさえ、本気で信じている奴は一人もいなかったよ」
「そうでしょうね。たまに地震などの大災害が影響して能力に目覚める、あるいは超常現象を体感する人はどうしても出てくるけれど、今では政府機関が介入するまでもなくゴシップ扱いだもの」
「そう、か。ひょっとして、君らが昨夜会ったっていう松永とか言う奴も……」
「数人にリンチされた程度でいきなり目覚めたとは考え難いから、首都圏大震災の被災者ではないかしら。そういう調査は、あなたたち内調の方が得意だと思うけれど」

 それでも各国政府は超能力をうまく利用したいという欲を捨てきれず、研究は細々と継続されたのだが、一方、東西冷戦が終結して一応の平和が保たれた世の中では、非人道的な人体実験を積み重ねてきた負のデータを持て余す格好になってしまった。

「人間の頭を割って電極を差し込み、メスで肉体を切り刻んで神経を薬漬けにしてきた記録ですからね。ごく一部でも明らかになれば、どれほど多くの政府高官や政治家が首を吊るか知れないわ」

 そうして、超能力研究は先進諸国共同となりながらも統合後は縮小を繰り返していき、最終的には一極集中の形を取って、日本に研究所が移転される。

「ほら、八十年代の日本は貿易摩擦が原因で他の先進諸国から目の敵にされていたでしょう。それで、拒み切れずに押し付けられた格好らしいの」
「確かに、PKOだ何だのって国際貢献が叫ばれ始めた頃だが……。気持ち悪いくらい符合するな」
「符合して当然でしょう。すべて事実なのだから」
「…………」
「あとは、九十年代から二十一世紀へ……もう私たちの世代ね。精神サナトリウムに偽装された研究所で私が少女時代を過ごしている間に捨て子のみつきが保護されて、地方の陸上大会で百メートル走一秒半という記録を叩き出した瑤子が拉致された。まあ、研究所での暮らしに不自由はなかったけれど」
「それは教練役やってたあんただけでしょ、私や瑤子にとっては牢屋と何も変わんなかったんだから」

 いきなりみつきが話に割って入る。

「ついでに、ちょっと資金繰りが厳しくなったからって私のこと殺そうとまでするしさ。あーもう、思い出しただけでムカムカしてきた」
「殺す? 君を?」

 ここで、四人の先頭にいた瑤子が振り返る。

「構造不況のせいですよ。震災前まで大きな社会問題だったあれです。酷い話ですけど」

 瑤子もみつきと同じに、嫌悪感を隠そうとしない。

「その頃、研究所の運営資金を捻出していたのは日本政府だったそうです。でも、不況で税収は落ち込むし、お役所の帳簿もチェックが厳しくなる一方で、秘密裏に回せるお金が激減したらしくて」
「予算の問題で日向を殺す? 何か辻褄が……」
「センパイを中心に、超能力の強化措置プロジェクトが動いてたんです。これが恐ろしい金食い虫だったとか。でも、お金がないから死ねって言われて納得できる訳ありません。だからあたしたち、センパイと協力して研究所から逃げ出したんです」
「ちょ、ちょっと待て」

 久瀬は、しきりに首を振る。

「ここまでの話が本当なら……いや、俺が特務分室で見た資料が何よりの証拠とは思うが、でも、でもな、とても信じられん。各国政府は半世紀以上も人権無視の国家犯罪を続けていたことになるんだぞ。近代民主国家でそんな真似を続けられやしない」

 これを聞いた綾が、片眉を持ち上げて腕を組む。

「どうして、そう言い切れるの?」
「あのな、俺は官僚だぞ。君らが仇のように言う政府や体制側の人間なんだ。……本当にそういう研究を軍事目的で進めた政権があったとしてもな、いずれは選挙だ何だで別の政権が生まれるし、役人だって世代交代する。情報の隠匿には限界があるんだよ。旧東ドイツや旧ソ連がいい例だろう。政治家や役人も人の子なんだからな。人権無視の非人道的な真似を黙々と続けられやしない。絶対にだ」

 ここで、綾がふと、微笑んだ。
 久瀬にはそれが、ひどく場違いに感じられた。

「……何がおかしいんだ」
「あなた、意外といい人なのね。見直したわ」
「は……?」
「でもね、久瀬さん。人権なんて所詮、今の人間社会が保証している制度の一つに過ぎないの。それはあくまで、社会を構成する普通の人間に適用されるもの。人間の領域を越える力を手にした人間は、もう人間ではない。少なくとも私たちはそう扱われてきたし、これからも変わらないわ」
「…………」
「だいいち、義憤にかられた誰かが過去にいたとしても、その末路くらい想像がつくのではなくて?」

 今のあなたが証拠だと言わんばかりに、綾は久瀬を睨めつける。

「……なら、これが最後の質問だ」

 久瀬は気持ちを切り替える。
 過去についてはともかく、問題なのは現在だから。

「日本政府は……内調と山形参事官は、どうして君たちを保護してるんだ。政府が研究所の資金を出していたというのなら、それを壊滅させて逃げ出した君たちが敵になってもおかしくないだろう」
「えと、簡単に言うと、一応は日本の国益にかなってるから……とか、聞いたことがありますけど」

 こう言ったのはみつきだ。

「私たちが逃げ出す時、不可抗力で研究所が壊滅しちゃって、超能力研究に関するデータやノウハウが全部オシャカになったんです。そのせいで、私たちの存在自体にすごい価値が出てきたんだって。うちのお父さんが言うには……あ、私の養父母って、山形参事官の古い友人なんです。えーと……日本って名目上は他の国に攻め込める軍隊とか持ってないし、経済力だけで国際社会での発言力を発揮するのは難しいんでしょ? だから、私たちが日本政府の管理下にあるって思わせるだけでも意味があるんだって」
「核ミサイルみたいな話だな、おい……」

 呆れつつも、久瀬は理解できる気がしていた。
 潜在能力としての超能力が本来誰でも持っているほど普遍的なものなら、その開発ノウハウはどの国でも欲しがるだろう。まして先進諸国にテロ拡散の恐怖が蔓延している昨今なら尚更だ。超能力を持った兵士はテロリストやゲリラを殲滅しうる無敵のエリート・フォースたりうるのではないか。

「……待てよ。となると、君らを日本政府が独占するのは、世界中を敵に回すのと同義にならないか?」
「いや、そんなことないですよ。えーと、その」

 答えようと必死で言葉を選んでいるみつきを見て、瑤子が助け船を出す。

「山形さんが言うには、世界中の情報機関で思惑が違うから、どこも下手に動けないらしいです。三竦みの状態です。あたしたちを取り戻したいところもあれば、研究所と一緒に消滅して欲しかったところもあるし、日本政府の影響下に入ることを望んだところも」
「君らをどう扱うべきか、結論が出ていない?」
「そうです。だから今は、日本政府と内調の影響下にあることを渋々認めてるんだって。あたしたちが所属不明のままあちこち転々とするうち、うっかりテロリストやカルト集団に取り込まれるよりはずっとマシってことらしいですよ」

 これを聞いた久瀬は、思わず顔をしかめる。

「もちろん、あたしたちはそんなことしませんよ。でも、胡散臭い人たちがあたしたちを何度か勧誘してきたのは事実なんです。どこから情報が漏れたのか知りませんけど」
「……俺みたいな馬鹿が、過去にもいたのかな」

 久瀬の自嘲である。

「つまり、そういう連中の仕業と見せかけられれば、俺を殺した程度のことはどうとでも処理できる訳か。ついでに日本政府に無能のレッテルを貼り付けられれば、三竦みの状態からも脱せられて、君らを好きにできる可能性も出てくる……」

 久瀬が自分なりに噛み砕いた結論を導くと、綾が小さく拍手をしながら微笑みかけた。

「ご名答。本当にあなた、聡明な人なのね」

 しかし、褒められても全く喜べない。
 要するに、久瀬なら殺しやすいし殺してもいい、という判断をしている誰かがどこかに居るということなのだ。

「……何にせよ、冗談じゃない話だ」

 苦々しげにそう呟くのが精一杯である。

「んと、とにかく、そういうことです。本当は好き勝手に話しちゃダメなんですけど、詳しいことは山形さんが帰ってきたら聞いてみて下さい」

 こう言ったみつきに、久瀬は頷いてみせた。

「了解だ。ひとまずは理解できたよ、有り難う」

 この答えにみつきが安堵の息を吐く。自分たちを受け入れてくれたと思ったから。
 だが、久瀬の顔色を改めて見ると、眉を顰めざるを得ない。不機嫌というか、怒っているようにも見える。心を許してくれたとは思えないのだ。

 それもそのはず、久瀬は理解できたと言っただけで、信じると言った訳ではないのだ。

(情報が一元的すぎる今、迂闊に信じる訳にいくか……。今はやむなく味方だと認めるにしても、疑い続ける必要はある……)

 行政官としての実績から来る賢しい知恵がそういう自戒を叫ぶのだが、その賢しさのおかげで、自分はエリートたりえたのだという自覚もあった。
 悪く言えば、久瀬は『頭でっかち』なのだ。

「……ねえ、綾」

 かなり大きなビルの屋上を移動していた途中で、みつきはひそかに久瀬と距離を取り、綾に話しかける。

「あの久瀬って人、どう思う? 私たちの話、いまいち信じてないっぽいんだけど」
「ああ……」

 綾は苦笑して。

「普通の人ならあんなものだと思うわ。むしろ順応してくれている方かもね。……で、みつきはどうなの? さっきは彼を随分気にしていたけれど」
「はぁ? 私、ああいう神経質っぽいタイプ元からニガテだよ。疲れそうだもん」
「あら、割といい男だと思うけれど」
「えー、あんた見る目なさすぎ」

 みつきは、先頭を行く瑤子の後ろ姿に目をやる。

「瑤子は、どうなのかな」
「どうも何も、瑤子が初対面で男性に気を許したことが一度でもあった?」
「……それもそっか」
「まあ、我慢なさい。とにかく彼を霞ヶ関か市ヶ谷の自衛隊にまで連れ帰れば、後はどうとでもなるでしょう。馴れ合う必要はどこにもないのよ」
「ん」
「さ、あとビル三つで監視網をひとまず抜けるはずよ。私が車を停めているところも、すぐ近く……」

 急に、綾の表情が曇る。

「どしたの? 綾」
「……みつき、瑤子と二人で先に下りて」

 緊迫した声音に、先頭の瑤子が思わず振り返る。

「綾さん、何かあったんですか?」
「説明している暇はない。そこの路地に私の車があるから、周囲にいる連中を全員、問答無用で叩き伏せて。方法は二人に任せるわ。……早くっ!」

 これにみつきの顔色が変わった。いつもの軽口を叩くこともなく瑤子の元へ駆け寄り、腰に手を回す。瑤子も応えてみつきの首に両手を回し抱き合う格好になり、転瞬、飛び上がった二人はそのままの勢いで猛然と急降下。ビルの谷間へと姿を消した。

「どうした、さっきの連中に先回りされたのか?」

 久瀬は問うても、綾は答えない。自分の目で確かめるしかなかった。みつきと瑤子が姿を消した方向、ビルの縁へ駆け寄って下を覗き込む。
 訝りながら、久瀬も綾にならってビルの縁へ駆け寄り、そこから路地の方を覗き込む。人気のない一方通行、そこに停車したルビーレッドのフォルクスワーゲン。その後ろにパトカーとレッカー車が停まっていた。その側には二人の警官もいる。
 違法駐車のレッカー移動。そうとしか見えない。
 そこに、みつきと瑤子が飛び降りて──。

「な……っ、ま、待て、何やってるんだ、おいっ!」

 瑤子がいきなり警官へ飛びかかり、蹴り飛ばす。残る一人も同様だ。みつきはパトカーとレッカー車に破砕波を送り込み破壊する。驚いたレッカー車のドライバーが慌てて逃げようとするも、警官と同じように瑤子の手によって気絶させられてしまう。

「……上出来」

 綾の安堵。しかし、久瀬の顔は真っ青だ。

「何が上出来だ! お前ら警官に何てことを!」
「本物の警官じゃないわ」

 綾が真顔で返してきた。久瀬は言葉に詰まる。

「私が車をここへ置いて戻ってくるまでざっと三十分。駐車違反の警告書もチョークのチェックもなしにレッカー移動なんて、この国の警察にしてはひどく乱暴だと思わない?」

 その説明が終わる頃、路地から飛び上がったみつきがビルの屋上へ戻ってきた。

「あれで良かったの? あんたがあんな声出すから、何も考えずにやっちゃったけど」
「いいのよ、ご苦労様。悪いけれど、私と久瀬さんも下まで運んでくれる?」
「はいはい」

 みつきが綾を背負い、久瀬の手を取る。状況に流されるまま屋上から地上へと下りて、三人は瑤子の待つワーゲンの側へと駆け寄った。
 そこで久瀬は息を呑む。すぐ側へうつぶせで倒れている警官、その顔から流れた血が、アスファルトに黒い染みを作っていた。

「すみません、急いだせいで、少し力が……」

 項垂れる瑤子に、綾は微笑んで首を振る。

「歯の二、三本が折れた程度よ、心配ないわ」

 綾がワーゲンのドアを開けて手招き。みつきと瑤子が後部座席へ乗り込む。しかし、それが偽の警官だと信じ切れない久瀬は、ただ呆然と立ち尽くす。

「久瀬さん、早くして」

 促されて仕方なく、久瀬も助手席へ乗り込んだ。最後に綾も運転席に着く。

「殺意も敵意もなかったせいで、寸前までその意味と危険性に気付かなかったの」

 走り始めた車の中、綾が言う。

「爆発物を仕掛けるでもなく、ただレッカー移動というのがね……小憎らしいこと。ひょっとしたら、ロシアのSVRまで動いているのかしら。研究所が統合される前までは、あそこのESP研究ノウハウは世界トップクラスだったものね」
「でも、綾さんのパッシブ・キャリバーをかいくぐるなんて……」

 瑤子の台詞に、綾は苦笑を返す。

「何せ、今は敵の手がかりが足りなさすぎるのが一番の問題。どこのどんな団体がどういう意図で久瀬さんを狙っているのか……最低限それだけでもわかっていれば、私の感じ方も精度が上がってくるし、狭く深くESPを振り分けることもできるのだけれど」

 これを聞いたみつきが、大きな溜め息。

「山形さんさえ、いてくれたらなぁ」

 車内は暫時、重苦しい沈黙に包まれた。
 その沈黙を破って、

「……一つ、訊いていいか」

 久瀬が口を開く。

「さっき、君らが叩きのめした警官……あれは本当に、警官じゃなかったのか」

 場違いとしか思えなかった。
 綾が眉を顰め、みつきは呆気に取られ、瑤子は露骨に顔をしかめる。

「あなた、まだそんなことを気にしていたの」
「まさか、綾が駐車違反を誤魔化すためにやったとでも?」
「まだあたしたちのこと疑ってるんですか」

 三人の物言いに、久瀬は鼻白む。

「い、いや、俺の言いたいのは、そういうことじゃなくてな。昭月の超能力は、その、ESPか? 見落としもあるというんだろう? どこまで信用できるのかわからないのなら、安易な判断は……」

 これを聞いたみつき、眉間に皺を寄せ、

「……要するに、綾にケチつけてるってことですよね」

 刺々しい声音で、そう問い返す。

「だから、そういうことじゃないと言ってるだろう。つまり、その……情報不足の今は、君らも判断を誤る可能性が高いんだよなって確認を……」
「何よそれ。やっぱケチつけてんじゃない」
「いや、だからな。君もわからん奴だな」

 全幅の信頼を寄せる友人を貶されたからか、みつきは半ば感情的になっていた。煽られた久瀬の語気も荒い。

「そこまでにして。今はじゃれあっている時ではないのよ」

 二人の心情を察して、綾が口を挟む。

「久瀬さんの疑問に答えるなら、目に見えないエネルギーや意志の流れを感じることと、それをどう読み解くかは全く別の話よ。多少の狂いは生じて当然なの」
「ああ、やっぱり、そうなのか……」
「でもね、普通の警官とそうでないものを区別する程度でミスはしないわ。私にとっては目で白黒を判別するより簡単なことよ。それと、あと一つ付け加えるなら」
「?」
「そもそもこの騒動は、あなたが山形参事官の指示を正しく守っていれば起きなかった。私たちが面倒に巻き込まれているのはあなたのせい。それでも私たちは、あなたを助けようとして危ない真似もしている。この意味はわかる?」
「…………」
「自分なりに状況を把握しようとして必要以上に疑り深くなっているのはわかる。でも、これ以上素人の論理を振りかざさないで。死にたくないなら黙って私たちに従いなさい」

 綾にしては厳しい物言いだ。
 溜飲を下げたみつきの表情から険が取れ、久瀬は黙り込む。

 けれど、それでもなお。

 久瀬は相も変わらず、一人で頭を働かせていた。

(……おかしい)

 どうにも、一連の流れが腑に落ちないのだ。
 綾の言うこともわかる。確かに自分は素人だ。彼女たちに身を委ねるのが一番だろう。が、何故か納得しきれない。違和感が拭い切れない。

(何かがズレてる……なんだ、この違和感は)

 少しくらい疎まれようと構わない。そんなものは官僚として新人だった頃から日常だった。久瀬が最も恐れるのは、自分一人だけが察したかもしれない過ちを全員で共有できず、判断を誤って取り返しがつかなくなるという最悪の状況である。
 一つの判断が何十万何千万という生命財産を左右する、そういう職場で揉まれて修羅場をくぐってきたのが久瀬だった。素人だから、若手だから、そんな謙遜や遠慮には何の意味もない。彼はそう強く信じている。その自尊心は決して自惚れではない。

 だから、久瀬は頭を振り絞り、拭いきれない違和感の根を突き止めようとした。

 が、その直後。

「……うぎゃあっ!」

 車ががくんと揺れ、久瀬は思い切り舌を噛んだ。綾が急ブレーキを踏んだのだ。タイヤが悲鳴を上げ、車が停まる。まとまりかけていた思考も霧散した。

「な、何だ……? どうかしたのか」
「……まずいわ」

 舌打ち混じりの綾の呟き。

「何が、まずいんだ?」

 久瀬は周囲を見渡す。改修された六本木通りのど真ん中、長い直線。道路そのものが広い上、かなり夜も更けた。道路を流れる車の数も落ち着いている。

「何もないじゃないか……」

 訝しげに久瀬が言った瞬間だった。
 百メートルほど先にある交差点へ、コンテナを満載したトレーラーがかなりのスピードで進入、いきなり大きくハンドルを切る。当然ながら曲がりきれず派手に横転。コンテナが道路上に撒き散らされ、避けきれなかった乗用車が突っ込んでいった。

「何だ……? 事故、か?」
「通れそうもないわね……道を変えましょう。少し運転が荒くなるから気をつけて」

 アクセルを踏み込み後輪を空転させ、急速ターン。

「ぬおわっ?!!!」

 思い切り身体が振られて、久瀬は助手席の窓枠に頭をぶつける。目から火花が出たかと思うほど痛かったが、そんなことには構っていられない。

「お、おい昭月! 逆走してるぞ! スピード違反だ! 対向車とぶつかる!」

 叫んで運転席を見た久瀬は、本当に肝を潰した。
 綾が、目を閉じているのである。

「お、おい……おおおおいっ?! し、死ぬ気か、馬鹿、車を止めろ!! おい、ちょ……」
「うっさい! 綾の邪魔になるから黙ってて!!」

 物凄い剣幕でみつきに怒鳴られた。

「邪魔も何もない! 自殺行為だ、こんなの!!」
「静かにして下さいっ!! 男のくせに、少しはどっしり構えられないんですか?!」

 瑤子にも怒鳴られた。

「喋っているとまた舌を噛むわよ」

 綾にも冷たく突き放された。

「……はい」

 久瀬はもう、黙っているしかない。
 実際、黙っていても問題はなかった。綾の車は対向車を紙一重で華麗に躱し、ドリフトする車体を中央分離帯の切れ目へ滑り込ませて反対車線に乗り、躊躇いもせずに狭い枝道へ飛び込み、あっという間に別の主要道路へ出てしまった。

(目を閉じていて、これか……)

 綾の持つESPの凄まじさを、久瀬は心底思い知らされた。ハンドルとシフトレバーをせわしなく操作し続ける綾の様子を呆然と見つめるしかない。

 超人、という言葉が、否応なしに頭へ浮かぶ。

 そんな彼女らに抗して、普通の人間に過ぎない自分が身の程知らずに意見を述べようとしていたことが恥ずかしくなってきた。この三人の前では、自分などは赤子以下の存在だとしか思えない。

 久瀬の思考が、この時初めて、止まった。

 けれど、その直後。

「……くっ」

 またも綾が急ブレーキを踏む。先刻の繰り返しだ。車の進行方向になる交差点にトラックが進入し、同じように交通事故が発生。道を塞がれてしまった。

「……さすがに、偶然じゃない、よな」

 久瀬が慄然として呟く間にも、どこか別のところで交通事故の起きる音が聞こえてきた。

「妨害工作よ。なりふり構わないのね、全く……」

 綾は車のラグトップを開け空を仰ぐ。久瀬もつられて上を向くと、かなり低空を飛んでいる一機のヘリが目に入った。かなり小型なライトグレーの機体。

「あのヘリ、操縦席がないぞ? ラジコンか?」
「在日米軍の軍用ヘリよ。偵察用の無人機」

 綾の言葉は真実だ。型式番号RQ-8B、名称をファイアー・スカウトⅡ。高性能大型複合センサーを持ち、時速二百キロメートル以上で四時間もの作戦行動を可能とする最新鋭のVT-UAV。

「十分ほど前から張り付いていてね。足止めの指示が正確なのはあれのせいでしょう。私のESPに対抗するにはいい手なのよ、機械は性能の範囲内で稼働を続けるだけで監視をしている意識がない。パイロットの思念波から余計な手がかりを与える危険性も減る。CIAの本気度が伺えるわね」
「こんな時間に東京の上空を米軍の軍用機が勝手に飛んでる……? 馬鹿な、あり得ない。羽田空港や自衛隊基地の航空レーダーにひっかかれば大問題になる。最悪、安保撤回や同盟破棄まで視野に入りかねないぞ。在日米軍もそのくらいはわきまえているはずだ」

 まくしたてた久瀬に、綾は失望の溜め息を一つ。

「ステルス性を有した軍用ヘリの超低空飛行を確実に捕捉できるレーダーなんて、この世界のどこに存在するのかしら。あの高度ならビルの構造物として誤認されるのがオチよ」
「…………」
「いい加減、今がどういう状況なのか理解なさい。払ったリスクに見合うリターンが見込めるのなら、人殺しだろうと、国際法違反だろうと、同盟破棄だろうと何でもありなのよ。それが私たちの生きてきた世界。あなたの常識なんてとっくの昔に通用しないの」

 その台詞は久瀬にとって、最前の自分を批判されたように聞こえた。
 ふいに、後部座席のみつきが立ち上がる。

「飛んでって追い払ってくる」
「止しなさい。時間と労力の無駄。うっかり墜落でもさせたら大惨事なのよ?」

 言う間に、道の真中に停まっている綾の車に向けて方々から乗用車が集まってくる。
 その全てが敵だと綾は見た。ギアを入れて急発進。歩道から路地裏へ飛び込む。

「停まっている訳にはいかないけれど、動き続けたところでいずれ追い込まれるわね。猛獣だらけの檻に放り込まれた気分だわ」
「どうするんだ、これから」
「それを考えているのよ、今。……ッ?!」

 急に、綾が目を見開く。

「みんな、伏せて!」

 みつきと瑤子は即座に綾の指示に従うが、久瀬は一瞬遅れた。慌てた綾が久瀬のネクタイを握って無理矢理頭を下げさせた直後、車のフロントガラスに親指大の穴が空いてヒビが走った。

「な、ななっ、何だ?!」
「あなたが狙撃されたのよ! みつき、道が狭くて避けられないの! 目の前にある雑居ビルの非常階段、三階か四階の辺り! 脅かす程度でいいから!」
「んっ!」

 座席から立ち上がったみつきが開け放しのラグトップから上体を出し、前方のビルに向かって手を突き出す。範囲を広く取った衝撃波が鉄骨で出来た非常階段を直撃、けたたましい音を立てた。その隙に綾はビルの前を通りすぎ、ポリバケツやゴミ袋を跳ね飛ばしながら車を別の道へ飛び込ませる。

 しかしそこでも、綾の車の近くで何かが弾ける音が連続する。跳弾だ。

 綾は再び目を閉じESPに集中する。ビルの内部、あるいは屋上に幾つもの影が動いているのが感じ取れる。この付近だけで三十人は下らない。
 全員が特殊部隊、あるいはその経験者だ。いわゆる軍装ではなく私服姿のようだが、これは夜間とは言えそれなりの人数で町中を移動する必要があるからか。ただ、携えている武器類は暗視装置やスコープ付きの小銃を始め、相当な重装備である。

「罠に誘導されていたの……? これだけの狙撃手をどうやってかき集めたのかしら、目的が一致した情報機関同士で共同作戦を張ったとでもいうの……?」

 ただでさえ車の運転に気を取られている今、差し迫った危機に直結しないところへESPは振り向けられない。しかし、このまま場当たり的な回避や逃走を繰り返しても状況は改善しないだろう。

「……なりふり構っていられないわ。久瀬さん、今から何とか監視の死角を探し出してそこへ飛び込むから、それまでに目を閉じて、イメージして」

 何のことだかわからない久瀬は、目を瞬かせるだけだ。綾は小さく舌打ちを一つ、説明を続ける。

「空を飛ぶイメージをするの、自分の身体一つでラグトップから空へ飛び上がるように。そうしないと、あなたの意志力がみつきのサイコキネシスを邪魔してしまう。かなりのスピードが出ないと周囲の一般人にも見つけられてしまうから」
「ちょ、ちょっと待ってよ綾、それ、私と久瀬さんだけで空に逃げろってこと?!」

 綾の指示を理解したみつきが抗議の声を上げる。

「こんな敵だらけで、綾と瑤子を置いてけないよ!」
「連中が狙っているのは久瀬さんよ。私と瑤子しか車にいないとわかれば追求の手も緩くなるはず。ただ気をつけて、連中はあなたが空を飛べることくらい承知しているわ。今は命令を受けていない連中が……私のESPで敵として感知できない敵が、東京上空にも控えているかもしれな……」

 その時、車の後輪付近がビルの壁に軽く接触した。

「……ッ、く」
「綾、あんた……」
「気にしないで、些細なミスよ。限界にはまだ程遠いから。とにかく今は久瀬さんの安全確保が最優先よ。急ぎなさい!」
「センパイの分まであたしが頑張ります! 綾さんの足手まといにはなりませんから!」

 瑤子も力強く頷いた。

「ああもうっ……久瀬さん、早く目を閉じて、イメージして、イメージよ、イメージ!」
「は、早くって、おい……」
「何度も言わせんなっ! あんたは今この場でロケットになってすんごい勢いで飛んでくの! いい、カウントがゼロになったらシートの上で思い切り飛び上がって! はい、なな、ろく、ごー、よん……」
「な、何だよ、何なんだ……」

 訳がわからないが、とにかく久瀬は目を閉じる。

「……いち、ぜろっ、はい、発射!」

 みつきの掛け声に合わせて、久瀬は言われた通りにシートを蹴って立ち上がった。半ば自棄だ。本当にロケットになったつもりで、イメージの中で空へ向かって飛んでいく。

 空気を切り裂いて、空へ、空へ。
 ただ、ひらすらに、空へ向かう――。

「っ、て……えっ?」

 イメージにしては、やけに感覚がリアルだった。上から下へ猛然と流れる空気の圧力、冷たさ。ふいに消失した車のエンジン音、シートや床の感触。

 まさか、と思いつつ、風圧に怯えながら、久瀬はかすかに目を開ける。

 見えるのは夜の空、漂う雲、蒼く光る上弦の月。

 久瀬、絶句。

 背筋に薄ら寒いものを感じながら下を向く。はるか彼方に東京の夜景。高度にして三百、いや、四百メートルには達しているだろうか。
 そんな場所に、背広姿で身一つ。

「……じょ、冗談じゃないっ、冗談じゃ、っ……」

 イメージも何もかも、その現実の前に吹き飛んだ。途端、上昇を続けていた久瀬の身体が失速する。

「お、おおお、おち、落ちっ……うわああああっ?!!!」

 唐突に、久瀬の脳裏へ走馬燈のように過去の記憶が蘇ってきた。親戚の家にあった池に落ちて着替えがなく、やむなく従姉妹のスカートを履かされた幼年期から始まって、マンガに影響されてバスケ部に入った小学生時代、初めて学年トップに立った得意満面の中学時代、こっそり吸っていた煙草を担任教師に見つけられた高校時代――。
 が、大学時代から官僚時代に入って、三年つきあった彼女がこちらに背を向けたまま「いつもいつも仕事が忙しいって、そんなの信じられない」と別れ話を切り出した頃、両手を広げ受け止める構えをとったみつきの姿が目に入る。
 それはもう、久瀬の目には女神か天使に見えたものだ。

「うあああっ、うわ、うわわわっ……」

 久瀬は必死でみつきの身体にしがみつく。みつきの方でもしっかりと久瀬を抱き留め、腕力プラス若干のアクティブ・キャリバーを送り込んで彼の身体を支える。
 落下が、止まった。

「ぜえっ、ぜえっ……。し、死ぬかと思った……」
「死にませんよ、もう……。まさか途中で久瀬さんだけ失速するとは思わなかったです。すっぽ抜けちゃって焦ったのはこっちですよ? 超能力の才能ゼロですね、ほんとに」
「あ、あああ、あんな思いをするくらいなら、そんな才能なんか欲しくもないっ」
「……それ、私に対するあてつけですか」

 みつきは言いつつ、視線を地上へ向ける。二百メートルほど下に例の無人機らしき機影があった。

(まだ綾の車を追っかけてる感じだけど……。気付かれずに済んだ、の、かな?)

 通常、レーダーやセンサーといった機器類は、人間ほどの大きさしかないものが高速移動する状況を想定して作られていない。空を飛ぶみつきの姿は正体不明の残像や鳥類として誤認されるはずだ。
 もちろん、今の状況から言って一般的な常識が通じると考えるべきではないが、綾は監視の死角を探し当てて指示を出したはずだし、常人よりはるかに鋭いみつきの直感でも差し迫った危機は感じられなかった。

「とにかく久瀬さん、もうちょっと何とかなんないですか? 一人で空に浮かぶようなイメージを続けてくれるだけでも、私の負担は軽くなるんだけど」

 よっこいしょ、と、久瀬を抱きしめる腕をずらしながら言うと、

「こっ、この状況でそんな空想してられるかっ」

 答えた久瀬の声は、まだ震えていた。みつきの首に回された腕にも過ぎるほどの力が籠もっていて、肩も緊張でガチガチになっている。

 いや、抱きつかれているだけならいいのだが。

「あの、えーと……弱ったなあ、もう。あのね、久瀬さん。もう高望みしないから、せめてもうちょっと顔を離して下さい。その、何て言うか、ねえ」
「顔……?」

 ようやく気がついた。みつきの首筋に顔を埋めていた自分。頬を撫でる細い髪の感触とフローラルの匂い。柔らかい肌の感触とその温もり。
 はっとして固く閉じていた目を開くと、キスでもするつもりでなければ有り得ない至近距離で互いの目線が交錯する。どこか引きつったみつきの苦笑が、久瀬の視界いっぱいに広がっている。

「あ……す、すまんっ、つい……」

 久瀬は腕から力を抜き、距離を取ろうとする。
 と同時に、久瀬の身体がみつきの腕の中からずり落ちた。

「く、久瀬さん! 落ちる、落ちちゃうってば!」
「うわわ、うわわっ……」

 二人は慌てて、前以上に硬く抱き合う。

「……う……」
「すまん……」
「別に、いいですけどね……。とほほ……」
「本当に、すまない……」

 その声が神妙だった。心底申し訳ないと思っているのだろう。
 みつきにも、その気持ちは伝わる。セクハラなどとは縁遠い男なのかと想像できれば、逆にみつきの方が申し訳ない気持ちにもなってくる。

「そ、そんな本気で謝らなくても。こっちこそ、可愛くもなんともない女にしがみつかなきゃいけない状況は同情しますし、あはは……はは、はぁ」
「い、いや、君もそこまで卑下するか? こんな状況でなければ充分役得というか……い、いや、変な下心がある訳じゃないぞ」
「ちょ、なな、何ですかソレっ。そりゃ私だって、綾なんぞにしなだれかかるよりは……あ、彼氏いない歴が長いからとか、男なら誰でもいいってことじゃなくてっ」
「さすがにそこまで邪推しないよ。というか、いないのか、彼氏」
「はあ、残念ながら。……久瀬さんは?」
「前の彼女の顔が思い出せない。そのくらい昔だ」

 妙に気まずい空気が流れた。
 二人は暫し、黙り込んで。

「……ところで、これからどうするんだ」
「いや、どうも何も。どうしましょうか」

 オウム返しにされて、久瀬は思わず目を丸くした。

「まさか、ここから先は何も考えてないのか?」
「だって、綾の言う通りにしただけだし」
「そりゃ、彼女が君らの参謀役なのは間違いないんだろうが……。連絡は取れないのか、超能力者だったらテレパシーとか使えるんじゃないのか」
「私はそんなの使えません。綾から上手にコンタクトしてくれたら別だけど。そもそもテレパシーはそんな気軽に使えませんからね? 頭の中に他人の意識が入り込んでくるんだから、そりゃもうべらぼう気持ち悪いんです。下手したら酔ってえろえろ吐きますよ」
「超能力も案外不便なんだな……。なら、携帯は」
「綾は携帯持ってないんですよ。ハイテクとかITとか死ぬほど嫌いだから。私のバッグは綾の車の中です」
「大地は持ってるだろ。最初に連絡したとき、たしか携帯番号だったぞ」
「だから、私は今、携帯持ってないって」
「俺の右腰。ベルトにケースがついてるから」
「あ、そ、そっか。えと、じゃあ失礼して……あ、これかな?」
「そこじゃない、もっと背中側だ。そう、それ」

 抱き合いながら、手探りだけで背広の裾をめくり、ケースを開けて携帯電話を取り出そうとする。

「なんか、窮屈……。指、攣りそう……」

 みつきは見当をつけて、少しだけサイコキネシスを送ってみた。携帯電話はケースから飛び出し、するりと手に収まる──はずだったのだが。

「……あ」
「どうした」
「手、滑っちゃった……落っことしました」
「はあ?」

 慌てて下を見るが、久瀬の携帯電話はもう夜景の中に消えてしまっていた。

「ごごご、ごめんなさい、来月バイト代が入ったらすぐに弁償しますからっ」
「いや、心配するところが違うだろ、君も」
「そっ、そうだ! うわあああやばいっ地上の誰かに当たったら大怪我しちゃうかも!」
「そこでもない、そういうことじゃない……」
「と……とにかく、もうちょっと高度取ります。これじゃ下から見つかるかもだし」
「任せるよ、その辺は俺にはわからんしな」

 そして、二人は東京の上空を移動し始めた。

「風、強いな……。こんなものかもしれないが」
「ある程度は、空気の壁を作って受け流してるんですけど……あ、スピードの問題かな。我慢できないくらい辛かったら言って下さいね」
「ああ、大丈夫だよ。……しかし、本当に凄いな」
「はい?」
「いや、本当に仕掛けも何もなしで、生身の人間が空を飛べるんだなと」

 みつきと話しているうち、気がつけば恐怖も緊張も薄らいでいた。そういう感想も自然と出てくる。

「君にとっては当たり前のことなんだろうが、俺にとっては、今まで信じていた常識が根こそぎ崩壊していく気分だよ。とんでもない夜だ、全く」
「気持ちはわかります。私も子供の頃、最初に空飛べた時はウソみたいだと思ったし」
「そんなものなのか?」
「そんなものです」

 そんな会話をしているうちに、みつきの気分も普段の状態に戻ってきた。
 そこで、何より始めに気になったのは。

「……綾と瑤子、ほんとに大丈夫なのかな」
「心配なのか、やっぱり」
「そりゃそうです。綾のアクティブ・キャリバーはスプーン一本曲げるのが精一杯だし、EXの瑤子は結局、生身の女の子ですよ。いくら時間止められて瞬間移動できても、素手で出来ることはたかが知れてますもん」
「それで、力押しの担当が、君か」
「ま、そういうことですけど」
「……とても、そうは思えないのにな」

 自分の背中に回されている腕は、触れている身体は、ひどく華奢だと感じるから。

「はい?」
「いや、別に」

 みつきは首を巡らせて、はるか下方の地上を見る。

「今、高度どのくらいかなぁ……。地上で何か起きてても、もうわかんないや」
「俺らが飛び上がったのは、あの辺だったか?」
「いや、あっち。無人ヘリっぽいのも飛んでるし」
「ああ……ひっくり返ったトレーラーもいるな」

 そこを基点に、機密情報の漏洩に始まった今夜の騒動をおぼろげながら再確認できた。
 恵比寿のコーヒーショップでの破壊工作、路地裏に流れた血、あちこちで意図的に起こされた事故。おそらく道路の補修も必要だろうし、副次的に発生している渋滞も看過できない。その上、どう考えても日本政府の承諾を得ていない軍用機の運用。

「……全部、俺のせいか。これが」

 今までは、命を狙われているという事実すら素直には認められなかった。どうして自分がこんな目に遭うのかと、そういう被害者意識が心のどこかに居座っていた。
 けれど、安全を得て地上を俯瞰すると、当事者として己の非を認めざるを得なかった。この国の首都でこれほどの無法を許し、市民の安全を脅かしたそのきっかけは、他でもない自分が招いたことなのだから。

「やっぱり、官僚を辞めるべきなんだ、俺は」

 懐に入れたままの退職願を思い出す。

「そんな、いきなり辞めるとか言わなくても。久瀬さん、新人さんでしょ? 少しくらいミスして当たり前ですって。……あ、少しじゃないか、これ」

 冗談半分でそう言っても、久瀬は沈痛な面持ちで黙り込んだままだった。みつきは自分の迂闊な言葉が余計に彼を傷つけたのではないかと思い込む。

「で、でも、きっと山形さんが何とかしてくれますよ。山形さん、いつもぼやいてましたもん。後を引き継がせられる部下が欲しいのに、ろくな人材がいやしないって。それなのに、山形さんの留守を任されて私たちとも会ってるくらいだから、きっと久瀬さん、すごく期待されてるはずです。……多分」

 驚いた久瀬は、思わずみつきの目を覗き込む。

「お、おい、ちょっと待て、何だそれは」
「何だそれとか言われても」
「あのな、違う、違うぞ、君は誤解してる。俺はな、そういうんじゃない……」

 この誤解は看過できなかった。久瀬は時間がかかるのを覚悟で話し始める。上司を殴打して情報調査室へ左遷されてから、懐の退職願を書き上げるまでの経緯を残らず全て。

「だいたい、上司の山形にしたって、俺はずっと無能なハゲオヤジだとしか思ってなかった。正直に言えば今だってそう思ってる。自分の携帯を使った程度でこんな大事になる繊細な仕事で、あのハゲは俺に何一つ説明らしい説明をしなかったんだぞ。参事官の職にいる人間があれなら、内調の危機管理能力そのものも眉唾物だ」
「ハゲハゲって、ひどくないですか、それ……。久瀬さんだってあと十年経ったら、そのフサフサ頭がどうなるかわかったもんじゃないですよ?」
「おいこら、今の話の肝はそこじゃないだろう」
「わかってますよ、わかってますけど……。今度は私の方がピンとこないですよ。内調は無能で左遷で飼い殺し、とか言われても。私なんて今までずっと、めちゃくちゃ偉くて凄い人たちのいるとこなんだろうなー、すごいなー、としか思ってなかったし」
「まさかとは思うが、昭月や大地もそうなのか」
「だと思いますけど?」
「しかし、昭月は俺のことを何もかも見抜いてたぞ。だったら……」
「綾の力はそんな万能じゃないですって。確かに、相当神経すり減らせば他人の頭の中に入り込めるんですけど、これは鉄砲の弾筋を読むよりずっと難しいんです。えーと、ほら、他人のオーラが見えたこと、一度くらいないですか?」
「ない」
「えー。じゃあ、嘘発見器とかでわかるかな。たぶん喩えは合ってると思うけど、脈拍と発汗だけでも結構いろいろわかるでしょ? 簡単に感じ取れるのはそのくらいと思って下さい。……ま、綾の場合、そこからの推理がビシバシ当たるんですけどね」
「…………」

 みつきの説明を元に、久瀬は今までの事態を客観的に捉え直してみた。みつき、綾、瑤子の勘違いと、自分の身に起きた異常事態を一つ一つ検証し直す。

「ちょっと、待ってくれ……」

 久瀬の額に、嫌な汗が浮いてくる。
 今までずっと考えていた、違和感の正体を明らかにする最後のピース。それが填まりかけている。もう一息で結論が出そうな気がする。
 しかもそれは、決して質の良くない──。

「あの、それより……一つ、訊いてもいいですか」

 ふいに、みつきが話しかけてくる。

「久瀬さんって、なんで官僚になったんですか?」

 突拍子もない問いに、久瀬は片眉を吊り上げた。

「あ、いや、閑職に飛ばされたせいでずっと辞める気だったって言うから、何となく気になって……。普通はほら、公務員とか目指す理由の第一って、やっぱ安定してるからじゃないですか」

 話のレベルが井戸端会議にまで一気に落ち込んでいた。久瀬はつい苦笑する。

「そんな生半可な気分で中央官庁に来たら、三日で辞めてると思うがな」
「だからですよ。なんだか想像つかなくて。だって今、何もしなくてもお給料もらってるんでしょ? お仕事だってサボり放題。それって普通、パラダイスでしょ?」
「志の低い奴だな、君も」
「ほっといてください」
「……簡単に言うと、官僚になるくらいしか、道がなかったから」
「簡単すぎて訳わかんないです、もちょっと詳しく」

 久瀬は微かに渋面を作る。昔の青臭くて恥ずかしい話に触れそうだったから。
 けれど、真っ直ぐにこちらを見てくるみつきの目を前にして、つい口が動き始める。

「……自分は何で生まれてきたんだろうって、君はそう考えたことはないか」
「はい?」
「俺はずっと成績だけは良くてな。学生が勉強するのは当然だって疑いもしなかったし、学年トップとか取れば気分も良かった。バンドにハマって中退したクラスメイトも本気でバカだと思ってた」
「なんかヤな奴ぅ。近くにいたら蹴ってるかも」
「昔の話だ、蹴るな。……でもな、大学入ってすぐだ。その中退した奴がプロになってたのを知ったんだ。ル・アストル・ルージュってバンドなんだが」
「へ? そ、それ、私CD持ってますよ?!」
「そうか。結構いい曲出してるもんな。……それで、バカだと見下していた自分とその友達、どっちが正しかったんだろうって本気で考えたんだが」
「そりゃ、間違いなく友達の方……って言っちゃ、久瀬さんに悪いけど……」
「実際、そうだと思うよ、俺も。きっとそいつは、自分のやるべきことがずっと前からわかってたんだろうな。だから、俺みたいな奴に見下されるのを承知で学校もやめて、ひたすら努力を続けて、大勢の人間を感動させてる。本当に凄いよな」
「…………」
「それに比べて、自分は何だと思ったよ。一体何のために生まれてきたのか……いや、そんな問いに答えがないのはわかりきってるから、せめて、夢って言うか、目標かな。どうやって生きればいいのかは見いだしたかったんだ。で……」
「官僚になろうって、思ったんですか」

 久瀬は、自嘲しながら頷いた。

「バカな話だけどな、そういうことさ。何せ霞ヶ関が手がけてる仕事はどれもこれも国単位だ。どんな大企業より話がでかい。ひょっとしたら、日本がもっといい国になるための手助けが自分にもできるんじゃないか……昔のクラスメイトがいろんな奴を感動させてるのと同じくらい、いや、それ以上に、沢山の人のためになるんじゃないかって」
「それで……すんごい頑張ったんだ。震災の復興とかもやって、エリートコースに乗っちゃうくらい」
「……そういうこと、かな」

 言えば、言うほど。
 久瀬は、自分が惨めになってきた。

 結局のところ、久瀬が思うほど世の中は簡単に出来ていなかった。どんなに頑張っても、自分の手柄は責任者である上司、政治家、あるいは政府のものになってしまう。自分はその他大勢の役人の一人に過ぎず、世間の連中は偏見だらけの白い目を向ける。中央官庁の内部にすら、頑張りすぎる自分を疎ましく思っていた連中は少なくなかった。
 もう、官僚はそんなものだと諦めるより他になかった。自分が頑張った分だけ世間の誰かが幸せになっているはずだと自分に言い聞かせて慰めてきた。決して高いとは言えない給料で激務に耐え、少しでもいい仕事をしてみせるとかけずり回ってきた。

 しかしその結果が、情報調査室への左遷である。

 典型的なエリート崩れ。滑稽極まりない半生。たった一度の挫折で生き方すら見失っている情けない自分。挙げ句の果てには命まで狙われている。

「本当に、バカなんだよ、俺は」

 きっと、みつきもそう思っているだろうと、久瀬はまた自嘲する。けれど。

「凄いですね。……凄いですよ」

 真剣極まりない目で、声で、みつきは呟く。

「何でそうなる……。君は話を聞いてたのか」
「聞いてましたよ。一言一句漏らさず」
「…………」
「私、割としょっちゅうこのへん飛んでますけど、復興するの早いなあっていつも感心してたんです。こうね、真っ暗だった地上に、一つずつ灯りが灯っていくの。一日一日、だんだん、だんだん増えていくの。その度に、誰かの家が建て直されて、お店の営業が始まって、街が生き返って、人の笑顔が増えていくような気がするの。っていうか、実際増えてたはずなんです。そんな変化を自分の目で見て実感してたのって、きっと私だけだと思いますけど」
「……いや、わかるような気がするよ」
「そうですか? ああ、そうですよね……だって要するに、街が生き返ったのって、久瀬さんが頑張ったからですもんね。だからなんですよ。凄いです」
「別に、俺がビルや道路を造った訳じゃない」
「復興を進めるためのメンバーとして関わってたのは事実なんでしょ? 官僚さんだったら誰でもそこに参加できたわけでもないんでしょ?」
「…………」
「あのですね、三年前の震災って、私たち三人にとっても特別なんです」
「?」
「あの地震のせいで、世の中大騒ぎになったでしょ? 実は私たち、その時の大混乱のおかげで、研究所から逃げ出すきっかけができたんです」
「ああ、君らが自由を得たのも三年前だ、とか言ってたな」
「私が人助けの真似事を始めたのも、その頃からなんです。みんなが不幸になったおかげで幸せになる可能性を手に入れたって、それ、嫌じゃないですか。だから、って訳じゃないけど……久瀬さんの気持ち、わかる気がするんです。みんなが幸せでありますようにって、そうやって頑張り過ぎちゃうのって」
「いや、別に、俺はそれが仕事だっただけで……」
「でも、その仕事、好きだったんでしょ? やり甲斐だって、あったんでしょ?」
「当たり前だ。でなきゃ五年以上もやってない」
「だったら……なら、何で辞めるんですか、官僚」
「いや、何でとか言われてもな……」
「本当に好きな仕事なら、辞めちゃダメ、絶対」

 真剣なみつきの目が、久瀬の胸元から迫ってくる。

「いいじゃないですか、今は長い休暇だとでも思っておけばいいんです。久瀬さん、立派な仕事してたと思います。誰も評価してくれないんだったら私が評価します。凄いですって。ほんとに。久瀬さんは絶対、ぜえええったいに、世の中に必要な人です」
「こそばゆいこと言うなよ、君も……」
「何なら私、山形さんにもかけあいますよ。久瀬さんを元の職場に戻せないかって。聞き届けてくんないならどっかヤバいとこに亡命するぞとか言えば」
「お、おいおい、物騒なこと言うなよ。それに、参事官には人事権なんてないんだから」
「ああもう何でもいいんですよ、とにかく辞めないで。まず三日我慢して。もし三日我慢できたら次は一週間、その次は一ヶ月、三ヶ月、半年、一年」
「そんなことしても、何も変わらないよ……」
「そんなのわかんないですよ、本当に久瀬さんが一生懸命やってきたんなら、神様だって見捨てたりしませんって。今は巡り合わせが悪いだけ。このまま終わったりしませんから。ほら、禍福はあざなえる縄のごとしって言うでしょ?」
「……難しい言葉、知ってるんだな」
「これでも文系の受験生ですので」
「はは……」
「だから、約束して下さい。辞めないで。ね」

 久瀬の背を抱くみつきの手に、力が籠もる。
 数時間前に知り合ったばかりの自分を、本気で心配してくれているようだった。その思いが、肌の温みに乗って伝わってくるような気がする。
 これを斜に構えて拒むのは、どうも気が引けた。

「……わかったよ、とりあえず三日な」

 渋々言うと、みつきの顔がぱあっと明るくなる。

「ホントに、私、応援してますから! 頑張って下さいね! ……あ、でも、今うっかり殺されちゃったりしたら元も子もないんだっけ、そういえば」
「……そういえば、そうだな……」
「うああ、なんか急にやる気出てきた! ぶっちゃけ今まで嫌々だったけど! なんとしてでも久瀬さんを五体満足のまま仕事場へ帰してあげなきゃ!」
「はは、頼りにしてるよ」
「あれ? 仕事場……そうだ、久瀬さんの仕事場ってどこでしたっけ?」
「? そりゃ当然、霞ヶ関の……」
「あーそうだ! それ! 思い出した! 綾が久瀬さんをそこに連れて行けばこの件も片付くって言ってましたよ! 正確には……そう、霞ヶ関と、市ヶ谷!」
「中央官庁街と防衛庁か。そこなら確かに、トラック突っ込ませたりはしなさそうだな」
「じゃ、急ぎましょう! 今なら誰にも見つかってないっぽいし、安全なうちに!」

 みつきは行くべき方向を見定めようと、眼下の夜景から現在位置を確かめる。

「……いや、待ってくれ、日向」
「はい?」
「これは正直、自信はないんだ。ないんだが……」
「? 何がですか?」

 きょとんとした顔。何を話してもちゃんと聞いていてくれそうな、素直な目。
 久瀬はその気易さに後押しされて、初めて素直に、ずっと考え続けてきた自分の疑問を口にした。

「……今、狙われてるのは、本当に俺なのか?」

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